応其上人ゆかりの地

応其寺

応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
天正15年(1587)に応其上人は古佐田村の荒れ地を開き、ここに草庵を作った。
この草庵が現在の応其寺で、旧名を惣福寺といった。中興山普門院応其寺と呼ばれる。

応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。山門南に参拝者用の駐車場がある。





興山応其上人廟

興山応其上人廟は、和歌山県高野山奥の院御供所南東にある。
応其(おうご)(1536-1608)は、戦国から安土桃山時代の真言宗の僧である。
諱(いみな)は、日斎、字(あざな)は、順良である。
通称、木食(もくじき)上人、興山(こうざん)上人、木食応其とよばれる。
近江国蒲生郡観音寺に生まれ、近江の佐々木氏、大和の越智氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、天正元年(1573)に高野山に登って出家し、穀物を断って木実果実のみを食し、13年にわたり木食苦行を積んだ。
天正13年(1585)、豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山を攻撃しようとした時、粉河の陣中に応其が参じて秀吉を説得し、その援助によって高野山を復興した。
豊臣秀吉が応其を深く信任して「高野の木食ではなく、木食の高野である」と称したことは、よく知られている。
高野山では客僧の身分であったが、新たに興山寺、青厳寺(せいがんじ)を建立した。
山上の堂宇は金剛峯寺金堂など25棟、近畿はじめ諸国の同宇79棟を再興修理したという。
戦(いくさ)の終結にも尽力し、島津氏の降伏、富田信高の津開城、京極高次の大津開城などで活躍したが、徳川家との関係は良好でなかったため、遺跡を弟子の勢誉に譲り、近江飯導寺に隠棲し、同地で没した。
高野山奥の院には、当地の興山応其上人廟のほか、興山上人一石五輪塔がある。
また、滋賀県甲賀市飯道山には、木食応其上人入定窟がある。


興山上人一石五輪塔

興山上人(応其上人)一石五輪塔は、和歌山県高野山奥の院32町石南東にある。
安芸浅野家供養塔の東側で、尾張徳川家供養塔との間に位置している。
総高88.5cmの五輪塔地輪には、次のように刻されている。
天正十九辛卯應其
(梵字)興山上人
春二月初三日壽位

応其(1536-1608)は、天文5年(1536)近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
そのため、興山上人と呼ばれている。
五輪塔の建立された天正19年(1591)は、応其56歳で京都及び高野山で活動していた時期である。

高野山奥の院の頌徳殿南側に、「興山応其上人廟」がある。


高野山奥の院33町石

高野山奥の院33町石は、和歌山県高野山奥の院の豊臣家墓所の北にある。
豊臣家墓所摂津尼崎 青山家供養塔の間に位置しており、33町石の後方には、下野宇都宮藩主 本多正純供養塔がある。

町石地輪には、次のように刻されている。(松山健氏「高野山町石道」参照)
(東面)(梵字)(金剛鉤菩薩)卅三町 興山上人
(北面) 為自他法界平等利益
(南面) 天正十八年辛未七月廿一日
(西面) (梵字)(金剛挙菩薩)

この町石は鎌倉時代以降、約三百年経って再建された唯一のもので、寄進者は興山上人(応其上人)である。
応其は、天正13年(1585)豊臣秀吉が高野山攻略を企図した時、宥全、快言を伴って粉河の陣で秀吉と面会して一山の無事を懇願し、さらに良雲空雄師とともに和議を結ぶ働きをした。


文禄四年木食応其上人五輪塔

文禄四年木食応其上人五輪塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院弘法大師御廟と燈籠堂の間にある御所芝内の西にある。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)

和歌山県立博物館「特別展没後四〇〇年木食応其」では、「応其ゆかりの史跡」の中で、次のように紹介されている。
御廟前の御所芝には、文禄四年(1595)に建てられた応其の供養塔(五輪塔)があり、応其の事蹟が記されています。
子の碑文によると、応其は、木食行(もくじきぎょう)(五穀・十穀を絶つ修行)といわれる難行を行ったことで有名ですが、この碑文にはその修行の内容も詳しく記されています。
応其は、「木食上人」と呼ばれていますが、その所以はここにあります。応其は、厳しい修行を通じて、多くの信者を得たようです。

(写真撮影禁止区域のため、写真はありません。)


神田応其池

神田応其池は、和歌山県かつらぎ町にある。
神田地蔵堂の東側に小さな池があり、池を開いた応其上人にちなんで神田応其池と呼ばれている。
神田(こうだ)は、当地が丹生都比売神社に供える米を作る場所に定められたために名付けられた。
安土桃山時代に、木食応其として知られた応其上人が、稲作の便を図ってみずからため池を開き、
水神、祈雨神である善女竜王を池の半島に祀ったと伝えられている。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇応其池  梵字岩より一町。神田村の内にあり。応其上人の造るところなり。
→ 高野山町石道を登る


岩倉池応其上人五輪塔

岩倉池応其上人五輪塔は、和歌山県橋本市隅田町垂井の岩倉池南側にある。
応其上人(1536-1608)は、近江の武士の家に生まれたが、天正元年(1573年)高野山で出家し、五穀を断つ木食行に専念して、木食応其とも呼ばれた。
豊臣秀吉の高野攻めに際して、粉河の秀吉の陣へ行き、和議を整えて高野山存亡の危機を救ったことで知られる。
応其上人は、宗教家としてだけでなく、土木事業にも手腕を振るい、各地の大きな業績を残している。
天正15年(1587年)紀の川に長さ130間の橋を架けたほか、橋本市南馬場の平谷池、高野口町応其の引ノ池とともに、岩倉池の改修も行った。
元禄7年(1694年)の記録では、岩倉池の灌漑水田面積は、6ケ村71町3反余に及んだといわれる。
この五輪塔は、用水の恩恵に浴した垂井、中島、芋生、中下、真土、霜草の農民が、応其上人の業績を称えて、天正18年(1590年)に建立したものである。
地輪正面に「天正十八年 木食興山上人 三月吉日」 左側面に「施主 壇衆 隅田各字中 百姓中」と刻されている。
砂岩製で、高さは2.36m、周囲に結界を設けている。昭和56年8月に橋本市文化財に指定されている。
南海高野線橋本駅からバスで岩倉池下車、徒歩3分。





引の池応其上人五輪塔

引の池応其上人五輪塔は、和歌山県橋本市高野口町にある。
引の池は、高野口町応其の西北にある橋本市最大のため池である。
天正17年(1589年)に応其上人の主導によって築造され、現在も応其、伏原、名古曽一帯を灌漑している。
堤高13.5m、堤長187m、総貯水量19万㎥、満水面積は6haである。
引の池の名の由来は、もとあった「鐘の樋池」が潰れたため、新たに手前に引き寄せてつくった池なので「引の池」と呼ぶことにしたといわれる。
上池の西側土手を登ったところに応其上人の五輪塔がある。
一番下の地輪には、次のように記されている。
 (正面) 天正十八年 木食応其上人 九月廿一日
 (側面) 施主四ケ村 奉為息災謝 奉行西山勝家
西側には、寛政四年(1792年)建立の法華経一字一石がある。



平谷池応其上人供養碑

平谷池(へえたにいけ)応其上人供養碑は、和歌山県橋本市南馬場にある。
平谷池は、周囲約750m、池堤約100mの池で、伊都郡内の河南では一番大きい池である。
自然石で造られた供養碑には、次のように刻されている。
 「天正十八年(1590)庚寅 當池修營本願木食興山上人應其
  正月十四日 馬場 清水村中」
平谷池の改修工事を終えて、南馬場と清水の村人たちが、応其上人の功績を讃え、後世に残すために建立したといわれており、橋本市の指定文化財となっている。
応其上人は、当池のほかにも、岩倉池、引の池、畑谷池、上村池なども手掛けている。
そのうち、岩倉池や引の池には、上人の功績を記念して五輪塔が建立されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩20分。


畑谷池 興山上人五輪塔

畑谷池 興山上人五輪塔は、和歌山県かつらぎ町妙寺にある。
興山上人 木食応其の事績を記した「諸寺諸社造営目録(慶長12年(1607))」(続宝簡集巻54)には、「妙寺の池 都合弐百石」と記されている。
この「妙寺の池」が、畑谷池に比定されており、大池と記された地図もある。
応永3年(1396)「西飯降村(にしいぶりむら)・東柏木村分田支配切符帳」(御影堂文書)には、「畑谷古池」「畑谷小池」との記述がある。
応其がこの地で活躍する以前から、条里制地割の残る妙寺の田地は、ため池によって灌漑されていたと考られている。
池の中心に向かって北から南へ半島状に突き出た先端部に、かつらぎ町指定文化財(建造物)の興山上人五輪塔がある。
地輪には、次のように刻されている。
(南面)(梵字)興山上人
(西面)経曰
    竜王歓喜降甘雨
    五穀成就万姓安
(東面)国中処処珍宝
      人鳥□力無怨敵
     天正十七己丑ハ月廿九日
     妙寺惣衆中
      拝



三船神社

三船神社は、和歌山県紀の川市桃山町神田(こうだ)にある神社である。
本殿の祭神は、木霊屋船神(こだまやふねのかみ)、太玉命(ふとだまのみこと)、彦狭知命(ひこさちのみこと)で、摂社には、丹生都比売命(にうつひめのみこと)、高野御子神が祀られている。
太玉命は、高御産巣日神(たかひむすひのかみ)の子で、重要な祭具の創造神である。
彦狭知命は、太玉命の孫 天富命に率いられて山から木を伐採して、神武天皇の正殿を造営したことから楯縫い、木工の神として知られる。
「日本三代実録」貞観三年(861)七月二日条に「授紀伊国正六位上御船神従五位下」とあることから、平安時代にすでに創祀されていたと考えられている。
古来、高野山領荒川(安楽川)荘の鎮守社として、荘内の黒川(現紀の川市桃山町黒川)に鎮座していたが、その後善田(ぜんだ)の奥宮、神田の中宮、古宮を経て、神田の現在地に遷座したといわれている。
紀伊続風土記などでは、当社は天正19年(1591)前後に応其上人によって現在地に移されたと考えられてきたが、
本殿棟札に下遷宮、上遷宮と記されており、天文年間の造営記録「青帳」の記載から、天文5年(1536)に現在地に遷座した可能性も指摘されている。

境内の階段上には、木造檜皮葺三間社流造の本殿と、木造檜皮葺一間社隅木春日造の摂社 丹生明神社本殿、高野明神社本殿がある。
当社には多くの棟札が残されており、この棟札から本殿は天正18年(1590)、摂社2棟は慶長4年(1599)に造営されたことがわかる。
各社殿とも、虎、龍、天女などの彫刻と極彩色が施されており、昭和44年(1969)に国の重要文化財に指定されている。
JR和歌山線下井阪駅下車、徒歩20分。



安楽山 興山寺

安楽山 遍照院 興山寺は、和歌山県紀の川市桃山町最上(もがみ)にある真言宗御室派の寺院である。
江戸時代には、高野山真言宗の興山寺末であったが、昭和27年(1952)に御室派に転派した。
寺伝によると、応其上人が天正18年(1590)に弟子の遍照院覚栄に命じてこの地に僧房を建立し、修禅の寺としたといわれる。
興山寺の東隣には、かつて八幡社(鎮守社)があった。興山上人木食応其が天正16年(1588)に、この八幡社の修造を行った記録が残ることから、八幡社の境内地に興山寺が建立されたと考えられている。
本堂(国の登録有形文化財)には、本尊不動明王像、右脇に弘法大師像、左脇に応其上人坐像(紀の川市指定文化財)が安置されている。
興山寺の寺名は、高野山の「中興開山」からとられたもので、後陽成天皇の勅願寺で、金剛峯寺の前身である興山寺(廃寺)と同年に造営されており関係が深い。
JR和歌山線下井阪駅からバスで北神田下車、徒歩6分。




上岩出神社

上岩出神社は、和歌山県岩出市北大池にある神社である。
紀伊続風土記一によると、上岩出神社は白山妙理権現社と記されており、現在も「白山さん」と呼ばれ「子安の神」として信仰を集めている。
祭神は菊理比売命(くくりひめのみこと)である。
社伝によると、大宝元年(701)役行者(役小角)により社が設けられ、蔵王権現としてこの地に鎮座したといわれ、境内社の中には、「蔵王社(ざおうのやしろ)」の名が残されている。
「結綱集」大治元年(1126)条によると、覚鑁が根来山に伽藍を建立するに先立ち、石手(いわで)荘に日本国中の大小の神明一千余社を勧請して神社を建立した。
このとき峩冠偉服の神が現れ勧請神名に漏れたことを告げたので、別に一社を建立してその神を祀ったのが当社という。
一方「紀伊続風土記」では長承2年(1133)覚鑁が越前国の白山権現を勧請し、社領200石を寄進したことに始まるとしている。
天正13年(1585)羽柴秀吉の紀州攻めで焼失したが、文禄3年(1594)に再建された。
現在の本殿は、三間社流造、檜皮葺で和歌山県指定文化財となっている。
本殿棟札には、「施主 興山上人 本願二位公覺榮法印 文禄三年甲午正月十一日」と記されており、応其上人により再建されたことがわかる。
明治42年(1909)に上岩出神社と改称し、一村一社という明治政府の命で、各地区で祀られていた三十余社が合祀され、祭神は二十四柱となった。
境内には、金胎両大日如来信仰に基づくと考えられている正平14年(1359)と正平16年銘の板碑(金剛界大日如来と胎蔵界大日如来の種子が刻まれている)2基(岩出市指定文化財)が建立されており、
社伝によると、正平16年の板碑は、北朝方の降伏を祈願して建てられたものといわれている。
また、天正拾一年(1583)銘の石灯籠も残っている。



遍照山 覚樹院 高野寺

遍照山 覚樹院 高野寺は、和歌山市元寺町北ノ丁にある高野山真言宗の寺院である。
慶長年間(1596-1615)に、勢誉法印(1549-1612)が創建したと伝えられている。
初代紀州藩主 浅野幸長の命によって梁瀬の里(現 かつらぎ町花園梁瀬)から現在地に移された。
紀伊続風土記一には、「真言宗高野山興山寺持輪番所」と記されており、江戸時代覚樹院は、高野山行人方(ぎょうにんがた)が紀伊藩と交渉する際の窓口となった寺であった。
紀伊名所図会には、江戸時代後期の境内の様子が詳しく描かれている。
昭和20年(1945)の空襲で堂舎は焼失したが、その後復興し毎月21日の大祭には多くの参拝者が訪れる。

本尊の厄除弘法大師は、右手に五鈷杵、左手に念珠を持った像高77.7cmの木像である。
紀伊続風土記によると、本尊弘法大師像は、高野山領の梁瀬にあった霊像としている。
また紀伊名所図会では、大師像は保田荘(花園荘の誤り)梁瀬でまつられていた霊像で、慶長年間にこの地を浅野幸長から法印勢誉がもらい、
応其上人がかつて豊臣秀吉から伏見で賜った殿閣を貝塚の卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)(1526-1602)が仲介して施入し、堂舎として大師像を本尊としたという。
紀伊続風土記や紀伊名所図会には、本尊の霊験について、飢饉の際に大師像を祀ると蔓菜(つるな)が生えたことから、不蒔菜(まかずな)の大師と呼ばれたと記されている。

南海電鉄和歌山市駅下車、徒歩10分。





木食応其上人入定窟

木食応其上人入定窟、木食上人五輪塔は、滋賀県甲賀市飯道山にある。
応其上人(1536-1608)は、近江に生まれ、近江の佐々木氏、大和の越智氏に武士として仕えたが、主家の滅亡後、天正元年(1573)に高野山に登って出家した。
穀物を断って木実果実のみを食したので、木食応其と呼ばれる。
天正13年(1585)、豊臣秀吉の高野山攻撃に当たり、粉河の陣中に出向いて秀吉を説得し、その後、秀吉の信任を得た。高野山の存亡の危機を救い、復興したことから興山上人とも呼ばれる。
徳川家の時代となった後、応其上人は郷里の近江に帰り、飯道山山上の飯道寺で余生を過ごした。
晩年は、自らの死を予感して、石棺を作り、その入定窟で鈴を振って、遷化したと伝えられる。
金剛峯寺年譜に次のように記されている。
慶長13年(1608年)十月一日 木食応其上人 江州飯道寺に於て寂、七十二才。歌あり。
 あ(梵字のア)だいし世を廻り果てよと行月の
  けふの入日の 空にまかせん(梵字のウン)

飯道山の飯道神社から徒歩約10分。飯道神社入口に参拝者用の駐車スペースがある。



諸寺諸社造営目録(出典 大日本古文書)
續宝簡集五十四 
前文 (略)
1 慶長3年8月22日の御供養也
一 大仏殿 御供養入用迄
都合8万3千石
2 慶長3年8月22日の御供養也
一 善光寺如来宝塔
都合2823石2升8号
3 慶長5年10月
一 大仏殿 御本尊
都合4373石4斗5升3号
4 文禄5年6月16日
一 同中門
都合8815石4斗8升9号
5 山寺
一 灌頂堂
都合225石
6 一 同塔
都合450石
7
一 護摩堂
都合78石
8 山寺
面の築地
御成の門中門
1150石
下門 客殿
台所 樓下
9 一 豊国御社頭
都合23434石4斗2升
10
一 会所廻廊
都合2736石2斗2升
惣都合127086石5斗1升
11 一 東寺塔 供養入用迄
都合2560石2斗6升
12 一 同講堂
都合3787石2斗
13 東寺
一 御影堂上葺
都合750石
14 東寺
一 内外の築地
都合1500石
15 一 醍醐金堂
都合1757石5斗5升
15 一 同塔
都合935石5斗3升7合
16 一 誓願寺 供養入用迄
都合4060石6斗9升
17 一 堺高野堂
都合250石2斗5升
18 高野山
一 金堂
都合14464石4斗5合
19 天野
一 山王堂
都合823石3升6合
20 天野
一 中門
都合263石1斗2升5合
21 天野
一 塔
都合346石5升2合
22 高野山
一 西御堂
都合720石7斗6合
23 一 御影堂上葺
都合212石8斗8升
24 一 寶藏
都合382石8斗
25 一 御社拝殿
都合430石9斗9升8合
26 一 大門
都合2870石4升2号
27 一 看経所
都合137石2斗6升1合
28 一 安楽川経蔵
都合2900石2斗7升
30 一 大塔足代
都合3285石7升
高野同天野ノ分
惣都合27036石6斗4升5合
31 一 年々請取申分
自天正13年
至同18年秋
新御寄進納分
毎年3000石宛
都合18000石之内
天正14年日損
664石3斗2升 免ニ引
残17335石6斗8升
32 一 金堂御造営時
現米 8000石 御寄進
惣都合25335石6斗8升
入地方
從天正13年
至同18年
米定残 合1920石8斗7升2合
惣都合27256石5斗5升2合
右受取申内
33 一 諸造営遣方
27036石6斗4升5合引
定残 219石9斗7合預かり申候
34 一 台所
都合780石
35 一 天野ノ御主殿
都合100石
36 一 兵庫寺御主殿
都合300石
37 一 大塔二重の足代
都合1500石
38 一 上御主殿 絵書絵具等まて
都合350石
39 一 勧学院室
都合200石
40 一 御乗物 四ツ
都合150石
41 一 南谷大師堂寶形
都合70石
42 慶長2年
一 大塔御造営
都合18097石4斗6升一合
43 一 仏具屋
都合20石
44 安楽川
一 御舟宮
都合453石
45 安楽川
一 八幡宮
都合335石
46 一 安楽川ノいて
都合1500石
47 一 名手ノ池
都合200石
48 一 かせたの池
都合150石
49 一 妙寺の池
都合200石
50 一 ひきのゝ池
都合220石
51 一 柏原の池
都合45石
52 一 菖蒲谷の池
都合25石
53 一 住吉三ノ神殿
都合2700石
54 東寺
一 灌頂院 同築地門まて
都合420石
55 一 同講堂
都合300石
56 東寺
一 塔柱立
都合200石
57 一 同穀屋
都合260石
58 東寺
一 材木屋
都合70石
59 一 吉田の宮
都合200石
60 一 奈良真言院
都合250石
61 一 144石8斗1升8号
萬小遣正月ヨリいままて
折々人に御ふちなと
同さかてみそかうしの代
62 一 45石 學侶衆へ関銭
63 一 30石ツツ 細井久介殿に去年も
去々年も御ふち
64 一 480貫232文 正月内衆ノ年玉ヨリはしめて
諸職人の祝言折々御ふち
京大坂ヘ高野ヨリ持テ御出候と
又萬小遣 以上
65 一 25石御衣料 寶亀院に
66
一 101石6斗7升4合
年中内衆客人
萬之飯米今日迄分
67
一 19石5斗7升1合
少将様 浅野弾正(長政)殿
其外何も湯見廻
音信人足の飯米なとまて
68 白麥
一 40石 年中内衆人足なとの出
入まてかふと入可申候
69 一 210石 橋本 兵庫寺
五條 堺 奈良
安楽川 東寺
此七所の世諦ろふと
につもり申候
70 此外上下路銭金銀
糸わたけんふなとの
御遣はつもり申されす
71 方々分
惣都合222416石3斗9升1合
此外
72 一 青厳寺之事
73 一 興山寺之事
74 一 奥院灯籠堂之事
其外所々の拙僧つもり不存候處、
数多御座候間、
大方拾万石も可有之と奉存候、以上
慶長七年三月吉日
遍照院 覚榮(花押)
興山上人様
75 此外嵯峨ノ釈迦堂ノ修理
宇治ノ平等院ノ修理等
右之他ニ
76 三十三間堂ノ修造
77 山科青瀧権現
78 清水シカマノ社頭
79 長谷ノ興喜ノ天神
80 宇治伊都ノ郡等ノ池其外所々ノ池堂社等
81 御参 内五箇度、天子ニ奉進献物、
随而天奏諸公家衆ヘノ礼儀等之事、
82 次ニ西国下向、大隅薩摩マテ長途ノ造作、
随而和睦ヲ可申談内存ナレハ、
島津同家老之衆マテモ
種々ノ土産小袖巻物シゝヲ
諸道具礼銭以下、不可勝計事、
83 次ニ東国下向ハ、相州武州ニ至ル、
84 太閤御所ヘノ御見廻ナレハ、
諸陣之諸大名知音衆ニ至ルマテ、
音信ノ物共際限無之事、
85 次藝州厳島、
和州室生善如龍王ノ造営、
其外、所々ノ小堂神社ノ修造、
依之諸造営ニ無横難成就円満ノ爲祈念、
数年伊勢多賀等之月参、
愛宕山毎月百味、
猶其外愛染供ノ千座等、
荒神供ナト数千座事、
86 次ニ太閤御所高麗ノ御発足ニ付而、
九州ヘ度々御見廻之使僧、
随而一大事之御在陣ナレハ、爲御祈念、
87 於東寺仁王会之大法、
暦王年中ニ被修以降無之法事也、
同爲御祈誓、於高野山、
五僧ノ大法ヲ修行ス、
何レモ着座ノ公卿ヲ申請、爲勅会之事、
88 次ニ諸堂ノ供養等、悉経 勅諚、
叡慮着座公卿御立給ヘリ、
何レモ遍照院目録爲明鏡事
89 次ニ太閤御所高野御参詣、
愚老ノ寺青厳寺ニ三日ノ御逗留也、
三州(家康)大納言殿、
加州(利家)大納言殿、
蒲生(氏郷)飛騨守、
其外国々ノ諸大名供奉也、
悉拙僧営トシテ、
馬草等ニ至マテ下行ス、
上下一万人ニ及ト云り、
90 次庭儀灌頂修行ス、
古今無比類結構ト沙汰シアヘリ、
毎度五ノ膳三ノ膳七点心等、
悉木具仕立也、
91 次三師二親乃至法界平等利益ノ爲ニ、
或ハ万僧供養千僧供養非人施行等、
92 或一山皆振舞以下頓写等者、
度々修行ス、
大方目録共在之由奉行共云リ、
93 次ニ石山寺建立、其外於高野、
一切経蔵等、
骨堂穀屋以下作事、
遍照院不存、
又寸隙依無之、
各別ノ作事奉行申遣侍ル
94 源秀ナトモ所々ノ作事、
奏者取次等申付タル事数多在之、
何レモ諸算用目録等在之、
然ニ今諸奉行共ノ算用状ヲ悉勘定シテ
拾万余石也、
雖然十万石ニ接メ詠シテ以テ、
前後惣都合参十二万二千
四百十六石3斗9升一合、
95 此外ニ太閤?大政所殿北政所殿拝領之
法服絹布巻物糸綿、
其外諸大名諸職人ヨリ礼銭道具以下、
又此方ヨリ進物下ス人被遣物共、
一圓ニ不載之、
96 抑参十二万二千余石ノ首尾悉弁済シテ、
無爲無事ニ悉地圓満ノ旨趣ハ、
97 第一ニ太閤御所廣大憐愍ノ大悲力、
第二ニ遍照院(覚栄)才覚祈念ノ誓願力、
第三ニ愚老信心懇祈加持力カ
三身相応シテ自他ノ無辺ノ大願成就ス、
所詮倩案之、
大師大明神千手如意輪等
一切三寶加護シ給ル所也、
98 殊ニハ当社飯道大権現、
山門諸仏諸神哀憐納受給ヒテ、
最極大願万民安楽慈悲道心、
臨終正念往生極楽、
惣而ハ立願状中
諸仏諸神諸大眷属
無相無戯理世撫民弟子カ所願
令成就圓満給ヘ、敬白
99 干時慶長十二丁未年十二月十三日
合勘録畢
東寺大仏石山寺兼本願
高野山金剛峯寺木食興山上人応其(花押)

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