藤原道長建立浄妙寺跡

藤原道長建立浄妙寺跡は、京都市宇治市木幡小学校附近にある。
現地の案内板には、次のように記されている。

    浄妙寺跡(じょうみょうじあと)
 木幡は、初の関白なった藤原基経(もとつね)が藤原氏の墓所と定めたとされます。
浄妙寺は、寛弘二年(一〇〇五)藤原道長によって藤原氏の一族を弔うために建てられた寺です。
道長は若いころ父兼家に連れられ木幡を訪れた際、その荒廃に心を痛め、もし高位に上がったら一堂を建て三昧を修めようと思ったといわれます。→ 藤原道長ゆかりの地
 創建当初の浄妙寺の本堂は法華三昧堂で、二年後の寛弘四年(一〇〇七)に多宝塔が建てられます。そのほかに鐘楼、僧坊、南門、西門などがありました。
発掘調査では法華三昧堂、南限の築地塀跡、西門跡が発見されています。
 浄妙寺は、平等院と並び藤原氏にとって重要な寺でしたが、鎌倉時代に入ると浄妙寺の別当(大きなお寺を管理する役所の長官)が藤原氏から聖護院宮に移り、徐々に衰退していきます。
寛正三年(一四六二)一揆の放火により焼失し、廃絶したものと考えられています。

JR奈良線木幡駅下車、徒歩15分。

藤原道長の墓所について

藤原道長の墓所については、「宇治陵32号陵」など宇治陵37陵のうちのいずれかであるとされてきたが、浄妙寺の発掘調査で、次のように、浄妙寺(現在の木幡小学校附近)の東側にあったとの意見も出されている。

 道長の息子・頼通の臣下が書いた日記によると、頼通は「浄妙寺の大門より東に行き、道長の墓所に参った」という。
この記述を踏まえると、道長の墓は木幡小の東側にあった可能性が高いという。他方、(宇治陵)32号陵は木幡小のほぼ南側で、やや離れた位置にある。
 木幡小の東側からは高貴な人物しか手にすることができなかった中国伝来の青磁水注(重要文化財)が出土している。
「青磁は骨つぼとみられる。道長を含めた藤原氏の墓はこの辺りに集まっていたのではないか」と(京都芸術大学)杉本客員教授はみる。
(2024年7月7日付京都新聞 本好治央氏記事参照)
 



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