井伊家供養塔(井伊直弼他)は、和歌山県高野山奥の院24町石北西にある。
井伊掃部頭霊屋の西側に位置する。
井伊掃部頭霊屋前方には、井伊直弼供養塔(宗觀院殿正四位上前羽林 中郎将桺暁覺翁大居士)があり、
霊屋後方には、井伊直武(信武(なおたけ))供養塔(從五位下前伯州太守 原忠院殿高節元義大居士)がある。
井伊直弼(1815-1860)は、彦根藩第15代藩主で、徳川幕府大老となった。
父は、彦根藩第13代城主 井伊直中(なおなか)で、母は側室お富の方である。
天保2年(1831)直弼は17歳の時に彦根城中の槻御殿を出て、北の御屋敷「埋木舎(うもれぎのや)」に移り、部屋住みの生活をした。
嘉永3年(1850)第14代藩主直亮(なおあき)の死去に伴い、井伊直弼は36歳で第15代藩主となり、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)と称した。
安政5年(1858)に大老に就任し、日米修好通商条約に調印している。
幕府内の後継問題で反対する一橋派を弾圧して、安政の大獄を引き起こし、万延元年(1860)3月3日桜田門外の変で水戸藩士らによって暗殺された。
最近の研究では、ピストルの弾が胸にあたり、薩摩藩出身の有村次左衛門が直弼の首を取ったという。
井伊直武(1650-1697)は、井伊直好の長男で、寛文12年(1672)に父の跡を継いで遠江掛川藩の第2代藩主となった。
史跡金剛峯寺境内(奥院地区)大名墓総合調査報告書によると、当地墓所には17基の五輪塔があり、彦根藩主 10代直禔、12代直幸、13代直中などの供養塔がある。
写真番号 | 供養者名 | 没年 | 法名 | 備考 |
① | 彦根藩 第10代藩主 井伊 直禔 (なおよし) |
宝暦4年 | 見性院殿 観刹了因大居士 |
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② | 彦根藩 第12代藩主 井伊 直幸 (なおひで) |
寛政元年 | 大魏院殿 弥高文山大居士 |
江戸幕府大老 |
③ | 彦根藩 第13代藩主 井伊 直中 (なおなか) |
天保2年 | 観徳院 天寧広輝 |
井伊直弼実父 |
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