能近のうた石碑と阿弥陀如来像

能近のうた石碑と阿弥陀如来像は、和歌山県橋本市隅田町中島にある。
又五郎能近は、隅田一族に属し、元弘3年(1333)に近江の国番場宿(滋賀県米原市)の蓮華寺で自刃した。
当地の石碑は、能近を偲んで建立されたもので、石碑横には阿弥陀如来立像がある。

隅田党は、鎌倉時代以降紀伊国伊都郡隅田荘(現在の橋本市隅田町)を中心に活躍した同族的武士団である。
隅田は、「須美田」「須田」などとも記され、「信土山」「待乳山」とともに、万葉集、粉河寺縁起などに出ている地名である。
隅田八幡宮は、平安時代に石清水八幡宮の隅田別宮と呼ばれ、長治2年(1104年)忠延(ただのぶ)という人物が、八幡隅田別宮俗別当職に任命され、その子、藤原忠村が保安5年(1124年)に同職に任命されている。
また、石清水八幡宮寺政所の支配する荘園「隅田荘」の荘務一切は、在地の土豪に任されていた。
隅田別宮俗別当職の忠延は、天永2年(1111年)隅田荘公文書職に補任され、その子、忠村は保安3年(1122年)に公文職となっている。
その後も忠延、忠村の子孫が荘務の公文職と別宮俗別当職を兼帯して、隅田荘の中心的存在となった。
そして北条家に仕えることとなり、この一族は地頭職を世襲して隅田氏を名乗っている。→ 石碑「隅田党発祥の地」

太平記などによると、元弘元年(1331)隅田忠長が、六波羅検断、軍事奉行として鎌倉幕府方として活躍した。
元弘3年(1333)六波羅探題 北条仲時一行が京都から鎌倉に逃れる途中、近江国番場宿まで来たが、数千の朝廷方に包囲され四百三十余人が自刃した。
蓮華寺の住職同阿はこれを悼んで、墓を建て、紙本墨書陸波羅(ろくはら)南北過去帳を書いたが、その中に隅田左衛門尉時親など次の隅田一族11名が含まれている。
 隅田左衛門尉時親(39歳)、孫五郎清親(28歳)、藤内左衛門尉八村(42歳)、与一真親(19歳)、四郎光親(26歳)、五郎重親(20歳)
 新左衛門尉信近(20歳)、孫七国村(22歳)、又五郎能近(16歳)、藤三国近(17歳)、三郎祐近(25歳)



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