石碑「隅田党発祥の地」は、和歌山県橋本市の隅田八幡神社境内にある。
隅田党は、鎌倉時代以降紀伊国伊都郡隅田荘(現在の橋本市隅田町)を中心に活躍した同族的武士団である。
隅田は、「須美田」「須田」などとも記され、「信土山」「待乳山」とともに、万葉集、粉河寺縁起などに出ている地名である。
隅田八幡宮は、平安時代に石清水八幡宮の隅田別宮と呼ばれ、長治2年(1104年)忠延(ただのぶ)という人物が、八幡隅田別宮俗別当職に任命され、その子、藤原忠村が保安5年(1124年)に同職に任命されている。
また、石清水八幡宮寺政所の支配する荘園「須田荘」の荘務一切は、在地の土豪に任されていた。
隅田別宮俗別当職の忠延は、天永2年(1111年)隅田荘公文書職に補任され、その子、忠村は保安3年(1122年)に公文職となっている。
その後も忠延、忠村の子孫が荘務の公文職と別宮俗別当職を兼帯して、隅田荘の中心的存在となった。
そして北条家に仕えることとなり、この一族は地頭職を世襲して隅田氏を名乗っている。
太平記などによると、元弘元年(1331)隅田忠長が、六波羅検断、軍事奉行として鎌倉幕府方として活躍した。
元弘3年(1333)六波羅探題 北条仲時一行が京都から鎌倉に逃れる途中、近江国番場宿まで来たが、数千の朝廷方に包囲され四百三十余人が自刃した。
蓮華寺の住職同阿はこれを悼んで、墓を建て、紙本墨書陸波羅(ろくはら)南北過去帳を書いたが、その中に隅田左衛門尉時親など次の隅田一族11名が含まれている。
隅田左衛門尉時親(39歳)、孫五郎清親(28歳)、藤内左衛門尉八村(42歳)、与一真親(19歳)、四郎光親(26歳)、五郎重親(20歳)
新左衛門尉信近(20歳)、孫七国村(22歳)、又五郎能近(16歳)、藤三国近(17歳)、三郎祐近(25歳)
「現代語訳日本の古典 15 太平記(山崎正和訳)」、巻の九 「越後の守仲時および以下の者の自害」には、過去帳と若干の相違はあるが、次のように隅田一族の名前が挙げられている。
隅田源七左衛門尉、同孫五郎、同藤内(とうない)左衛門尉、同與一、同四郎、同五郎、同孫八、
同新左衛門尉、同又五郎、同藤六、同三郎
石碑は、隅田八幡神社の正遷宮を機に、平成29年に隅田党一族の会が建立したもので、裏面に次のように刻されている。
隅田党は隅田八幡宮の祭祀と隅田荘を基盤とした武士団として知られ、元弘3年(1333年)六波羅探題北条仲時とともに京都から鎌倉へ落ちる途中、
近江国馬場宿に於いて主従四〇〇余人とともに一族十一人が自刃したと「太平記」に見える。
室町時代には紀伊守護畠山氏の被官として各地を転戦、その活躍は「畠山記」に記され、城跡も隅田荘内各所に残る。→ 岩倉城址
江戸時代には紀州藩の支配下となる。
隅田党一族の会
平成29年10月吉日