筑後久留米有馬家供養塔

筑後久留米有馬家供養塔は、和歌山県高野山奥の院19町石北東50mの参道北側にある。
筑後国久留米藩・有馬家は、村上源氏の流れを汲み、室町幕府で大きな勢力を誇った赤松氏の支流で、
播磨国守護職 赤松則祐の子 義祐が摂津国有馬荘の地頭となって、有馬を名字としたことに始まる。
のちに久留米藩主となる有馬家は、義祐より七代後の有馬則頼を藩祖とする。
有馬則頼は羽柴秀吉の家臣となり、軍功により播磨国淡河3200石を受け、後に1万5千石に加増された。
子の有馬豊氏も秀吉に仕え、秀吉没後は父子ともに徳川家康に仕えた。
関ヶ原の合戦で父子共に東軍に参加し、丹波福知山6万石に入封された。→ 福知山城
その後、豊氏は大坂冬の陣、夏の陣でも戦功を挙げ、元和6年(1620)筑後藩田中家が断絶した後に、筑後国久留米21万石が与えられた。

当地の墓所には、大型五輪塔4基、小型五輪塔5基、方柱墓標5基などがあり、史跡金剛峯寺境内大名墓総合調査報告書によると、次の藩主の五輪塔が建立されている。

 藩主名 没年  法名  備考 
3代 有馬頼利  寛文8年(1668)  壷源院殿賢岸道大居士  墓所内北東の五輪塔 
2代 有馬忠頼  明暦元年(1655)  瓊林院殿龍室道雄大居士  墓所内中央の五輪塔 
6代 有馬則維(のりふさ)  元文3年(1737)  梅巌院殿唯翁道秀大居士  墓所内北西の南向き五輪塔 
7代 有馬頼徸(よりゆき)  天明3年(1783)  大慈院殿圓山道通大居士  墓所内南西の東向き五輪塔
和算家 

高野山奥の院25町石北には、筑後久留米有馬家供養塔(有馬豊氏供養塔)がある。



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