興山上人(応其上人)一石五輪塔は、和歌山県高野山奥の院32町石南東にある。
安芸浅野家供養塔の東側で、尾張徳川家供養塔との間に位置している。
総高88.5cmの五輪塔地輪には、次のように刻されている。
天正十九辛卯應其
(梵字)興山上人
春二月初三日壽位
応其(1536-1608)は、天文5年(1536)近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
そのため、興山上人と呼ばれている。
五輪塔の建立された天正19年(1591)は、応其56歳で京都及び高野山で活動していた時期である。
高野山奥の院の頌徳殿南側に、「興山応其上人廟」がある。