学文路天満宮

学文路天満宮は、和歌山県橋本市にある神社である。
社名は天満神社で、現在は学文路地区全域の氏神となっている。
祭神は、菅原道真公で本殿中央に祀り、左側に天穂日命(あめのほのひのみこと)、御父君 菅原是善卿(すがわらこれよしきょう)、御母君 園文字姫(そのもしひめ)の3柱、右側に旧学文路村内の55柱を祀っている。
創建について、「天満神社御縁起」では、「天満神社は、人皇第75代崇徳天皇の天治元年(紀元1124年)9月25日、紀伊国伊都郡当時相賀の荘の今の地に御勧請、<中略>当神社は京都北野神社御建立の際、時の帝第62代村上天皇の天暦元年(947年)、日本国中一郡に大社小社に不限必ず一社の鎮座を被仰出たるに依る」とされている。
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の綸旨、いわゆる元弘の勅裁により、相賀荘は「相賀荘河北」「相賀荘河南」と、紀ノ川の河北と河南で領有が二分された。
相賀荘河北は、これまでどおり根来寺領、相賀南荘は、高野山寺領となった。相賀大神社を「河北惣社」と呼ぶのに対し、天満神社は、南荘の総鎮守となって、「河南天神」ともいわれて、崇敬された。
明治6年(1873年)に村社、明治40年(1907年)に神饌幣帛供進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定された。
伊都地方唯一の天満宮として、学業成就、受験合格の参拝者が多く訪れている。
祭礼は、1月25日(初天神)、8月25日、10月第4日曜日に行われており、初天神には学文路地区の小中学生の書初め展がある。
南海高野線学文路駅下車、徒歩20分。参拝者用駐車場がある。(Y.N)

          担ぎだんじり飾幕「川中島の合戦」



菅原道真
すがわらのみちざね
[845―903]

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平安前期の律令(りつりょう)官人。政治家、文人、学者として名が高い。是善(これよし)の子で母は伴(とも)氏。本名は三、幼名を阿呼(あこ)といい、後世菅公(かんこう)と尊称された。従(じゅ)二位右大臣に至る。
 承和(じょうわ)12年6月25日、父祖三代の輝かしい伝統をもつ学者の家に生まれた道真は、幼少より文才に優れ向学心も旺盛(おうせい)で、862年(貞観4)18歳で文章生(もんじょうしょう)となり、870年対策(たいさく)に及第、877年(元慶1)文章博士(はかせ)となった。
その間、少内記に任じて多くの詔勅を起草、また民部少輔(しょう)として朝廷の吏務に精勤する一方で、文章の代作や願文の起草など盛んな文章活動を続け、880年父是善の没後は、父祖以来の私塾である菅家廊下(かんけろうか)を主宰、宮廷文人社会の中心となった。
886年(仁和2)讃岐守(さぬきのかみ)に転出したが、翌年宇多(うだ)天皇の即位に際して起こった阿衡(あこう)事件には深い関心を寄せ、入京して藤原基経(もとつね)に良識ある意見書を提出、橘広相(たちばなのひろみ)のために弁護した。この事件が権臣の専横を示すとともに、政治に巻き込まれた文人社会の党争に根ざしていただけに心を痛めたのである。890年(寛平2)国司の任期を終えた道真は、藤原氏の専権を抑えて天皇中心の理想政治を実現しようとする宇多天皇の信任を受け、帰京の翌年には蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢(ばってき)され、893年参議、左大弁に登用されて朝政の中枢に携わることになった。
たとえば894年遣唐大使に任命されたものの、唐朝の混乱や日本文化の発達などを理由に奈良時代から続いた遣唐使を廃止し、895年渤海使(ぼっかいし)を応接、その翌年には検税使の可否を再評議するべき奏状を奉るなどの事績を残している。その間も官位は昇進を続け、中納言(ちゅうなごん)、民部卿(きょう)、権大納言(ごんだいなごん)、春宮大夫(とうぐうだいぶ)、侍読(じとく)などの任にあたっていた。897年宇多天皇は譲位したが、その遺誡(いかい)により醍醐(だいご)天皇は藤原時平(ときひら)とともに道真を重用、899年(昌泰2)時平の左大臣に対して道真を右大臣に任じた。
しかし当時の廷臣には儒家としての家格を超えた道真の栄進をねたむ者も多く、900年には文章博士三善清行(みよしきよゆき)の辞職勧告に接している。また他氏を着々と排斥してきた藤原氏にとって道真は強力な対立者とみなされており、901年(延喜1)従二位に叙してまもなく、政権と学派の争いのなかで時平の中傷によって大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された。そして大宰府浄妙院(俗称榎寺(えのきでら))で謹慎すること2年、天皇の厚恩を慕い望郷の思いにかられつつ、延喜(えんぎ)3年2月25日配所で没した。福岡県太宰府(だざいふ)市安楽寺に葬られる。
 このように政治社会では挫折(ざせつ)したが、学者・文人としての道真は死後学問の神と崇(あが)められてきたように、当時から高く評価されていた。独自の構成をもつ『類聚国史(るいじゅうこくし)』の撰修(せんしゅう)はとくに有名であり、『日本三代実録』の編集にも参加。文学上の業績は「文道の大祖、風月の本主」と尊敬され、その詩文は『菅家文草』『菅家後集』にまとめられている。和歌にも巧みで、配流されるとき詠んだ「東風(こち)吹かば――」の歌は古来人口に膾炙(かいしゃ)した。その晩年が悲惨であっただけに死後の怨霊(おんりょう)に対する怖(おそ)れは強く、まもなく本位本官に復し、993年(正暦4)正一位太政(だいじょう)大臣を贈られるとともに、天満天神(てんまてんじん)として全国的に信仰された。京都北野天満宮(てんまんぐう)は道真を祭神として10世紀なかばに創立されたものである。
[谷口 昭]

伝説

その説話は、『大鏡』巻2時平伝や『北野天神縁起』などにみえる。右大臣まで異常な昇進をするが、大宰権帥に左遷され、悲劇の一生を終えたために付加された後人の伝説も多い。死後の霊は天満自在天となり青竜と化して、時平を殺す。彼の霊が雷神として祟(たた)ったり、神と化した話は、当代の御霊(ごりょう)信仰からきたものである。荒(すさ)ぶる神としての性格のほかに、飛梅(とびうめ)や飛松の伝説も各地にある。左遷にあたって「東風(こち)吹かば匂(にほ)ひおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」と詠んだ自邸の庭の梅の木が、後世に筑紫(つくし)などに飛んでいったとするものである。また左遷の途次の道筋に沿っての地名起源伝説なども、その哀れさをとどめる。雷神が天神として田の神として祀(まつ)られる地方が、東北、北陸など道真と関係のない地域にも残っている。雷雨によって水をもたらす利益が農神としての性格を残したものであろう。そのほか一夜(いちや)天神や渡唐(ととう)天神などの伝説もある。
[渡邊昭五]

学文路
かむろ

和歌山県北東部、橋本市の一地区。旧学文路村。古くは禿(かむろ)と書いた。紀ノ川南岸に臨み、また高野山参詣(こうやさんさんけい)路の不動坂道の上り口にあたり、説教、浄瑠璃(じょうるり)で知られる石童丸(いしどうまる)にちなむ苅萱(かるかや)堂や、謡曲『高野物狂(ものぐるい)』にちなむ石がある。国道370号が通じ、南海電鉄高野線の学文路駅がある。この駅の入場券は受験のお守りとして人気になっている。
[小池洋一]

ネズ
ねず
[学]Juniperus rigida Sieb. et Zucc.

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ヒノキ科の常緑低木または高木。ネズミサシ(鼠刺し)ともいう。大きいものは高さ20メートル、径1メートルに達する。大木の小枝はよく垂れ下がる。樹皮は灰赤褐色。葉は針状で細長く、触ると痛い。雌雄異株。4月、雌・雄花とも前年枝の葉腋(ようえき)に1個ずつ開く。雄花は楕円(だえん)形、緑色の鱗片(りんぺん)の中に2個の葯(やく)があり、黄色の花粉を出す。雌花は卵円形で質が厚く、心皮は緑色で3枚、おのおの2個の胚珠(はいしゅ)がある。
果実は球形で厚肉質、翌年または翌々年の10月ころ紫黒色に熟す。種子は2、3個あり、卵形で淡褐色。山地や丘陵の日当りのよいやせ地に生え、しばしば群生する。本州から九州、および朝鮮半島、中国北部、東北部、ウスリーに広く分布。瀬戸内地方には野生が多い。庭木や盆栽にする。材は木目が緻密(ちみつ)で堅く光沢があり、建築、土木、器具、彫刻などに利用する。
[林 弥栄]

文化史

ネズの名はネズミサシに由来し、ネズミの出没する穴や通路にその針状の葉を置き、防いだことからついた。盆栽などでは杜松(としょう)とよばれる。
 ジンの香りづけに使うネズは別種のセイヨウトショウJ. communis L.のことで、日本にはその変種とされるリシリビャクシンJ. c. var. saxatilis PallasやミヤマネズJ. c. var. nipponica (Maxim.) Wilsonなどが分布する。果実は甘い香りがある。その香りは地域によって差があり、イタリア、ハンガリー、南スラブ(旧ユーゴスラビア)諸国、チェコ、スロバキアなどの高山が主産地である。
[湯浅浩史]

天穂日命
あめのほひのみこと

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国譲り神話のなかに出てくる神。天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(すさのおのみこと)が誓約(うけい)をした際、天照大神の珠(たま)から生まれた五男神のなかの一神。
出雲(いずも)の国譲りのとき、第一の使者として派遣されたが、大国主神(おおくにぬしのかみ)に媚(こ)びへつらって、3年間復命しなかったという(『古事記』)。
しかし、『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)』では復命したとある。出雲国造らの祖神。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)などと同じように、稲穂の神という意であろう。
「日」が太陽の意とすれば、太陽の光の恵みによって、稲の穂が豊かに実ることを神格化したものであろう。
[守屋俊彦]

天神
てんじん

宗教学上での天神(てんしん)sky godとは、在天の神というより天そのものを人格化した神をいい、未開社会には広くみられ、至高神の地位を占めることが多い。
日本では天神(てんじん)・地祇(ちぎ)と並称され、地祇(くにつかみ)(国神)に対する天神(あまつかみ)をさす。神話では高天原(たかまがはら)に座(いま)す神々、また高天原から国土に降臨した神とその子孫の神々をいい、日本の神祇を区別づける重要な標準とされた。
なお、後世はもっぱら菅原道真(すがわらのみちざね)を祭神とする天満天神(てんまんてんじん)をさす称号となった。
[牟禮 仁]

天神信仰
てんじんしんこう

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平安時代の公卿(くぎょう)・政治家・学者であった菅原道真(すがわらのみちざね)の死後、その霊は天満(てんまん)天神として崇(あが)められて信仰が広まり、現在に至るまで全国で1万数千社の天満宮を中心に、「天神さま」として親しまれてきた。
903年(延喜3)道真は流罪となった筑紫(つくし)国大宰府(だざいふ)(福岡県太宰府市)にて没したが、京都では落雷などの天災が相次ぎ、また藤原氏一族の変死が重なり、世人はこれを道真の怨霊(おんりょう)によるものと畏怖(いふ)した。
当時、社会的に強い影響のあった怨霊・御霊(ごりょう)信仰と結び付き、道真の霊は雷神、疫神(えきしん)、そして天満天神と観念された。天満天神とは眷属(けんぞく)を率いて国土に遍満し、大災害をなす梵天帝釈(ぼんてんたいしゃく)系統の怨霊神であった。
大宰府には没後2年墓所に廟社(びょうしゃ)が建てられたが、京都北郊の北野の地には天満宮が創建された。
ここはそれ以前より農耕生活とかかわり深い天神・雷神信仰による農耕祭祀(さいし)が行われ、これと結び付いたと考えられる。ここに、後世、天神信仰が都市のみならず地方農村へも発展していった素地があったといえる。
鎌倉時代以降に入ると社会的信仰と個人的信仰の両面で新たな展開がなされた。儒家菅原家の氏神(うじがみ)・学徳への追慕から、儒学者・文人の間では文道・学問・書の守り神としての霊験(れいげん)が広まり、室町時代にはとくに五山禅僧の間に渡唐天神として中国風の思想も加え、菅公(かんこう)と梅との結び付きもここに由来する。江戸時代には寺子屋教育の普及とともに学問の神として庶民の子弟にまで広まった。命日の2月25日、月々の25日には子供たちによる天神講が行われた。
個人信仰の面では、鎌倉期以降、天神縁起(えんぎ)の絵巻物が流布し、冤罪(えんざい)をはらす神、また加えて正直の徳ある神として道徳観を強めることとなった。なお江戸時代の浄瑠璃(じょうるり)の『天神記』(近松門左衛門作)、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』(竹田出雲(いずも)ら作)も道真の一代記として、天神信仰の普及に影響が深かった。
[牟禮 仁]

白太夫社・百太夫社
しろだゆうしゃ・ひゃくだゆうしゃ
白太夫社は菅原道真を祭る天満宮の摂社に見られるもの、百太夫社は兵庫県西宮市の西宮神社の摂社になっているものであって、両者を混同してはならない。
白太夫社は道真と幽契の睦みがあったという伊勢大神宮の神官渡遇(わたらい)春彦の霊を祭る神社である。渡遇春彦については、群書類従本の『豊受太神宮禰宜補任次第』に閲歴はみえるが、道具との関係の事はみえない。
百太夫社は西宮戎(えびす)神社の戎廻しをしていた産所町(散所)に住む傀儡(くぐつ)師が祭っていた社を幕末にその境内に移したものである。百太夫は、遊女・傀儡師の作る粗末な人形で、その数多きを以て百太夫の名が与えられた。百太夫は晴天を祈るための照る照る坊主と同じように、これに向かっておのれの幸運を祈るが、その願望の達成せられざるときは、これを水流に流し捨てるか、敲き破ってしまう。道教に見られる脅迫信仰の一種である。百太夫社では、衣冠を着けた百太夫の神像を印刷したお札を参詣者に配っている。
(滝川 政次郎)


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