応其上人ゆかりの地

応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。

本尊は十一面観音立像である。
橋本市史下巻(昭和50年)文化財編などの資料に、本尊が救世観世音菩薩であると記されている。
和歌山県立博物館「特別展没後四〇〇年 木食応其」(2008年)によると、長谷寺から、稽主勲(けいしゅくん)作の救世観世音菩薩像を応其寺に寄進したとの文書が残されているが、
火災など何らかの要因で救世観世音菩薩像が消失し、17~8世紀に現在の本尊 十一面観音立像が制作されたのではないかと考えられている。→ 葛井寺(稽分会 稽主勲作十一面千手観音像)

応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗性は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を断ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が、根来寺攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。

境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木造応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
なお、山門には慶応4年(1868)1月に十津川郷士が発砲したとされる弾痕が残されている。
これは、旧幕府方に接近する紀州藩を牽制するために、慶応3年(1867)12月に派遣された鷲尾隆聚(わしのおたかつむ)の軍隊(高野山領の郷士、土佐陸援隊、十津川郷士らで構成)が、
鳥羽伏見の戦いの敗残兵が紀州へ逃れたとの報に接し、橋本方面へ出張って応其寺門前で威嚇のため発砲した時のものだとされている。(出典:和歌山県の歴史散歩)

橋本駅北側にある古佐田・橋本墓地には、木食應其上人供養塔がある。
高野山奥の院には、興山応其上人廟興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。山門南に参拝者用の駐車場がある。





興山応其上人廟

興山応其上人廟は、和歌山県高野山奥の院御供所南東にある。
応其(おうご)(1536-1608)は、戦国から安土桃山時代の真言宗の僧である。
諱(いみな)は、日斎、字(あざな)は、順良である。
通称、木食(もくじき)上人、興山(こうざん)上人、木食応其とよばれる。
近江国蒲生郡観音寺に生まれ、近江の佐々木氏、大和の越智氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、天正元年(1573)に高野山に登って出家し、穀物を断って木実果実のみを食し、13年にわたり木食苦行を積んだ。
天正13年(1585)、豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山を攻撃しようとした時、粉河の陣中に応其が参じて秀吉を説得し、その援助によって高野山を復興した。
豊臣秀吉が応其を深く信任して「高野の木食ではなく、木食の高野である」と称したことは、よく知られている。
高野山では客僧の身分であったが、新たに興山寺、青厳寺(せいがんじ)を建立した。
山上の堂宇は金剛峯寺金堂など25棟、近畿はじめ諸国の同宇79棟を再興修理したという。
戦(いくさ)の終結にも尽力し、島津氏の降伏、富田信高の津開城、京極高次の大津開城などで活躍したが、徳川家との関係は良好でなかったため、遺跡を弟子の勢誉に譲り、近江飯道寺に隠棲し、同地で没した。
高野山奥の院には、当地の興山応其上人廟のほか、興山上人一石五輪塔がある。
また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。





興山上人一石五輪塔

興山上人(応其上人)一石五輪塔は、和歌山県高野山奥の院32町石南東にある。
安芸浅野家供養塔の東側で、尾張徳川家供養塔との間に位置している。
総高88.5cmの五輪塔地輪には、次のように刻されている。
天正十九辛卯應其
(梵字)興山上人
春二月初三日壽位

応其(1536-1608)は、天文5年(1536)近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
そのため、興山上人と呼ばれている。
五輪塔の建立された天正19年(1591)は、応其56歳で京都及び高野山で活動していた時期である。

高野山奥の院の頌徳殿南側に、「興山応其上人廟」がある。



高野山奥の院33町石

高野山奥の院33町石は、和歌山県高野山奥の院の豊臣家墓所の北にある。
豊臣家墓所摂津尼崎 青山家供養塔の間に位置しており、33町石の後方には、下野宇都宮藩主 本多正純供養塔がある。

町石地輪には、次のように刻されている。(松山健氏「高野山町石道」参照)
(東面)(梵字)(金剛鉤菩薩)卅三町 興山上人
(北面) 為自他法界平等利益
(南面) 天正十八年辛未七月廿一日
(西面) (梵字)(金剛挙菩薩)

この町石は鎌倉時代以降、約三百年経って再建された唯一のもので、寄進者は興山上人(応其上人)である。
応其は、天正13年(1585)豊臣秀吉が高野山攻略を企図した時、宥全、快言を伴って粉河の陣で秀吉と面会して一山の無事を懇願し、さらに良雲空雄師とともに和議を結ぶ働きをした。



文禄四年木食応其上人五輪塔

文禄四年木食応其上人五輪塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院弘法大師御廟と燈籠堂の間にある御所芝内の西にある。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)

和歌山県立博物館「特別展 没後四〇〇年 木食応其」では、「応其ゆかりの史跡」の中で、次のように紹介されている。
御廟前の御所芝には、文禄四年(1595)に建てられた応其の供養塔(五輪塔)があり、応其の事蹟が記されています。
この碑文によると、応其は、木食行(もくじきぎょう)(五穀・十穀を絶つ修行)といわれる難行を行ったことで有名ですが、この碑文にはその修行の内容も詳しく記されています。
応其は、「木食上人」と呼ばれていますが、その所以はここにあります。応其は、厳しい修行を通じて、多くの信者を得たようです。

上記 水原堯榮氏「高野山金石図説」には、次のとおり五輪塔(高さ九尺六寸)地輪各面の銘文が記されている。
(日野西真定氏「奥院石塔を中心とする高野山信仰の諸問題(其の一)密教文化所収」をもとに一部修正)

夫木食興山上人字深覺諱應其
江州佐々木産少年長儒歌道壮
歳成武勇功而後天正元仲冬五
日三十八歳頻(頃)遁世於南山?求菩
提心受    戒於政遍阿
闍梨入(梵字)秘密心壇徳(續)
諸流血    脉(?)之爲遣弟
初入此山目(日)伏觀僧侶行跡仰見
伽藍傾側忽發可致禮樂於高祖
上世願食木實被麻草屋修難行
毎日山中入堂一石一禮書經無

言閉戸聞持両度乾断食三度沫摩
卅度其外別行等(不)勝計宿不家寝不
荷床見鳥獣無垂屍□廻向有寒
飢□奉則代其苦起居動静不絶
口密    呪懸一衣一鉢
不出(梵字)十餘年□□織
田信    長欲滅當山時
初赴江州?(履)虎尾臨鰐口廻秘計
救其難不夾遇 大政豊臣秀吉
公如股肱臣己入鎮西関左陣代
數萬軍民死動安此山難三箇度

就中最初當所権現修造之刻枕
臨夢中 待出花之種續朝哉
寔至龍華期可継法燈瑞也自是
始金堂大塔奥法?塔等(寺)中山下
(梵字) 諸伽藍無不一
     宇預其修力
於他邦住吉初瀬社(壮)室生安
祥宮吉田清水鎮守東寺誓願塔
堂得長壽院卅三間修復東山之
大佛殿諸宇厳島御山堂大峯宿
其外所々興隆凡七十餘ケ所?

為国民撫育新築池堤塘五十餘所
此等願思則遂企則咸承聞龍王
自授摩尼云云不然豈無量財不
招来廣    大願不幾満乎人
言非(梵字) 造物(功)者無盡
蔵也     偏三地大聖
之後     身□(顧)仍浴恩
澤嘆其行徳弟子某等?奉建
此一基云云
干時文禄第四龍集乙未歳
 仲秋時正日 敬白

(写真撮影禁止区域のため、写真はありません。)


奥の院 一切経蔵

奥の院 一切経蔵は、和歌山県高野山奥の院燈籠堂の東北にある。
資料によっては、「経蔵」「奥院経蔵」「一切経蔵」「金剛峯寺奥院経蔵(おくいんきょうぞう)」とも記されている。

江戸時代に作成された紀伊続風土記には、次のように記されている。
〇経蔵
寶形造 方三間 檜皮葺 高麗本の一切経を収む

経蔵正面の扁額には、次のように記されている。
(表面)
當輪蔵造営同
一切経奉納之
近江国坂田郡
石田治部小輔
藤原朝臣三成
為慈母菩提也

(裏面)
本願木食興山上人深覚房応其
金剛峯寺奥院経蔵之銘
慶長四己亥年三月二十一日記之

このように正面の扁額に、石田三成が母堂の菩提を弔うために、慶長4年(1599)に建立したことが記されている。
また、高野山使僧として豊臣秀吉との交渉にたずさわり、和睦を取りまとめた上で金堂や大塔の再興にあたった木食応其が本願であったことも確認できる。

塗装のない白木で簡素な外観となっているが、内部の壁面には、極彩色で羅漢図が描かれ、柱頭や長押には華やかな彩色が施されている。
間仕切りのない経蔵内部には、本尊文殊菩薩騎獅像を正面に、中央に輪蔵(りんぞう)と呼ばれる経典を納めるための八角形平面の棚が設けられ、高麗版一切経6285帖が納められた。
大正11年(1922)に重要文化財に指定されている。

(写真撮影禁止地域のため、写真はありません。)




蓮華定院

蓮華定院は、和歌山県高野町一心谷にある真言宗の別格本山である。
本尊は、阿弥陀如来(仏工春日作)である。
行勝上人(1130-1217)が、晩年念仏三昧修行に入った奥坊念仏院がはじまりといわれ、建久年間(1190-99)に建立された。
真田昌幸、幸村親子が、関ケ原の戦いに敗れて蟄居を命じられ、最初に身を寄せた場所である。
院内の至る所に、真田氏の旗印六文銭があしらわれている。
その後、妻子との生活が許されたため、当時女人禁制であった高野山から寺領の九度山に移った。
当院には、室町後期から近世末に至る約150通の文書が伝わる。
多くは宿坊証文で、信濃伴野庄の伴野氏、同真田郷の真田昌幸などの文書があり、近世末まで信濃の諸地域の宿坊となっていた。
またキリシタン大名として知られる有馬晴信や浅野幸長の書状なども残されている。
寺宝の藤原国広作の剣は、応其上人(1536-1608)が作らせて蓮華定院に寄進したもので、国の重要文化財に指定されている。
真田幸村自筆書状(焼酎の文1巻、天野詣りことわり状2通)は、幸村が九度山に閑居していた時の書状で、和歌山県の文化財に指定されている。
南海高野山ケーブル高野山駅からバスで「一心口」下車、徒歩1分。




神田応其池

神田応其池は、和歌山県かつらぎ町にある。
神田地蔵堂の東側に小さな池があり、池を開いた応其上人にちなんで神田応其池と呼ばれている。
神田(こうだ)は、当地が丹生都比売神社に供える米を作る場所に定められたために名付けられた。
安土桃山時代に、木食応其として知られた応其上人が、稲作の便を図ってみずからため池を開き、
水神、祈雨神である善女竜王を池の半島に祀ったと伝えられている。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇応其池  梵字岩より一町。神田村の内にあり。応其上人の造るところなり。
山元晃氏によると、応其池にはウツギ(ウノハナ)の咲く前に見事なフジの花が咲き、池面にその美しい姿を映すという。(「高野山町石道の草木花と寄り道」)
→ 高野山町石道を登る



岩倉池応其上人五輪塔

岩倉池応其上人五輪塔は、和歌山県橋本市隅田町垂井の岩倉池南側にある。
応其上人(1536-1608)は、近江の武士の家に生まれたが、天正元年(1573年)高野山で出家し、五穀を断つ木食行に専念して、木食応其とも呼ばれた。
豊臣秀吉の高野攻めに際して、粉河の秀吉の陣へ行き、和議を整えて高野山存亡の危機を救ったことで知られる。
応其上人は、宗教家としてだけでなく、土木事業にも手腕を振るい、各地の大きな業績を残している。
天正15年(1587年)紀の川に長さ130間の橋を架けたほか、橋本市南馬場の平谷池、高野口町応其の引ノ池とともに、岩倉池の改修も行った。
元禄7年(1694年)の記録では、岩倉池の灌漑水田面積は、6ケ村71町3反余に及んだといわれる。
この五輪塔は、用水の恩恵に浴した垂井、中島、芋生、中下、真土、霜草の農民が、応其上人の業績を称えて、天正18年(1590年)に建立したものである。
地輪正面に「天正十八年 木食興山上人 三月吉日」 左側面に「施主 壇衆 隅田各字中 百姓中」と刻されている。
砂岩製で、高さは2.36m、周囲に結界を設けている。昭和56年8月に橋本市文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅からバスで岩倉池下車、徒歩3分。





木食應其上人供養塔

木食應其上人供養塔は、和歌山県橋本市の古佐田・橋本墓地にある。
昭和63年(1988)、應其上人380年法要で建立されたもので、石碑には次のように刻されている。
<宝篋印塔>
(南面)應其上人供養塔
(西面)應其上人三百八十年法要記念
     現住 大 僧 正  松井隆性
     後住 中道観音寺 松井隆憲
     法類 五條西明寺 杉山了信
    昭和六十三年十一月九日 旧暦十月一日建之
(東面)應其寺 檀家一同 (以下略)
<案内石柱>
(西面)橋本の開基
     木食應其上人供養塔
(南面) 應其上人略伝
      應其上人は天文六年(一五三七年)近江国で生まれ三七才の時に高野山に登り木の実や野菜を食べながらひたすら仏道の修行に努めた 
      木食上人といわれる所以である
      豊臣秀吉が高野山攻略を企てたとき上人は一山を代表して秀吉と和睦を交渉し高野山を戦火から救うことができた
      その後秀吉の支援を得て大塔金堂などの造営修理にあたり高野山中興の祖として尊崇されている また各地の土木事業にも尽力した
      余生は生国でおくり慶長十三年十月一日飯道山で七十三才の生涯を閉じた
(東面) 應其上人と橋本
      應其上人は天正十三年(一五八五年)近隣の里人をあつめ古佐田村の荒地を開き家を建て町を造り高野往還の宿所とした
      翌々年上人はここに草庵を建てて住み紀ノ川に長さ一三〇間(約二三五メートル)の橋をかけ交通の便をはかった
      橋本の地名はここから起こったのでありこの草庵は現在の中興山普門院應其寺となっている
      上人はまた豊臣秀吉からこの地に二十七石五斗五升の永代免許を与えられ塩市売買の免許をゆるされ恵比寿神を勧請し或は処々に池や堤を築き救世済民に力を尽くした
      隅田の岩倉池にある五輪塔や清水南馬場の平谷池にある板碑には上人の名が刻まれている
      このようにして近世橋本町の基礎が確立したのである
      應其上人三百八十年忌を記念してこの地に供養塔を建立し橋本開基の上人の遺徳を讃えるものである




橋本橋

橋本橋は和歌山県橋本市の紀の川に架かる橋梁である。
北岸西側に「橋本橋竣工記念碑」(和歌山県知事 仮谷志良書)が建てられ、裏面に橋本橋の沿革と工事概要が記されている。
    橋本橋の沿革
日本最多雨地帯の大台ケ原を水源とする紀の川のこの地に、天正十三年(一五八五年)橋本開基の名僧
木食応其上人によって、はじめて長さ二三五メートル(一三〇間)の橋が架けられた。
以降、高野参詣者の往路として利用され、宿場や塩市が開けて、橋本市発祥の源となった。
 しかし、たび重なる水害により、この橋も流失し それから後は渡し船が往来して、人々に親しまれてきた。
昭和七年に本格的な鉄骨造りの橋が架設され、文化、産業、交通などの要路として重要な役割を果たしてきたが、
このたび紀の川堤防改修工事と並行して、近代的な橋の架け替え工事により、昭和五三年八月に完成した。
    工事概要
事業名称  国道三七一号線橋本橋橋梁整備事業
工事位置  橋本市一丁目橋本市向副地内
総事業費  九億一千万円
橋梁延長  二五六メートル
橋梁幅員  全幅員十一メートル 車道七メートル 歩道各二メートル
工事期間  着工 昭和四六年 月 竣工 昭和五三年八月
事業主体  和歌山県
工事担当  橋本土木事務所




引の池応其上人五輪塔

引の池応其上人五輪塔は、和歌山県橋本市高野口町にある。
引の池は、高野口町応其の西北にある橋本市最大のため池である。
天正17年(1589年)に応其上人の主導によって築造され、現在も応其、伏原、名古曽一帯を灌漑している。
堤高13.5m、堤長187m、総貯水量19万㎥、満水面積は6haである。
引の池の名の由来は、もとあった「鐘の樋池」が潰れたため、新たに手前に引き寄せてつくった池なので「引の池」と呼ぶことにしたといわれる。
上池の西側土手を登ったところに応其上人の五輪塔がある。
一番下の地輪には、次のように記されている。
 (正面) 天正十八年 木食興山上人 九月廿一日
 (側面) 施主四ケ村 奉為息災謝 奉行西山勝家
西側には、寛政四年(1792年)建立の法華経一字一石がある。




応其上人碑

応其上人碑は、和歌山県橋本市の応其小学校校庭にある。
応其(おうご)(1536-1608)は、戦国から安土桃山時代の真言宗の僧である。
諱(いみな)は、日斎、字(あざな)は、順良である。
通称、木食(もくじき)上人、興山(こうざん)上人、木食応其とよばれる。
近江国蒲生郡観音寺に生まれ、近江の佐々木氏、大和の越智氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、天正元年(1573)に高野山に登って出家し、穀物を断って木実果実のみを食し、13年にわたり木食苦行を積んだ。
天正13年(1585)、豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山を攻撃しようとした時、粉河の陣中に応其が参じて秀吉を説得し、その援助によって高野山を復興した。
豊臣秀吉が応其を深く信任して「高野の木食ではなく、木食の高野である」と称したことは、よく知られている。
高野山では客僧の身分であったが、新たに興山寺、青厳寺(せいがんじ)を建立した。
山上の堂宇は金剛峯寺金堂など25棟、近畿はじめ諸国の同宇79棟を再興修理したという。
戦(いくさ)の終結にも尽力し、島津氏の降伏、富田信高の津開城、京極高次の大津開城などで活躍したが、徳川家との関係は良好でなかったため、遺跡を弟子の勢誉に譲り、近江飯道寺に隠棲し、同地で没した。

明治22年(1889)の市町村合併において、名古曽、伏原、小田、浄土寺の4ケ村が合併して応其村となり、村の小学校を応其小学校とした。
その後、野口雨情が同校の校歌を作詞し、2番の歌詞には次のとおり応其上人が歌われている。
 応其小学校 校歌
一 葛城山の山風に はためく校旗つるかしわ
   至誠剛健旨として 我が学舎はここにあり
二 遠き昔をたずぬれば 木食応其上人の
   深き恵みの我が郷土 今に名残りの引の池
三 流れは清き紀の川の 空にまたたく星影や
   高野の山に照る月も 心を磨く鏡なり
四 知識の泉汲まんとて 共に手を取り朝夕に
   通う道辺の若草も 伸びなば花も咲き出でん

校庭北側にある応其上人碑は、昭和24年(1949)に建立されたもので、次のように刻されている。
(南面) 應其上人之碑
       高野山管長 大僧正 榮覺□書(?)
(北面) 昭和二十四年四月建之
     引池水利組合
        記念揚水 (以下略)

高野山管長は、393代座主の関栄覚大僧正である。

昭和30年(1955)、高野口町に応其村と信太村が合併して新「高野口町」が誕生するに伴い、「応其村」の名称が消えることとなったので、引の池の下にある浄土寺地区が「応其」と改称して、現在に至っている。




平谷池応其上人供養碑

平谷池(へえたにいけ)応其上人供養碑は、和歌山県橋本市南馬場にある。
平谷池は、周囲約750m、池堤約100mの池で、伊都郡内の河南では一番大きい池である。
自然石で造られた供養碑には、次のように刻されている。
 「天正十八年(1590)庚寅 當池修營本願木食興山上人應其
  正月十四日 馬場 清水村中」
平谷池の改修工事を終えて、南馬場と清水の村人たちが、応其上人の功績を讃え、後世に残すために建立したといわれており、橋本市の指定文化財となっている。
応其上人は、当池のほかにも、岩倉池、引の池、畑谷池、上村池なども手掛けている。
そのうち、岩倉池や引の池には、上人の功績を記念して五輪塔が建立されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩20分。



畑谷池 興山上人五輪塔

畑谷池 興山上人五輪塔は、和歌山県かつらぎ町妙寺にある。
興山上人 木食応其の事績を記した「諸寺諸社造営目録(慶長12年(1607))」(続宝簡集巻54)には、「妙寺の池 都合弐百石」と記されている。
この「妙寺の池」が、畑谷池に比定されており、大池と記された地図もある。
応永3年(1396)「西飯降村(にしいぶりむら)・東柏木村分田支配切符帳」(御影堂文書)には、「畑谷古池」「畑谷小池」との記述がある。
応其がこの地で活躍する以前から、条里制地割の残る妙寺の田地は、ため池によって灌漑されていたと考られている。
池の中心に向かって北から南へ半島状に突き出た先端部に、かつらぎ町指定文化財(建造物)の興山上人五輪塔がある。
地輪には、次のように刻されている。
(南面)(梵字)興山上人
(西面)経曰
    竜王歓喜降甘雨
    五穀成就万姓安
(東面)国中処処生珍宝
      人鳥□力無怨敵
     天正十七己丑ハ月廿九日
     妙寺惣衆中
      拝




太尾池

太尾池は、和歌山県かつらぎ町笠田東にある。
西側には、太尾池改修記念碑が建立されており、南側にはおいけ公園がある。
かつて「東村」と呼ばれた地域の土地を潤していたもので、戦国時代に「是吉」と呼ばれる有力者によって東村の開発は進んだ。
天平年間には、山手にあった太尾池が拡張された。
応其上人の事績を記した「諸寺諸社造営目録」には、「かせたの池 都合百五十石」と記されていることから、
太尾池が、木食応其の改修した「かせたの池」である可能性が高いと考えられている。








三船神社

三船神社は、和歌山県紀の川市桃山町神田(こうだ)にある神社である。
本殿の祭神は、木霊屋船神(こだまやふねのかみ)、太玉命(ふとだまのみこと)、彦狭知命(ひこさちのみこと)で、摂社には、丹生都比売命(にうつひめのみこと)、高野御子神が祀られている。
太玉命は、高御産巣日神(たかひむすひのかみ)の子で、重要な祭具の創造神である。
彦狭知命は、太玉命の孫 天富命に率いられて山から木を伐採して、神武天皇の正殿を造営したことから楯縫い、木工の神として知られる。
「日本三代実録」貞観三年(861)七月二日条に「授紀伊国正六位上御船神従五位下」とあることから、平安時代にすでに創祀されていたと考えられている。
古来、高野山領荒川(安楽川)荘の鎮守社として、荘内の黒川(現紀の川市桃山町黒川)に鎮座していたが、その後善田(ぜんだ)の奥宮、神田の中宮、古宮を経て、神田の現在地に遷座したといわれている。
紀伊続風土記などでは、当社は天正19年(1591)前後に応其上人によって現在地に移されたと考えられてきたが、
本殿棟札に下遷宮、上遷宮と記されており、天文年間の造営記録「青帳」の記載から、天文5年(1536)に現在地に遷座した可能性も指摘されている。

境内の階段上には、木造檜皮葺三間社流造の本殿と、木造檜皮葺一間社隅木春日造の摂社 丹生明神社本殿、高野明神社本殿がある。
当社には多くの棟札が残されており、この棟札から本殿は天正18年(1590)、摂社2棟は慶長4年(1599)に造営されたことがわかる。
各社殿とも、虎、龍、天女などの彫刻と極彩色が施されており、昭和44年(1969)に国の重要文化財に指定されている。
JR和歌山線下井阪駅下車、徒歩20分。




安楽山 興山寺

安楽山 遍照院 興山寺は、和歌山県紀の川市桃山町最上(もがみ)にある真言宗御室派の寺院である。
江戸時代には、高野山真言宗の興山寺末であったが、昭和27年(1952)に御室派に転派した。
寺伝によると、応其上人が天正18年(1590)に弟子の遍照院覚栄に命じてこの地に僧房を建立し、修禅の寺としたといわれる。
興山寺の東隣には、かつて八幡社(鎮守社)があった。興山上人木食応其が天正16年(1588)に、この八幡社の修造を行った記録が残ることから、八幡社の境内地に興山寺が建立されたと考えられている。
本堂(国の登録有形文化財)には、本尊不動明王像、右脇に弘法大師像、左脇に応其上人坐像(紀の川市指定文化財)が安置されている。
興山寺の寺名は、高野山の「中興開山」からとられたもので、後陽成天皇の勅願寺で、金剛峯寺の前身である興山寺(廃寺)と同年に造営されており関係が深い。
JR和歌山線下井阪駅からバスで北神田下車、徒歩6分。




丹生(たんじょう)神社

丹生(たんじょう)神社は、紀の川市貴志川町にある。
承平5年(935)12月10日郷士藤原宗重が紀伊国伊都郡天野村常磐の丹生都姫神を勧請し、当地の霊岸山に小社を営み産土神としたのが起源である。
高野山からは、寺領として特別の帰敬を受けていたとされている。
正嘉元年(1257)12月10日高野山の寺僧の報賽(ほうさい)により境内を拡張して本殿、幣殿の建立を始め、
文応元年(1260)12月10日に完成した。
このとき、境内に丹生寺も同時に建立された。
元亀3年(1572)に境内が拡張され、社殿も修復された。
文禄4年(1595)高野山の木食応其上人によって神饌料8石、御輿一台が寄進され、神殿修復及び宝蔵が建立された。
明治6年(1873)に村社となり、明治40年(1907)4月に神饌幣帛料供進神社に指定された。

神社境内の北側道路を隔てた山中には、宝篋印塔が残されている。
紀伊続風土記一には、応其上人が丹生神社の境内に宝篋印塔を建て、神社には神供料八石、寺には護摩供料八石を寄附したと記されている。
宝篋印塔の方形基壇部分正面には、「應其上人」と刻されている。




上岩出神社

上岩出神社は、和歌山県岩出市北大池にある神社である。
紀伊続風土記一によると、上岩出神社は白山妙理権現社と記されており、現在も「白山さん」と呼ばれ「子安の神」として信仰を集めている。
祭神は菊理比売命(くくりひめのみこと)である。
社伝によると、大宝元年(701)役行者(役小角)により社が設けられ、蔵王権現としてこの地に鎮座したといわれ、境内社の中には、「蔵王社(ざおうのやしろ)」の名が残されている。
「結綱集」大治元年(1126)条によると、覚鑁が根来山に伽藍を建立するに先立ち、石手(いわで)荘に日本国中の大小の神明一千余社を勧請して神社を建立した。
このとき峩冠偉服の神が現れ勧請神名に漏れたことを告げたので、別に一社を建立してその神を祀ったのが当社という。
一方「紀伊続風土記」では長承2年(1133)覚鑁が越前国の白山権現を勧請し、社領200石を寄進したことに始まるとしている。
天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで焼失したが、文禄3年(1594)に再建された。
現在の本殿は、三間社流造、檜皮葺で和歌山県指定文化財となっている。
本殿棟札には、「施主 興山上人 本願二位公覺榮法印 文禄三年甲午正月十一日」と記されており、応其上人により再建されたことがわかる。
明治42年(1909)に上岩出神社と改称し、一村一社という明治政府の命で、各地区で祀られていた三十余社が合祀され、祭神は二十四柱となった。
境内には、金胎両大日如来信仰に基づくと考えられている正平14年(1359)と正平16年銘の板碑(金剛界大日如来と胎蔵界大日如来の種子が刻まれている)2基(岩出市指定文化財)が建立されており、
社伝によると、正平16年の板碑は、北朝方の降伏を祈願して建てられたものといわれている。
また、天正拾一年(1583)銘の石灯籠も残っている。




遍照山 覚樹院 高野寺

遍照山 覚樹院 高野寺は、和歌山市元寺町北ノ丁にある高野山真言宗の寺院である。
慶長年間(1596-1615)に、勢誉法印(1549-1612)が創建したと伝えられている。
初代紀州藩主 浅野幸長の命によって梁瀬の里(現 かつらぎ町花園梁瀬)から現在地に移された。
紀伊続風土記一には、「真言宗高野山興山寺持輪番所」と記されており、江戸時代覚樹院は、高野山行人方(ぎょうにんがた)が紀伊藩と交渉する際の窓口となった寺であった。
紀伊名所図会には、江戸時代後期の境内の様子が詳しく描かれている。
昭和20年(1945)の空襲で堂舎は焼失したが、その後復興し毎月21日の大祭には多くの参拝者が訪れる。

本尊の厄除弘法大師は、右手に五鈷杵、左手に念珠を持った像高77.7cmの木像である。
紀伊続風土記によると、本尊弘法大師像は、高野山領の梁瀬にあった霊像としている。
また紀伊名所図会では、大師像は保田荘(花園荘の誤り)梁瀬でまつられていた霊像で、慶長年間にこの地を浅野幸長から法印勢誉がもらい、
応其上人がかつて豊臣秀吉から伏見で賜った殿閣を貝塚の卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)(1526-1602)が仲介して施入し、堂舎として大師像を本尊としたという。
紀伊続風土記や紀伊名所図会には、本尊の霊験について、飢饉の際に大師像を祀ると蔓菜(つるな)が生えたことから、不蒔菜(まかずな)の大師と呼ばれたと記されている。

南海電鉄和歌山市駅下車、徒歩10分。





方広寺大仏殿跡

方広寺大仏殿跡は、京都市東山区にある。
天正13年(1585)に関白となった豊臣秀吉は、翌天正14年(1586)奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めた。
大仏の造営を命じられたのは、高野山の客僧であった木食応其(1536-1608)である。
ほどなくこの工事は中止されたが、六波羅の当地に敷地を変更して再開され、文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ18mの木製金漆塗りの大仏坐像が安置された。
ところが、翌年の大地震で大仏が大破、慶長3年(1598)8月18日に豊臣秀吉が病没し、8月22日に秀吉の死去を公表しない中で、大仏殿の完成披露が行われた。
その後、豊臣秀頼が金銅に変えて大仏を復興する途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上した。
慶長17年(1612)に大仏が完成したが、その後鋳造された梵鐘の銘文 「国家安康(こっかあんこう) 君臣豊楽(くんしんほうらく)」が、徳川家を呪詛するものであるとして大坂の陣が起こり、豊臣家の滅亡につながった。
その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798)に落雷で炎上するまで、「京の大仏つぁん」として親しまれた。

巨大な石塁(国史跡)が積まれた「大佛殿石垣」は、方広寺東側に現在も残っている。
大仏の伽藍は西向きで、規模は南北約260m、東西約210mと推定されている。
大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が設けられた。
仁王門跡から西へのびる道が、現在「正面通(しょうめんどおり)」と呼ばれることも方広寺に由来している。
「方広寺」の名称は、東大寺の重要な法会である「方広会(ほごえ)」に因むといわれている。
方広寺東側にある大仏殿跡緑地では、大仏殿建物の規模が南北約90m東西55mで現在の東大寺大仏殿をしのぐ壮大さであったことなど、発掘調査の様子が案内板で紹介されている。




清水寺 子安塔(シカマノ社頭)

音羽山清水寺は、京都市東山区にある北法相宗の大本山である。
奈良時代末期の宝亀9年(778年)、奈良の小島寺の延鎮上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との霊夢をうけ、音羽山腹の滝のほとりで、永年練行中の行叡居士(ぎょうえいこじ)から霊木を授けられ、千手観音像を彫作してまつったのが寺のおこりである。
宝亀11年(780年)に、妻の安産のために鹿を求めてきた坂上田村麻呂が、延鎮上人に生類殺生の非を諭され、妻とともに帰依して仏殿を寄進し、本尊に十一面千手観音を安置した。
寺号は、北観音寺とされたが、音羽の滝に因んで「清水寺」と呼ばれるようになった。
本堂(国宝)は、寛永10年(1633年)に寄棟造り檜皮葺で再建された。有名な「清水の舞台」は本堂の付属建築物で、崖縁に18本の太柱を建て、縦横139本のけやきを組んで床を支える構造になっている。
本堂内々陣に安置されている本尊の十一面千手観世音菩薩は、33年に1度開帳される秘仏で、平成12年3月から12月まで開帳された。
西国三十三所観音霊場第16番札所で、1994年に「古都京都の文化財」を構成する資産の一つとして、世界遺産に登録されている。
本堂の下に清水寺信仰の源となった音羽の滝が流れ落ちており、参拝者が列を作り、三筋の流れを学業上達、縁結び、健康長寿の願いを込めて柄杓で汲む姿が見られる。
寺域は、約13万㎡と広大で、京洛の街を遠望できる舞台からの眺めは京都随一といわれ、春は桜、秋は紅葉の景観を求めて参拝者が絶えることがない。
京都市内主要ターミナルから京都市バスで五条坂、清水道下車徒歩10分。

子安塔(シカマノ社頭)

18世紀後半から19世紀にかけての清水寺の景観を描いた「洛東清水寺惣絵図」が、江戸幕府の大工頭を務めた中井家に残されている。
この絵図には、仁王門前に「泰産寺子安共」と貼紙された三重塔(子安塔)が描かれている。
応其上人の事績を記した「諸寺諸社造営目録」には「清水シカマノ社頭」と記されており、「高野山通年集」には応其が造営した寺社の一つとして、「清水寺の子易塔」が記されている。
鐘楼横には、坂上田村麻呂が狩猟で仕留めた鹿を手厚く埋葬した「鹿間塚(シカマヅカ)」がある。
鹿間塚近くにあった子安塔は寛永6年(1629)の火災で焼失し、その後再建され、明治44年(1911)に現在地(本堂の南谷を隔てた丘上)に移築された。





誓願寺

誓願寺は、京都市中京区新京極桜之町にある浄土宗西山深草派の総本山である。
天智天皇6年(667)に、勅願寺として三論宗の恵隠(えおん)が奈良に創建したのに始まる。
天智天皇が、当時の仏師 賢問子(けんもんし)・芥子国(けしくに)父子に、丈六(約4.8m)の阿弥陀如来坐像の造立を命じて本尊とした。
平安遷都後に京都深草に移り、さらに京都一条小川(こかわ)(上京区元誓願寺町)に移った。
三論宗21世の蔵俊(ぞうしゅん)僧都のとき法然上人源空に帰依して、浄土宗に改宗した。
西山善恵房(せいざんぜんねぼう)証空(しょうくう)上人門下の立信(りゅうしん)が住んで基礎を築き、のち西山深草派の本山となった。
応仁年間(1467-69)兵火にかかったが、文明9年(1477)十穀(じっこく)が再興を図り、一条兼良らの後援もあって同年上棟した。
その後天正13年(1585)豊臣秀吉の命で現在地に移し、側室松丸殿(京極竜子)(京極高次の妹)および京極氏が諸堂を建立した。
その当時は、京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地6500坪には多数の伽藍を有して、十八ケ寺の山内寺院を擁していた。
清少納言、和泉式部、松丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。
寺宝として、木造毘沙門天立像(国重文)、絹本著色誓願寺縁起三幅(国重文)などを有している。

山門を入ってすぐ南側に、扇塚とよばれる五輪塔がある。世阿弥の作と伝えられている謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。
和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、能楽など芸能関係者の信仰が篤くなった。現代でも芸道上達を祈願して扇塚に扇子を奉納する人が少なくない。

誓願寺55世の安楽庵策伝(さくでん)上人(1554-1642)は、教訓的でオチのある話を千余り集めた笑話本「醒睡笑(せいすいしょう)」の作者で、後世に落語のタネ本となったことから、「落語の祖」と称されている。
毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」が営まれ、奉納落語会が開催される。

門前には街頭告知板として使われた「迷子みちしるべ」の石柱がある。南面に「教しゆる方」、北面に「さがす方」と彫られている。江戸末期から明治中期に迷子が社会問題となり、この石に紙を貼って情報交換したといわれる。
仲人役の石ということから、月下氷人石(げっかひょうじんせき)、奇縁(きえん)氷人石とも呼ばれた。

当地北側の三条通と六角通の間にある誓願寺墓地には、次の墓所がある。
安楽庵策伝上人 「落語の祖」
山脇東洋 日本初の解剖を行った医師
解剖供養塔 山脇東洋一門に解剖された14人の霊を合祀
穂井田忠友 江戸後期の古典学者 「正倉院文書正集」45巻を執筆
お半・長右衛門 浄瑠璃歌舞伎「桂川連理柵」のモデル

京都市バス河原町三条下車、徒歩5分。




安祥寺

吉祥山宝塔院安祥寺は、京都市山科区御陵平林町にある高野山真言宗の寺院である。
嘉祥元年(848)仁明天皇の皇后 文徳(もんとく)天皇の母である藤原順子(じゅんし)皇太后の発願により創建された。
開基は弘法大師の孫弟子である入唐留学僧 恵運僧都である。
もとは山上(さんじょう)(上寺)、山下(さんげ)(下寺)の二つの伽藍からなる広大な寺で、塔頭の坊舎七百余りを有し、鏡山陵以東山科一帯の山野を独占したと伝えられている。
平安時代には安祥寺流をおこして事相(じそう)(密教の行法上の作法面)において小野三流の随一寺院となり、法を授け与えた。
その後、応仁・文明の乱では上・下両寺とも兵火に罹り衰退したが、近世に一部が復興して寺観が整えられた。
境内は非公開であるが、本堂、地蔵堂、大師堂、青龍権現社、弁天社、鐘楼堂などがある。
応其上人の「諸寺諸社造営目録」にある「山科青龍権現」は、安祥寺の青龍権現で、棟札に「高野山木食興山上人為大仏殿修造成就奉建立、此社文禄三年」とあることから、文禄3年の(方広寺)大仏殿の完成を祝って応其が社殿を建てたことがわかる。
令和3年(2021)には、青龍大権現宝殿修復落慶法会が行われた。
寺宝として、木造五智如来坐像(国重文、京博寄託)、嘉元4年銘のある梵鐘、十一面観音立像、地蔵菩薩像などを有する。
JR東海道線、地下鉄山科駅下車徒歩10分。




木食応其上人入定窟

木食応其上人入定窟、木食上人五輪塔は、滋賀県甲賀市飯道山にある。
応其上人(1536-1608)は、近江に生まれ、近江の佐々木氏、大和の越智氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、天正元年(1573)に高野山に登って出家した。
穀物を断って木実果実のみを食したので、木食応其と呼ばれる。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の高野山攻撃に当たり、粉河の陣中に出向いて秀吉を説得し、その後、秀吉の信任を得た。高野山の存亡の危機を救い、復興したことから興山上人とも呼ばれる。
徳川家の時代となった後、応其上人は郷里の近江に帰り、飯道山山上の飯道寺で余生を過ごした。
晩年は、自らの死を予感して、石棺を作り、その入定窟で鈴を振って、遷化したと伝えられる。
金剛峯寺年譜に次のように記されている。
慶長13年(1608年)十月一日 木食応其上人 江州飯道寺に於て寂、七十二才。歌あり。
 あ(梵字のア)だいし世を廻り果てよと行月の
  けふの入日の 空にまかせん(梵字のウン)

飯道山の飯道神社から徒歩約10分。麓の飯道神社入口に参拝者用の駐車スペースがあり、階段と山道を歩いて50分。




応其上人の寺社池等造営及び改修

慶長5年10月6日付「木食応其覚書」(応其寺蔵)には、「仰せつけられ候寺社建立九十七ケ所」と記されている。
辻善之助氏著「日本佛教史 近世編之一」でも、「造営の箇所 すべて九十七箇所に及び、」と記され、
次の文書が参考資料として挙げられている。
 高野山文書續宝簡集五十四 応其自記諸寺諸社御造営目録 (下記表参照)
 續宝簡集五十、五十一応其書状
 無言抄
 高野山惣分方風土記
 義演准后日記慶長三年
 三寶院文書慶長三年三月十四日興山上人「御立願條々」
  
紀伊続風土記巻四の応其上人伝では、関わったのは「八十一宇」とされ、
和田昭夫氏「木食応其考」(高野山と真言密教の研究所収)でも、次のように記されている。
 応其の生涯における諸寺社の建立、または修繕の功績は、彼の「諸寺諸社造営目録」、「検校帳」巻二序等によれば
高野山の堂塔寺院二十五宇をはじめとして山上山下八十一宇におよぶといわれている。
その中の著明なものを挙げると、

 地区 諸寺社等   
 高野山 金堂、西御堂、御影堂、
寳藏、御社拝殿、大門
看経所、安楽川経蔵、
一切経蔵、大塔、上御主殿、
勧学院室、南谷大師堂、
興山寺、青厳寺、
奥院燈籠堂、仏具屋 
 
 天 野  山王堂、御主殿、中門、塔  
 寺 領 兵庫寺御主殿、
安楽川御舟宮、同八幡宮、
同いで、名手の池、
かせたの池、妙寺の池、
ひきのゝ池、柏原の池、
菖蒲谷の池 
 
 京 都 大仏殿、同中門、
東寺塔、同講堂、同御影堂、
同内外築地、同灌頂院、
同講堂、同穀屋、同材木屋、
醍醐寺金堂、同塔、
清瀧権現、安祥寺、
誓願寺、清水寺、
嵯峨釈迦堂、三十三間堂、
宇治平等院 
 
 その他 石山寺、東大寺、 室生寺、
堺高野堂、善光寺、
厳島神社、山寺、
吉田宮、住吉三の神殿
 

等が挙げられる。
これに要した費用「抑参拾弐万弐千余石、首尾悉弁済シテ無為無事ニ悉地円満」した事を述べ、
成功の理由として、
秀吉の広大な憐愍の大悲力、
遍照院(覚栄)才覚祈念の誓願力、
応其の信心懇祈の加持力
の三身相応した結果である事を挙げている。(後略)


諸寺諸社造営目録(出典 大日本古文書)
續宝簡集五十四 
諸寺諸社等御造営目録 遍照院
前文 
大いなる事(じ)には広大の心を以て
之を行うべし
中はなる事(じ)は中道の心に任して
之を勤むべし
少しの事(じ)は微少の心に転じて
之を補うべし
大中小相応の心に変改して執行せば
功成り名を遂ぐべし
其の事(じ)に随いて、心を転ぜずんば、
心緒乱れ、身体破れなん
此の如く覚悟任せば、
是を悉地成就と謂ふべし
萬事に望み無からん
即身成仏此の中に有り
此の目録の首尾披見し、
満足せしむより、当座之を書す
応其
1 慶長3年8月22日の御供養也
一 大仏殿 方広寺大仏殿跡 御供養入用迄
都合8万3千石
2 慶長3年8月22日の御供養也
一 善光寺如来宝塔 (善光寺
都合2823石2升8号
3 慶長5年10月
一 大仏殿 御本尊 (方広寺)東山大仏殿跡
都合4373石4斗5升3号
4 文禄5年6月16日
一 同中門
都合8815石4斗8升9号
5 山寺
一 灌頂堂
都合225石
6 一 同塔
都合450石
7
一 護摩堂
都合78石
8 山寺
面の築地
御成の門中門
1150石
下門 客殿
台所 樓下
9 一 豊国御社頭 豊国神社
都合23434石4斗2升
10
一 会所廻廊
都合2736石2斗2升
惣都合127086石5斗1升
11 一 東寺塔 供養入用迄 東寺
都合2560石2斗6升
12 一 同講堂
都合3787石2斗
13 東寺 東寺
一 御影堂上葺
都合750石
14 東寺
一 内外の築地
都合1500石
(東寺 誓願寺 さかい分)
(惣都合参万八千百壱石
四斗八升七合)
15 一 醍醐金堂 醍醐寺
都合1757石5斗5升
15 一 同塔
都合935石5斗3升7合
16 一 誓願寺 供養入用迄 誓願寺
都合4060石6斗9升
17 一 堺高野堂
都合250石2斗5升
18 高野山
一 金堂
都合14464石4斗5合
19 天野
一 山王堂
都合823石3升6合
20 天野
一 中門
都合263石1斗2升5合
21 天野
一 塔
都合346石5升2合
22 高野山
一 西御堂 准胝堂
都合720石7斗6合
23 一 御影堂上葺 御影堂
都合212石8斗8升
24 一 寶藏
都合382石8斗
25 一 御社拝殿 山王院
都合430石9斗9升8合
26 一 大門 高野山大門
都合2870石4升2号
27 一 看経所
都合137石2斗6升1合
28 一 安楽川経蔵 六角経蔵
都合2900石2斗7升
30 一 大塔足代
都合3285石7升
高野同天野ノ分
惣都合27036石6斗4升5合
31 一 年々請取申分
自天正13年
至同18年秋
新御寄進納分
毎年3000石宛
都合18000石之内
天正14年日損
664石3斗2升 免ニ引
残17335石6斗8升
32 一 金堂御造営時
現米 8000石 御寄進
惣都合25335石6斗8升
入地方
從天正13年
至同18年
米定残 合1920石8斗7升2合
惣都合27256石5斗5升2合
右受取申内
33 一 諸造営遣方
27036石6斗4升5合引
定残 219石9斗7合預かり申候
34 一 台所
都合780石
35 一 天野ノ御主殿
都合100石
36 一 兵庫寺御主殿 利生護国寺
都合300石
37 一 大塔二重の足代
都合1500石
38 一 上御主殿 絵書絵具等まて
都合350石
39 一 勧学院室
都合200石
40 一 御乗物 四ツ
都合150石
41 一 南谷大師堂寶形
都合70石
42 慶長2年
一 大塔御造営
都合18097石4斗6升一合
43 一 仏具屋
都合20石
44 安楽川
一 御舟宮 三船神社
都合453石
45 安楽川
一 八幡宮 安楽山 興山寺
都合335石
46 一 安楽川ノいて
都合1500石
47 一 名手ノ池
都合200石
48 一 かせたの池 太尾池
都合150石
49 一 妙寺の池 畑谷池 興山上人五輪塔
都合200石
50 一 ひきのゝ池 引の池応其上人五輪塔
都合220石
51 一 柏原の池
都合45石
52 一 菖蒲谷の池
都合25石
53 一 住吉三ノ神殿
都合2700石
54 東寺
一 灌頂院 同築地門まて
都合420石
55 一 同講堂
都合300石
56 東寺
一 塔柱立
都合200石
57 一 同穀屋
都合260石
58 東寺
一 材木屋
都合70石
59 一 吉田の宮
都合200石
60 一 奈良真言院 東大寺真言院
都合250石
61 一 144石8斗1升8号
萬小遣正月ヨリいままて
折々人に御ふちなと
同さけみそかうしの代
62 一 45石 學侶衆へ関銭
63 一 30石ツツ 細井久介殿に去年も
去々年も御ふち
64 一 480貫232文 正月内衆ノ年玉ヨリはしめて
諸職人の祝言折々御ふち
京大坂ヘ高野ヨリ持テ御出候と
又萬小遣 以上
65 一 25石御衣料 寶亀院へ
66
一 101石6斗7升4合
年中内衆客人
萬之飯米今日迄分
67
一 19石5斗7升1合
少将様 浅野弾正(長政)殿
其外何も湯見廻
音信人足の飯米なとまて
68 白麥
一 40石 年中内衆人足なとの出
入まてかなと入可申候
69 一 210石 橋本 兵庫寺
五條 堺 奈良
安楽川 東寺
此七所の世諦かふと
につもり申候
70 此外上下路銭金銀
糸わたけんふなとの
御遣はつもり申されす
71 方々分
惣都合222416石3斗9升1合
此外
72 一 青厳寺之事
73 一 興山寺之事
74 一 奥院灯籠堂之事
其外所々の拙僧つもり不存候處、
数多御座候間、
大方拾万石も可有之と奉存候、以上
慶長七年三月吉日
遍照院 覚榮(花押) 鳩峰山 妙法院 遍照寺
興山上人様
75 此外嵯峨ノ釈迦堂ノ修理 清凉寺 嵯峨釈迦堂
宇治ノ平等院ノ修理等 平等院
右之他ニ
76 三十三間堂ノ修造
77 山科青瀧権現 吉祥山 宝塔院 安祥寺
78 清水シカマノ社頭 清水寺 子安塔
79 長谷ノ興喜ノ天神
80 宇治伊都ノ郡等ノ池其外所々ノ池堂社等
81 御参 内五箇度、天子ニ奉進献物、
随而天奏諸公家衆ヘノ礼儀等之事、
82 次ニ西国下向、大隅薩摩マテ長途ノ造作、
随而和睦ヲ可申談内存ナレハ、
島津同家老之衆マテモ
種々ノ土産小袖巻物シゝラ
諸道具礼銭以下、不可勝計事、
83 次ニ東国下向ハ、相州武州ニ至ル、
84 太閤御所ヘノ御見廻ナレハ、
諸陣之諸大名知音衆ニ至ルマテ、
音信ノ物共際限無之事、
85 次藝州厳島、
和州室生善如龍王ノ造営、
其外、所々ノ小堂神社ノ修造、
依之諸造営ニ無横難成就円満ノ爲祈念、
数年伊勢多賀等之月参、
愛宕山毎月百味、
猶其外愛染供ノ千座等、
荒神供ナト数千座事、
86 次ニ太閤御所高麗ノ御発足ニ付而、
九州ヘ度々御見廻之使僧、
随而一大事之御在陣ナレハ、爲御祈念、
87 於東寺仁王会之大法、
暦王年中ニ被修以降無之法事也、
同爲御祈誓、於高野山、
五僧ノ大法ヲ修行ス、
何レモ着座ノ公卿ヲ申請、爲勅会之事、
88 次ニ諸堂ノ供養等、悉経 勅諚、
叡慮着座公卿御立給ヘリ、
何レモ遍照院目録爲明鏡事
89 次ニ太閤御所高野御参詣、
愚老ノ寺青厳寺ニ三日ノ御逗留也、
三州(家康)大納言殿、
加州(利家)大納言殿、
蒲生(氏郷)飛騨守、
其外国々ノ諸大名供奉也、
悉拙僧営トシテ、
馬草等ニ至マテ下行ス、
上下一万人ニ及ト云り、
90 次庭儀灌頂修行ス、
古今無比類結構ト沙汰シア(給)ヘリ、
毎度五ノ膳三ノ膳七点心等、
悉木具仕立也、
91 次三師二親乃至法界平等利益ノ爲ニ、
或ハ万僧供養千僧供養非人施行等、
92 或一山皆振舞以下頓写等者、
度々修行ス、
大方目録共在之由奉行共云リ、
93 次ニ石山寺建立、其外於高野、
一切経蔵等、
骨堂穀屋以下作事、
遍照院不存、
又寸隙依無之、
各別ノ作事奉行申遣侍ル
94 源秀ナトモ所々ノ作事、
奏者取次等申付タル事数多在之、
何レモ諸算用目録等在之、
然ニ今諸奉行共ノ算用状ヲ悉勘定シテ
拾万余石也、
雖然十万石ニ接メ詠シテ以テ、
前後惣都合参十二万二千
四百十六石3斗9升一合、
95 此外ニ太閤?大政所殿北政所殿拝領之
法服絹布巻物糸綿、
其外諸大名諸職人ヨリ礼銭道具以下、
又此方ヨリ進物下ス人被遣物共、
一圓ニ不載之、
96 抑参十二万二千余石ノ首尾悉弁済シテ、
無爲無事ニ悉地圓満ノ旨趣ハ、
97 第一ニ太閤御所廣大憐愍ノ大悲力、
第二ニ遍照院(覚栄)才覚祈念ノ誓願力、
第三ニ愚老信心懇祈加持力カ
三身相応シテ自他ノ無辺ノ大願成就ス、
所詮倩案之、
大師大明神千手如意輪等
一切三寶加護シ給ル所也、
98 殊ニハ当社飯道大権現、
山門諸仏諸神哀憐納受給ヒテ、
最極大願万民安楽慈悲道心、
臨終正念往生極楽、
惣而ハ立願状中
諸仏諸神諸大眷属
無相無戯理世撫民弟子カ所願
令成就圓満給ヘ、敬白
99 干時慶長十二丁未年十二月十三日
合勘録畢
東寺大仏石山寺兼本願
高野山金剛峯寺木食興山上人応其(花押)



木食応其覚書(慶長5年10月6日)(応其寺蔵)

大意説明 日本文化史別録三 辻善之助著

 一、今度所々の城噯(あつかい)(講和の斡旋)したこと、差出たる儀にて、曲事の由、内府様(家康)思召さるる由につき拙僧の所存を申上げようと思ふ。
これについては、或るもだしがたき御簾中(奥方)、或は城中の縁故のものより、かやうな取扱ひ斡旋の儀は、木食に似合ひたることであるのに、何とて油断しをるやとて、寺にひきこもりをるを、放逸邪見のやうに、日々夜々方々より承ったのである。また拙僧とても、この如き所爲は、人を助くる誓願、百千の堂塔建立の功徳にもいやまさるべきことと存じ、身命を捨てて、斡旋にかかったのである。

一、或る城では、本丸ばかりで命を助けたるもあり、或る所にては、そのまま城に留まりて和をなしたるもあり、一寸したる足懸(かかり)の城壁をせむるのみにも、五百人、千人の人命を損ずるのである。
これを歎かしく思うて、一城づつなりとも和を講じ、遂には、恐れながら、一天下の総無事、全国の平和を申し調へたい心底を以て、忝くも禁中までも、内々その趣を申上げ置いたのである。

一、さて然らば、何故、伏見城攻めに當って、その和議を調へなかったかと思召あるるであらう。
それは、七月下旬の頃、城中へ矢文を入れて、その和を取り成さうとしたるところ、その返事に、城も寄手もくたびれたる時に、是非とも頼む、今に於ては未だその機会ではないから、和議は調へられないとあったにより、尤もと思ひ、延引したのである。
然るに八月朔日に、思ひもよらず落城した。まことに千萬残り多く思ったが、如何とも致し方がなかったのである。(次四箇条中略)

 右のやうな弁解は、世を捨てた身に入らざることわりである。けれども、このまま朽ち果てては、偏に徒者の如く思はれては、亡き後までも無念の次第であるから、一往は申し入れ置くのである。
年齢は途中で行きころぶまでに迫り、根気はわが言さへ忘るるほどに尽き果て、寺社修造も大方なし了へたのである。
今はただ、秀吉の大誓願であった大仏殿再建の功を終へ、我れ人共に、無上菩提のためと存ずるも、よくよくつたなき望かなと分別仕るのみである。

 身は木食草衣で、浮世の執心は一塵もないのである。ただ一筋に御暇申し捨つるばかりである。


応其上人関係年表

干支 応其
年齢
応其
居所
月日 応其関係事項 一般的事項
天文5年
(1536)
丙申 1 この年 応其 近江蒲生郡で出生
この年 三船神社造営
天文6年
(1537)
2 木下藤吉郎出生
永禄3年
(1543)
25 応其佐々木氏に仕えたか。 鉄砲伝来
桶狭間の合戦
主家没落で
大和高取城主越智氏に仕えたが没落
永禄11年
(1658)
33 織田信長足利義昭を奉じて入京
元亀元年
(1570)
35 姉川の合戦
信長 浅井長政を破る
元亀2年
(1571)
36 9月 信長、比叡山焼打
天正元年
(1573)
38 高野山 3月 応其 高野山で出家剃髪
7月 室町幕府滅ぶ
38 高野山 11月5日 応其 世を出て山に入る
(無言抄奥書)
高野山の衆徒が一味連判をなし
大和宇智郡の坂部(坂合部)、
二見に要害を構え、反信長の気勢を示す
天正2年
(1574)
39 羽柴秀吉、長浜城主
天正6年
(1578)
43 荒木村重の謀反
秀吉 紹巴宅で羽柴千句を主催
天正7年
(1579)
己卯 44 応其 無言抄執筆開始 有岡城開城
荒木一族磔刑
天正8年
(1580)
45 10月2日 西院谷池坊を頼って遁れてきた
荒木村重家臣の探索に来た
境町奉行松井友閑の歩卒32人を殺害
天正9年
(1581)
46 8月 信長が安土城外、
勢州蛛津河原、
京都七条河原で
高野聖1383人を斬殺
天正9年
(1581)
46 8月 信長の高野山攻め
堀久太郎を先陣とし、織田信孝を大将として
高野山を包囲攻略
天正9年
(1581) 
  46   11月  高野山内で信長方に対し各派が対応
十穀断木食(応其上人)が、
小田原弥勒堂で大元帥の大法を厳修
(高野春秋11月16日)
 
天正10年
(1582)
47 6月 本能寺の変
天正10年
(1582)
庚辰 47 応其 無言抄執筆終了
天正11年
(1583)
癸未 48 高野山 6月13日 応其 高野山御社の上遷宮の差配 賤ケ岳の合戦
柴田勝家敗死
天正13年
(1585)
乙酉 50 根来寺 3月22日 応其 秀吉の陣に出向き
高野山の和議斡旋
(紀伊続風土記4)
秀吉 根来攻め
4月10日 秀吉が7か条の要求を出し高野山に帰順を促す
(続宝簡集)
7月16日 金堂の再興が大政所の勤発(二世の祈願)で始まる
8月 紹巴が高野山に滞在
この年 秀吉の母(大政所)が大檀那となり、
快真と応其に大師御廟再興を命じる
天正14年
(1586)
51 大坂城 7月21日 応其が金堂造営の謝礼に、学侶二人と大坂城に登城 秀吉 関白となる
方広寺大仏殿着手
7月29日 秀吉が、高野山の各衆僧に対して、
「高野の木食と存ずべからず、木食が高野と存ずべし」
と申し聞かせたと記した「木食応其覚書」を応其が作成
天正15年
(1587)
52 応其を島津氏に派遣 秀吉 九州平定
この年 橋本に130間の橋を架ける
天正16年
(1588)
53 8月 応其と行人方代表の教栄が
天正9年の信長侵攻の際
功績のあった寺領の武士の論功行賞
(高野山文書)
聚楽第に後陽成天皇行幸
天正17年
(1589)
54 7月19日 応其高野山令17か条を学侶方に示す
「興山上人応其覚書」
天正18年
(1590)
55 応其 興山寺(高野山)
建立
9月 後陽成天皇から「興山上人」の号を賜る
天正19年
(1591)
56 9月 高野山寺領で太閤検地始まる 秀次 関白となる
秀吉「太閤」となる
文禄元年
(1592)
57 秀吉朝鮮出兵
文禄2年
(1593)
58 秀頼誕生
文禄3年
(1594)
59 3月3日 太閤秀吉青巌寺参詣
3月4日 連歌百韻
文禄4年
(1594)
60 7月15日 関白秀次切腹
仲秋 奥の院御所芝に
木食応其上人五輪塔建立
慶長3年
(1598)
63 応其 秀吉の病没を隠し
方広寺大仏殿法要
秀吉病没
慶長4年
(1599)
64 応其 高野山2万石の支配を
行人 文珠院勢誉に譲り高野山を去る
慶長5年
(1600)
65 関ヶ原の合戦
10月9日 応其が、徳川家康に対して、
七カ条の弁明書を作成する。(「木食応其覚書」)
慶長13年
(1608)
73 10月1日 応其 近江の飯道寺で病没
明治40年
(1907)
応其上人300年忌
応其上人銅像建立
(応其寺)
昭和24年
(1949)
4月 応其小学校校庭に
応其上人碑建立
(引池水利組合)


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