文禄四年木食応其上人五輪塔

文禄四年木食応其上人五輪塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院弘法大師御廟燈籠堂の間にある御所芝内の西にある。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)

和歌山県立博物館「特別展 没後四〇〇年 木食応其」では、「応其ゆかりの史跡」の中で、次のように紹介されている。
御廟前の御所芝には、文禄四年(1595)に建てられた応其の供養塔(五輪塔)があり、応其の事蹟が記されています。
この碑文によると、応其は、木食行(もくじきぎょう)(五穀・十穀を絶つ修行)といわれる難行を行ったことで有名ですが、この碑文にはその修行の内容も詳しく記されています。
応其は、「木食上人」と呼ばれていますが、その所以はここにあります。応其は、厳しい修行を通じて、多くの信者を得たようです。

上記 水原堯榮氏「高野山金石図説」には、次のとおり五輪塔(高さ九尺六寸)地輪各面の銘文が記されている。
(日野西真定氏「奥院石塔を中心とする高野山信仰の諸問題(其の一)密教文化所収」をもとに一部修正)

夫木食興山上人字深覺諱應其
江州佐々木産少年長儒歌道壮
歳成武勇功而後天正元仲冬五
日三十八歳頻(頃)遁世於南山?求菩
提心受    戒於政遍阿
闍梨入(梵字)秘密心壇徳(續)
諸流血    脉(?)之爲遣弟
初入此山目(日)伏觀僧侶行跡仰見
伽藍傾側忽發可致禮樂於高祖
上世願食木實被麻草屋修難行
毎日山中入堂一石一禮書經無

言閉戸聞持両度乾断食三度沫摩
卅度其外別行等(不)勝計宿不家寝不
荷床見鳥獣無垂屍□廻向有寒
飢□奉則代其苦起居動静不絶
口密    呪懸一衣一鉢
不出(梵字)十餘年□□織
田信    長欲滅當山時
初赴江州?(履)虎尾臨鰐口廻秘計
救其難不夾遇 大政豊臣秀吉
公如股肱臣己入鎮西関左陣代
數萬軍民死動安此山難三箇度

就中最初當所権現修造之刻枕
臨夢中 待出花之種續朝哉
寔至龍華期可継法燈瑞也自是
始金堂大塔奥法?塔等(寺)中山下
(梵字) 諸伽藍無不一
     宇預其修力
於他邦住吉初瀬社(壮)室生安
祥宮吉田清水鎮守東寺誓願塔
堂得長壽院卅三間修復東山之
大佛殿諸宇厳島御山堂大峯宿
其外所々興隆凡七十餘ケ所?

為国民撫育新築池堤塘五十餘所
此等願思則遂企則咸承聞龍王
自授摩尼云云不然豈無量財不
招来廣    大願不幾満乎人
言非(梵字) 造物(功)者無盡
蔵也     偏三地大聖
之後     身□(顧)仍浴恩
澤嘆其行徳弟子某等?奉建
此一基云云
干時文禄第四龍集乙未歳
 仲秋時正日 敬白

(写真撮影禁止区域のため、写真はありません。) → 応其上人ゆかりの地 




TOP PAGE  観光カレンダー
TOP PAGE  观光最佳时期(旅游日历)