かげろふ塚は、和歌山県高野山奥の院18町石と19町石の中間にある。
かげろふ塚(高さ2尺(60cm)横3尺5寸(106cm))は、作家中山義秀と澄女夫妻の逆修碑で、かつては親交のあった三宝院の草繋全弘の逆修碑と並んで建てられていた。
昭和44年に、高野山真言宗宗務総長であった草繋全弘が死去した時に、草繋全弘の逆修碑は、関東大震災霊牌堂の西側に新しく作られた墓に移されている。
かげらふ塚の石碑は、昭和39年(1964)に建立されたもので、中山義秀自筆の次の文が刻まれている。
在りし日のかたみともなれ
かげろふ塚
なかやま
義秀
すみ
中山義秀(1900-1969)は、明治33年に生まれ、早稲田大学を卒業後、学校に勤務しながら作家活動を続け、昭和13年に「厚物咲」で芥川賞を受賞した。
昭和27年(1952)、52歳の時に一人で高野山を訪れ、三宝院に滞在して「高野詣」を執筆し、住職の草繋全弘と親交を深めたという。
中山夫妻没後に、先妻の娘が高野山に来て、義秀と澄女の遺骨を塚下に埋葬したという。