お半長右衛門の墓

お半長右衛門の墓は、京都市誓願寺墓所にある。
長右衛門は、柳馬場押小路虎石町の帯屋長右衛門、お半は近くの信濃屋の娘で、二人は桂川で心中した。
この心中事件をもとに、菅専助(すがせんすけ)が世話物浄瑠璃「桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)」を書き、安永5年(1776)に初演された。
浄瑠璃「曽根崎模様」(1771)をはじめいくつかの先行作を経てつくられたという。

誓願寺本堂の東にある誓願寺宗務所で住所氏名を記載し、「誓願寺墓地参拝許可証」を持参して、約50m北側にある誓願寺墓所に行くと、墓所の位置を教えてもらえる。
桂川連理柵の史跡 お半長右衛門供養塔が桂川左岸にある。

上方落語の「胴乱の幸助」では、浄瑠璃 「お半長」 桂川連理柵「帯屋の段」の次のくだりが取り上げられている。
柳の馬場を。押小路。軒を並べし。呉服店。現銀商ひかけ硯。虎石町の西側に 主は帯屋長右衛門。
井筒に帯の暖簾(のうれん)を かけ値如才もないぎのお絹。(中略)
長右衛門は女房を引き退け。「母者人に向こうて慮外な悪口(あっこう)。いひやまぬか。置きおらぬか。」
(お絹)「何いはしやんす。礼儀も人によるわいな。なんぼ結構にあしらうても。噛み分けのある母御ぢやない。エエわしや腹が立つ。腹が立つ。腹が立つ。」と。身を震はして無念泣き。
心根ふびんと引き寄せて。(長右衛門)「道理ぢや 道理ぢや。ガコリャ。親ぢやわやい。親ぢやわやい。親といふ字で何事も。虫を死なす胸の内。思ひやつてくれ。女房ども」(後略)
(出典 新潮日本古典集成(第70回)浄瑠璃集 土田衛)



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