明遍上人石像は、和歌山県高野山奥の院の御廟橋東側にある。
明遍(1142-1224)は、平安、鎌倉時代前期の僧である。
藤原通憲(信西)の子で、18歳の時に平治の乱で越後に配流された。
赦免後、東大寺で敏覚を師として三論宗を修めた。
その後、東大寺を離れ、やがて大和の光明山寺に入った。
そして50歳代で高野山に遁世し、蓮華谷に蓮華三昧院を建立し、83歳で没した。→ 明遍僧都墓
紀伊続風土記の高野山非事吏事歴には、高野山の聖の始まりは、明遍上人であると紹介されている。
紀伊名所図会には、当地に明遍杉の説明があり、概ね次のような内容が記されている。
明遍杉
参道右側にある。御廟橋の傍らにある。則ち上人の石像がある。
明遍上人は東大寺で出家し、かつて高野山に登り、携えていた杉杖をこの橋のそばに植え置いて次のように誓った。
「私がもし弘法大師の加持により無上菩提(最高の悟りの境地)を証することができれば、
この杉杖の枝葉が生ずるであろう。」
果たして、杉杖から芽が出て、鬱然と生い茂ったという。
また、上人があるとき参詣された際には、御廟橋から先は曼荼羅諸尊が充満しており、
足を入れるところがなかったので、以降はこの橋の傍らから参拝された。
五来重氏は、「増補高野聖」で、明遍杉について、次のように記している。
高野山の伝説によると、奥之院玉川のほとり、無明橋のたもとにある明遍杉は、明遍が深夜奥之院弘法大師廟に参詣しようとしたとき、無明橋より内は諸仏充満してはいることができなかった。
そこで仕方なく杖を立ててかえると、根がついて明遍杉になったという。
日野西眞定氏は、宝暦年間に建立された九度山町勝利寺の仁王門に、この明遍杉が使われたとしている。