誓願寺

誓願寺は、京都市中京区新京極桜之町にある浄土宗西山深草派の総本山である。
天智天皇6年(667)に、勅願寺として三論宗の恵隠(えおん)が奈良に創建したのに始まる。
天智天皇が、当時の仏師 賢問子(けんもんし)・芥子国(けしくに)父子に、丈六(約4.8m)の阿弥陀如来坐像の造立を命じて本尊とした。
平安遷都後に京都深草に移り、さらに京都一条小川(こかわ)(上京区元誓願寺町)に移った。
三論宗21世の蔵俊(ぞうしゅん)僧都のとき法然上人源空に帰依して、浄土宗に改宗した。
西山善恵房(せいざんぜんねぼう)証空(しょうくう)上人門下の立信(りゅうしん)が住んで基礎を築き、のち西山深草派の本山となった。
応仁年間(1467-69)兵火にかかったが、文明9年(1477)十穀(じっこく)が再興を図り、一条兼良らの後援もあって同年上棟した。
その後天正13年(1585)豊臣秀吉の命で現在地に移し、側室松丸殿(京極竜子)(京極高次の妹)および京極氏が諸堂を建立した。
その当時は、京都有数の巨刹の規模を有し、表門は寺町六角に面し、裏門は三条通に北面し、境内地6500坪には多数の伽藍を有して、十八ケ寺の山内寺院を擁していた。
清少納言、和泉式部、松丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺としても名高い。
寺宝として、木造毘沙門天立像(国重文)、絹本著色誓願寺縁起三幅(国重文)などを有している。

山門を入ってすぐ南側に、扇塚とよばれる五輪塔がある。世阿弥の作と伝えられている謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語る。
和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから、能楽など芸能関係者の信仰が篤くなった。現代でも芸道上達を祈願して扇塚に扇子を奉納する人が少なくない。

誓願寺55世の安楽庵策伝(さくでん)上人(1554-1642)は、教訓的でオチのある話を千余り集めた笑話本「醒睡笑(せいすいしょう)」の作者で、後世に落語のタネ本となったことから、「落語の祖」と称されている。
毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」が営まれ、奉納落語会が開催される。

門前には街頭告知板として使われた「迷子みちしるべ」の石柱がある。南面に「教しゆる方」、北面に「さがす方」と彫られている。江戸末期から明治中期に迷子が社会問題となり、この石に紙を貼って情報交換したといわれる。
仲人役の石ということから、月下氷人石(げっかひょうじんせき)、奇縁(きえん)氷人石とも呼ばれた。

当地北側の三条通と六角通の間にある誓願寺墓地には、次の墓所がある。
安楽庵策伝上人 「落語の祖」
山脇東洋 日本初の解剖を行った医師
解剖供養塔 山脇東洋一門に解剖された14人の霊を合祀
穂井田忠友 江戸後期の古典学者 「正倉院文書正集」45巻を執筆
お半・長右衛門 浄瑠璃歌舞伎「桂川連理柵」のモデル

京都市バス河原町三条下車、徒歩5分。



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