不動坂関係資料

明恵上人供養塔

明恵上人供養塔は、和歌山県高野山一心院谷にある。
明恵上人(1173-1232)は、鎌倉時代の華厳宗の学僧で、高山寺を再興したことで知られる。

昭和4年に発行された「高野山のしをり」には、次のように記されている。
   明惠上人墓
 案内所の後山にあり。上人は栂の尾山の大徳なり。當国有田郡に生れ、舊里内崎山寺を創建して住すること四年。
 去りて栂の尾に還る。安貞二年貞暁上人の招請に応じて登山し、此地に住せり。
 一夏中観坐せしに、所観の阿字光を放てり。因りて其住坊を阿光院と称す。この地はその舊跡なり。

案内所とあるのは、「参詣人所縁坊取調案内所」で、全国からの参詣客の該当宿坊を調べて案内するところで、不動坂口女人堂から2町離れたところにあった。
南海高野線高野山駅からバスで一心口下車。バス停横の登り口から約30m。



女人堂

女人堂は、和歌山県高野町不動坂口にある元参籠所である。
高野山は、空海の創建以来ほぼ1000年の間、女人禁制とされてきた。
かつては「高野七口」といって、高野山の入り口が7か所あり、女人禁制が解ける1872年までは、それぞれの入り口で女性の入山を取り締まった。
女性は山内には入れないので、「女人道」とよぶ峠を伝いながら、七口の入口の女人堂と奥の院を結ぶ約15㎞余りの外八葉を一周して下山した。
7か所の女人堂のうち、現在残っているのは、不動坂口のものだけである。
女人堂の向かいには、高野山で一番大きな地蔵尊が祀られている。
おたけという人が、亡くなった夫の為にお地蔵さまをお祭りしたところから、「おたけ地蔵」と呼ばれるようになった。
南海高野線高野山駅から南海りんかんバスで「女人堂」下車すぐ。



小杉明神社 

小杉明神社は、和歌山県高野山女人堂敷地にある祠である。
文永年間(1264-74)、越後の国の本陣宿紀の国屋に小杉という器量の良い娘がいた。
ある日、小杉自筆の「今日はここ明日はいづくか行くすえのしらぬ我が身のおろそかなりけり」との句が書かれた屏風が、三島郡出雲崎代官職植松親正の目に留まり、その縁で嗣子・信房と結婚することになるが、継母の画策で不貞疑惑をかけられた。
厳格な親正は「殿さまへのお詫びがたたぬ」と小杉を鳩が峰に連れて行き、両手指を切って谷底に落とした。
弘法大師の加護で命は助かり、山中で生活していたところ、信房と再会して結婚し一子を授かった。
その後また継母の邪魔に遭い、夫と離された上、信州の山で襲われ、子供の杉松が亡くなってしまった。
杉松の遺髪を持ち、高野山に来たが、女人禁制で入山は許されなかった。
小杉は、子のために貯めたお金で、女性のため高野山不動坂上に籠もり堂を建て、参詣で訪れた女性を接待するようになった。
これが高野山女人堂の始まりといわれている。小杉明神社は、この小杉を女人堂の鎮守として祀っている。
南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車すぐ。女人堂の西側に数台の駐車スペースがある。



花折坂

花折坂は和歌山県高野町にある。
京大坂道不動坂の清不動堂と女人堂のほぼ中間に位置する。
紀伊名所図会には次のように記されている。
「花折(はなをり) 女人堂より下にあり。参詣の諸客、此所にて花を折りて、大師に捧ぐるもあり。
又「をりとれば手(た)ぶさにけがるたてながら三世の佛に花たてまつる」とうたひて過ぐるもあり。」
挿絵には巨大な華瓶(けびょう)が2基描かれている。
高野山を目前にした参拝者たちはこの場所で花を摘んで、華瓶に供えた。
和歌山県教育委員会、高野町教育委員会による平成22年からの調査では、華瓶の一つが発見された。
江戸時代初期に製造、建立されたとみられる。正面に「弘法大師御法楽」「四所明神御法楽」と刻されている。
総高97.4cmの砂岩製である。
少し南側には石仏と石塔が建てられている。
南海高野線高野山駅からバスで女人堂前下車、徒歩10分。


清不動堂

清不動堂(きよめのふどうどう)は、和歌山県高野町の京大坂道の不動坂にあるお堂である。
古くは、「外の不動堂」と呼ばれていたお堂があり、杉材で作られた像高84cmの不動明王坐像が本尊として祀られていたが、現在は風化による破損が著しいため、高野山霊宝館に収蔵されている。
紀伊名所図会によると、この「外の不動堂」は、もともと弘法大師の草創で、寛文年間(1661-1673)に、備前の国上道郡金岡荘(かみじごおりかなおかのしょう)の野崎家久入道が再建したとされる。
その後、明治16年(1883年)に焼失し、明治20年に大阪伏見町の上田みちという助産婦により再建された。
大正4年(1915年)に不動坂が全面改修され新しいルートとなったため、外の不動堂は荒廃していたが、大正9年(1920年)に大阪の桝谷清吉、寅吉の親子が、新しい不動坂へ修復移転し、清不動堂を建立したものである。
移転前の外の不動堂は、いろは坂とよばれる急坂を登ったところにあったため、高野町の案内板が建てられている。
また、さらに北に歩くと旧不動坂と馬廻道交差点石標が建てられており、次のように記されている。
  右 加ミや まきのを
     い世 京 大坂
  寛政四年壬子年七月立
  南無大師遍照金剛

南海高野線高野山駅から南海りんかいバスで「女人堂」下車、徒歩約15分。極楽橋駅から不動坂を徒歩で約30分。




兒滝(稚児滝)

兒滝(ちごのたき)は、和歌山県高野町の清不動堂の北約50mにある。
京大坂道(不動坂)を登ると道標のある左手に、林立する樹木の合間から滝が見え、兒滝(稚児滝)と呼ばれている。
滝の名称については諸説あるが、江戸時代後期編集の「紀伊続風土記」には、
「昔兒の捨身せし所といひ傳ふ」とある。

「紀伊名所図会」には、次のように記されている。
兒滝 花折坂の下にあり。昔兒の捨身せし所といひ傳ふ。
一帯の清泉、積翠萬畳(せきすいばんでふ)の中より流失し、
こ々に至りて直下千尺、珠砕け玉踊る天工、言語の及ぶ所にあらず。

また「遥かに見下せば一条の白布ななめに翠壁にかかる」と古書に記された美しい滝である。
宝永5年(1708)に初演された近松門左衛門作の浄瑠璃「心中万年草」では、
高野山吉祥院の成田粂之助と神谷の雑賀屋の娘 お梅が、この世では実らぬ恋をはかなんで、兒滝を経て、女人堂で心中する様子が次のように浄瑠璃で語られる。
死出の山路を越ゆるかと 心細しや卒塔婆谷。(中略) 今宵散り行く初桜 児が滝とぞ涙ぐむ。
(中略) 一つ回向の水汲めや 手向けの梅の花折り坂 辿り越ゆれば暁の 五障の雲に埋もるゝ 女人堂にぞ着きにける。
(出典 「曽根崎心中 冥途の飛脚 他五篇」 岩波文庫)

南海高野線極楽橋駅下車、徒歩20分。



萬丈が嶽

萬丈が嶽は、和歌山県高野町の清不動堂の北約100mのところにある。
紀伊続風土記には、次のように記されている。
「下向路の右に断崖絶壁あたかも掌を立てるが如し
直下に谷を瞰臨するに数千丈許にして底なきが如し」
また、江戸時代には重罪人が手足を縛られ、ここから追放されたので「萬丈転がし」とも呼ばれていた。
紀伊続風土記の治爵の項には次のような記述がある。
「一等軽ものは不動坂萬條谷に追払う 
俗に此処を萬丈転といふ
罪人を縛し此の谷底に放捨す」
南海高野線極楽橋駅から不動坂を徒歩約20分。



岩不動

岩不動は、和歌山県高野町の京大坂道不動坂にある。
紀伊名所図会には、次のように記されている。
「岩不動 路傍の岩に不動の種子(しゅじ)あり。大師の御爪鐫(おんつまぼり)なりといふ。」
種子とは仏教で諸尊をあらわす梵字のことで、弘法大師空海がこの岩盤のどこかに不動明王の梵字を刻んだという意味である。
不動明王は、ヒンドゥー教のシバ神の異名で大日経によると「不動如来使者は、慧刀、羂索を持ち」と表現されており、
不動明王像は、9世紀初めに空海によってわが国に伝えられたといわれる。
この梵字を見つけることは今となっては難しいが、このあたりの山脈は堅固な岩盤が連続しており、
その光景自体が不動明王を思い浮かべるような迫力がある。
南海高野線高野山駅からバスで女人堂下車、徒歩20分。



高野山ケーブルカー

高野山ケーブルカーは、和歌山県伊都郡高野町にある。
極楽橋駅から高野山駅まで、延長900m、標高差327mを約5分で登っている。
このケーブルカーは、昭和5年(1930)6月に高野山駅開業とともに運行を開始した。
もっとも勾配の急なところでは千分の五六八、平均勾配23度となっている。
ケーブルの車両は、初代ケーブルカーは1930年、2代目ケーブルカーは1953年、3代目ケーブルカーは1964年からそれぞれ運行された。
4代目ケーブルカーが2019年から運行されており、3代目ケーブルカーは平成30年11月25日まで運行された。
南海難波駅、天下茶屋駅、高野山駅では、2018年11月25日まで高野山ケーブルカー歴史展-開通から88年間の歴史-が開催された。



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