岩倉城址

岩倉城址は、和歌山県橋本市隅田町垂井にある。
岩倉池の南の小高い丘陵地に位置し、隅田党の本城といわれる。築城時期は、定かではない。
「畠山記」によると、永正16年(1519)3月に高野山僧徒が、岩倉城に立てこもる隅田一族と戦ったことを記しているため、それ以前に築城されたと考えられている。
城主は、隅田蔵人能房、隅田肥前守能継であったという。

隅田党は、鎌倉時代以降紀伊国伊都郡隅田荘(現在の橋本市隅田町)を中心に活躍した同族的武士団である。
隅田は、「須美田」「須田」などとも記され、「信土山」「待乳山」とともに、万葉集、粉河寺縁起などに出ている地名である。
隅田八幡宮は、平安時代に石清水八幡宮の隅田別宮と呼ばれ、長治2年(1104年)忠延(ただのぶ)という人物が、八幡隅田別宮俗別当職に任命され、その子、藤原忠村が保安5年(1124年)に同職に任命されている。
また、石清水八幡宮寺政所の支配する荘園「須田荘」の荘務一切は、在地の土豪に任されていた。
隅田別宮俗別当職の忠延は、天永2年(1111年)隅田荘公文書職に補任され、その子、忠村は保安3年(1122年)に公文職となっている。
その後も忠延、忠村の子孫が荘務の公文職と別宮俗別当職を兼帯して、隅田荘の中心的存在となった。
そして北条家に仕えることとなり、この一族は地頭職を世襲して隅田氏を名乗っている。

城は標高170mの丘陵に築かれ、東西60m、南北30mの単郭で、周囲に幅3mの空堀がある。
空堀の外に土塁が築かれている。発掘調査では鉄製品、中国製白磁などが出土している。
岩倉城址の石碑と、新傳三郎俱氏之碑があり、新傳三郎俱氏之碑裏面には、永禄三年(1560)庚申年二月松永弾正(久秀)の兵火により、隅田八幡宮並びに岩倉城焼亡の際、討死と記されている。
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩30分。



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