高野山町石道を登る 慈尊院 六本杉 二ツ鳥居 高野山大門
寄り道情報付き(青字のリンクで表示)町石道スポットガイド
慈尊院は、和歌山県伊都郡九度山町にある高野山真言宗の寺院である。
空海(弘法大師)が816年に高野山を開山した際、金剛峯寺の建設と運営の便を図るため、慈尊院が山麓の拠点として開かれた。
以来高野山領の発展と共に整備され、高野山の玄関口として「高野政所」と呼ばれていた。
空海の母玉依御前は、この地で亡くなったと伝承されており、その廟所に弥勒菩薩を安置したところとして知られている。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。
後世「女人高野」といわれ、女人禁制の高野山に対して、女性の参拝客も多い。
有吉佐和子の小説「紀ノ川」にも、親子二代続けて安産祈願の乳形を奉納する寺として描かれており、現在も信仰は続いている。
本尊の木造弥勒仏坐像は国宝である。
参詣道「高野山町石道」の登り口にあり、参詣者が一時滞在するところともなっている。
境内には、高野山案内犬ゴンの石碑が建てられている。
ゴンは、昭和時代の紀州犬と柴犬の雑種で、いつしか慈尊院をねぐらとして、高野山町石道の約20㎞の道のりを、高野山上の大門まで参詣者を道案内し、慈尊院まで戻っていた。
2002年6月5日にゴンは亡くなったが、境内の弘法大師像の横に石碑が建てられた。
本堂弥勒堂は世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩25分。
山門前と東側100メートルのところに駐車場がある。
町石道は、和歌山県かつらぎ町の慈尊院から高野山に通じる総距離24キロメートルの参道である。
金剛峯寺への参詣道は、「高野七口」 (大門口、不動坂口、黒河口、大峰口、大滝口、相浦口、龍神口)といわれるようにいくつかのルートが開かれていたが、このうち最も早く開かれ、その後も主要参詣道として利用されたのが「高野山町石道」である。
町石が建立されたのは、根本大塔から奥の院までの36町と根本大塔から慈尊院までの180町の間である。
1町(約109メートル)ごとに、高さ約3メートル、幅30センチメートル、重量約750kgの五輪卒塔婆形式の石柱がある。
当初木製の卒塔婆であったが、老朽化したため、貴族や御家人などの寄進で1265年から1285年に町石として建立された。
町石の側面には、壇上伽藍からの距離(町数)のほか、密教の金剛界36尊及び胎蔵界180尊の梵字、寄進者の名前、設立の年月日及び目的などが彫り込まれている。
現在は、ハイキングの道として親しまれており、紀ノ川の眺めなどを楽しめる。
第1町石は、高野山根本大塔の道路横にあり、第180町石は、慈尊院内にある。
南海電鉄高野線九度山駅、紀伊細川駅等下車。
町石道 180町石は、和歌山県九度山町慈尊院南側の階段踊り場西側にある。
町石道は、高野山へ通じる参詣道の一つで、一町(109m)毎に石造の五輪卒塔婆が建てられている。
慈尊院から高野山伽藍までの町石道の山麓部最初の町石が、180町石である。
五輪卒塔婆の地輪部には、次のように刻されている。
正面 (梵字)百八十町 権僧正勝信
左側面 為先師前僧正聖基
右側面 文永9年(1272)十二月 日
寄進者の「権僧正勝信」について、木下浩良氏は、著書の中で次のように記している。
高野山町石の完成式(開眼法要)
高野山町石の完成式というべき法要は、弘安八年(1285)10月21日に町石の開眼法要という形で行われました。
開眼法要とは、新しくできた仏像に仏の魂を迎え入れる法要のことです。
その法要の導師を務めたのが、このときに高野山の座主(一寺の事務を統括する寺院の代表者)であった、京都東寺の長者(首長のこと)の勝信(しょうしん)でした。
古い時代の高野山の座主は東寺長者が兼務していました。勝信は関白九条道家の子供です。京都勧修寺長吏(首長のこと)、奈良東大寺の別当(寺の事務を統括する寺院の代表者)なども歴任しています。
勝信はこの当時の宗教界の大物でした。高野山の町石の180町石の造立もしています。
開眼法要は、150人もの僧侶が集まって行われました。(後略)
南海電鉄高野線九度山駅下車、徒歩25分。
丹生官省符神社は、和歌山県伊都郡九度山町にある神社である。
この神社は、金剛峯寺の荘園であった官省符荘の鎮守として、丹生明神と高野明神の二神をまつり、当初は紀ノ川の河畔に鎮座した。
その後、現在の地に移され、神々を合祀し、明治に入って三殿となった。
現在の神社名は第二次世界大戦後のもので、荘園時代には、「神通寺七社明神」とよび、近代には単に丹生神社と呼ばれていた。
社殿は何れも一間社春日造り、檜皮葺で、丹塗りと極彩色が施された華麗な社殿が、金剛峰寺の方角を意識して東西一列に北面して並んでいる。
三棟の社殿は、丹生、高野両明神を祀る第一殿と気比明神を祀る第二殿が永正14年(1517年)、厳島明神を祀る第三殿が天文10年(1541年)に再建されたものである。
本殿は、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩25分。
勝利寺は、和歌山県九度山町にある高野山真言宗の寺院である。
万年山慈尊院と号し、本尊の十一面観音は弘法大師が42歳の時、厄除けのため彫刻したものと伝えられる。
「紀伊續風土記」には、「当寺は、大師以前既にありしといふ、境内塔屋敷あり、高野山より三石を寄付す」と書かれている。
本尊の脇仏として観音像二体があり、紀州領主 湯浅権守(ゆあさごんのかみ)が悪疾を病んだ時に、本尊観音に平癒を祈願して、病が癒えたので寄進したものといわれている。
仁王門は、安永2年(1773年)に完成した装飾性に富んだ二層の楼門で、本堂とともに九度山町の文化財に指定されている。
庭園は、小堀流の借景の庭園として知られ、近年復元整備されたものである。
長屋門や庫裏は、「紙遊苑」として改修され、高野紙の資料館と手漉き和紙技術の体験伝承施設となっている。
南海電車高野線九度山駅下車、徒歩30分。仁王門階段下に町営駐車場がある。
おしょぶ池は、和歌山県九度山町の勝利寺東側にある。
この池については、次のような伝説が残されている。
江戸時代、慈尊院村におしょぶという手先の器用な優しい娘が住んでいた。
おしょぶは、毎日お針の稽古に通って、着物や帯などを縫うのを楽しみにしていたが、家が貧しく他の娘のようにきれいな布を買ってもらうことができなかった。
そのようなある日、彼女は勝利寺へお針の稽古に行く途中、この池の中にぴかぴかと光る美しい布があるのを見つけ、それが欲しくてたまらなくなり池に入っていった。
すると、突然その布は恐ろしい大蛇に変わって、おしょぶを咥えて池の中に消えたという。
その後、「おしょぶ恋しや勝利寺の池に 帯が欲しさに身を投げた」というわらべうたが歌われるようになった。
また、村人たちは、霊を慰めるため、針供養をしたという。
今でも、この池に針を投げると、裁縫が上手になると言い伝えられている。
榧蒔石は、和歌山県九度山町の町石道近くにある。
157町石に沿って、左の道を少し登ったところにある。
弘法大師が、町石道を通り高野山まで登る途中、当時の山崎の集落の貧しさを見かね、この石の上から榧(かや)の種をまいた。
榧の木はアクが強く、虫に食われることもなく、成長に大変時間がかかることから、歪みも少なく木材として大変優れており、現在でも碁盤の材料や住宅の柱材に使われている。
また、実は油分を多く含み、食用としても、搾って燃料としても使える。
山崎の地は、この榧のおかげで大いに栄えたと伝えられている。
弘法大師が榧の実を必要とした理由は、灯明に使う油に菜種油を使うと、高野山では凍ることがあり、榧の実から搾った油を使うと、厳しい冬でも凍ることなく灯火を保つことが出来るからだといわれている。
元来、榧蒔石は現在より大きなものであったが、昭和の初めごろ作業道を作るために一部が取り除かれた。
銭壺石(ぜんつぼいし)は、和歌山県九度山町の町石道沿い(156町石)にある。
鎌倉時代の文永2年(1265年)覚斅(かくきょう)上人の発願により、20年という年月をかけて町石道が整備された。
整備作業の際、北条時宗の外戚である安達泰盛が、この石の上に置いた壺に給金を入れ、作業員につかみどりをさせて与えたという伝承がある。
銭壺は上部がくびれているため、欲を出してたくさん銭をつかんでも、手が引っかかって取り出すことは出来ない。
そのため、大きな手の者でも小さな手の者でもつかめる銭の量は、大差なかったと言われている。
南海高野線九度山駅下車、徒歩75分。
教良寺地区 接待場は、和歌山県かつらぎ町の高野山参詣道町石道沿いにある。
真言宗の開祖、空海(弘法大師)は承和2年(835)3月21日に入定した。
毎年、この入定の日に高野山で行われる法会を「御影供(みえく)」といい、大正時代の末期まで、人々は歩いて高野山を目指していた。
当時、御影供の日に教良寺(きょうらじ)村の有志が、当地で握り飯や湯茶の接待をして、参詣者をもてなしたことから、「接待場(せったいば)」と言い伝えられている。
ここには、弘法大師の石像があり、この石像を拝むと「遠く高野山奥の院の御廟を拝む」と言われている。
令和元年(2019)には、高野七口再生保存会が、木製のベンチを設置した。
町石道 一里石は、和歌山県かつらぎ町の町石道144町石北側にある。
高野山の町石道には、町石の他に「里石」と呼ばれる石造五輪卒塔婆が建立されている。
里は、町と同じで、距離をあらわす単位で、6町が1里、50町を1里などと定められたこともあったが、当地の里石は36町が1里(3927.3m)となっている。
町石が、壇上伽藍からの距離を示すのに対し、里石は慈尊院からの距離を示している。
里石は、慈尊院から壇上伽藍まで、36町毎に一基、町石と並列して建立されている。
36町石に一基ずつ、里石を建立するため、180町石から1町石まで、五基の里石が建てられることになるが、現在は、1里石から4里石までの四基が残っている。
明和8年(1771)の「町石見分覚」によると、壇上伽藍の1町石の横に5里石があり、それには「弘安3年(1280)」の銘が彫られていた。
鎌倉時代に造立されたとされる当地の一里石には、次のように刻されている。
(正面) (梵字) 一里 沙弥覺仏 沙弥覺慈
(右側面) 為忠矛出離得脱
(左側面) 藤原高行
忠矛の成仏のため、覺仏と覺慈と藤原高行の3人が建立した。
木下浩良氏によると、藤原高行とは、鎌倉幕府の有力御家人 二階堂氏の一族の二階堂高行と推定され、高行の父は、貞衡といって従五位下で美作守であったという。
一里石と144町石の南側分岐には、「右ハぢそんいんみち 左はざいしやうみち」と彫られた道標石がある。
六本杉は、和歌山県かつらぎ町町石道137町石東にある。
慈尊院から高野山大門に至る町石道沿いにあり、孝女お照の墓の進入路を経て丹生都比売神社へ通じる道の分岐点である。
六本杉の名前は古くから残っているが、六本の杉があったのではなく、ここに大杉のみごとな並木がつづいていたといわれている。
寄り道情報 丹生都比売神社 石造五輪卒塔婆群 貧女の一燈お照の墓
二ツ鳥居は、和歌山県かつらぎ町の町石道(120町石)にある史跡である。
文字通り二基横に並んだ鳥居で、弘仁10年(819年)5月3日に弘法大師によって建立された。
当初は木製であったが、慶安2年(1649年)5月に補陀落院叟遍が私財を投じて、高さ1丈7尺(約5.6m)広さ2間(約4.7m)の花崗岩製とした。
紀伊續風土記には、高野山大伽藍にある丹生高野両明神の一の鳥居と記され、2基の鳥居は、両神それぞれを遥拝するものと言われている。
南側にある展望台からは、天野の里の田園風景が一望できる。
JR和歌山線笠田駅から、かつらぎ町コミュニティバスで「丹生都比売神社」バス停下車、徒歩約30分。
白蛇の岩と鳥居は、和歌山県かつらぎ町町石道115町石西にある。
現地の案内板には、次のように記されている。
この鳥居の奥にある大きな岩は、白蛇の岩(垂迹岩)といい、この岩の隙間に入り込もうとしていた蛇を、
杖でつついて驚かせた僧が、丹生都比売神社からの帰路、この岩の前を通ると白い大蛇が岩の上の木に
巻き付いて待ち構えていたという伝説があります。
僧は自分の非を悟り、丹生都比売神社で御祈祷をして戻って見ると、大蛇はすでに消えていたといいます。
その話しから、この岩には白蛇が棲みついており、この岩にお参りをして、白蛇の姿を見ると幸せになると言い伝えられています。
神田地蔵堂は、和歌山県かつらぎ町の神田(こうだ)の里にあり、町石道の112町石の近くのお堂である。
神田の里には、丹生都比売神社に米を献納する神田があった。
この地蔵堂は、平安鎌倉時代の高野参詣の人々の休憩所として使われた歴史があり、堂内には弘法大師像、子安地蔵、応其上人像が安置されている。
紀伊続風土記には、「東高野街道往還にあり」と記されている。
昭和時代初期にも、この堂で参詣者がお茶の接待を受ける習俗が残っていたといわれる。
高野山多聞院の縁起には、滝口入道(斎藤時頼)を慕った横笛が出家し、天野の里に草庵を構えて住んだところと書かれている。
高野山への参詣には、この地蔵堂の前を通るため、横笛は此処まで出向いて、滝口入道に会える機会を願ったといわれる。
その際、横笛が高野山に登る僧に託した次の歌が知られている。
「やよや君 死すれば登る高野山 恋も菩提のためこそなれ」
南海高野線上古沢駅下車、徒歩約1時間。
神田応其池は、和歌山県かつらぎ町にある。
神田地蔵堂の東側に小さな池があり、池を開いた応其上人にちなんで神田応其池と呼ばれている。
神田(こうだ)は、当地が丹生都比売神社に供える米を作る場所に定められたために名付けられた。
安土桃山時代に、木食応其として知られた応其上人が、稲作の便を図ってみずからため池を開き、
水神、祈雨神である善女竜王を池の半島に祀ったと伝えられている。
紀伊国名所図会には、次のように記されている。
〇応其池 梵字岩より一町。神田村の内にあり。応其上人の造るところなり。
麻生津道 第六の地蔵 花坂村(高野町) 砂棟(すなこぜ)地蔵 砂捏地蔵
袈裟掛石(けさかけいし)は、和歌山県高野町の町石道沿い(55町石)にある。
弘法大師が袈裟を掛けたといわれており、この石からは高野山の清浄結界となる。
鞍のような形をしていることから「鞍掛石」と呼ばれる。
また、この石の下をくぐれば長生きするとも言い伝えられていることから、「くぐり石」ともよばれている。
押上石(おしあげいし)は、和歌山県高野町の町石道沿い(54町石)にある。
弘法大師の御母公が、女人禁制の高野山に結界を越えて入山しようとしたとき、激しい雷雨が火の雨となったといわれている。
弘法大師は、この石を押し上げて、御母公をかくまったと伝えられ、この石を押し上げた時の両手の跡が残っているといわれている。
鏡石(かがみいし)は、和歌山県高野町の町石道沿い(28町石)にある。
表面が鏡のように平らなことから、鏡石と呼ばれている。
この石の角に座って真言を唱えると願いが成就するとのいわれがある。
紀伊国名所図会には、
「この石 光明温潤にして萬像を照映すること 宛(あたかも)明鏡に對(むか)ふが如し」
と記されている。
高野山大門は、和歌山県高野町にある高野山の表玄関である。
慈尊院からの町石道を登りきったところにあり、高野山の壇上伽藍の入り口にあたる。
1140年に建てられたもので、それ以前は約500m下の九折谷に一基の鳥居があり、それが一山の総門になっていた。
現在の門は、1705年に再建されたもので、高さ25m、間口21メートル、奥行き8メートルの5間三門開きの朱塗りの楼門である。
両脇の金剛力士像は、江戸時代の仏師康意、運長の作である。大門前広場には木国句碑がある。
主柱に掛けられた対聯(ついれん)には、「日々の影向(ようごう)を闕(か)かさず」「処々の遺跡を検知せん」と記されている。
この2句は、日日影向文(にちにちようごうもん)とも呼ばれ、寛治年間(1087-94)に東寺の定額(じょうがく)僧正勝実(しょうじつ)という僧侶が、讃岐国善通寺において感得したという「御筆の一筆」の次の文から採られたものという。
「居を高野の樹下に卜(ぼく)し、心神を兜卒(とそつ)の天上に遊ばすと雖も、
日々の影嚮を闕かさず、処々の遺跡を検知せん」
弘法大師は、住まいを高野山奥の院の樹下に選び定め、心は弥勒菩薩が住む兜卒天に赴いているけれども、
毎日姿を現して、縁のある各地に出向き巡検され、衆生の救済に力を注がれている、という意味である。
対聯の書体は、法性寺流(ほっしょうじりゅう)と呼ばれるもので、弘法大師に深く帰依した後宇多上皇の宸筆を写したものといわれている。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「大門」下車すぐ。
自家用車の場合は、橋本経由の国道370号ではなく、かつらぎ経由の国道480号の方が運転しやすい。
大門前のT字路を伽藍方向に左折せず直進すると、約300mでお助け地蔵前駐車場がある。
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