寛演歌碑

寛演歌碑は、和歌山県高野山奥の院の18町石南東にある。
関東大震災霊牌堂(供養塔)域内にある。

昭和5年(1930)に建立された歌碑南面には、次のように刻されている。
みほとけのりやくの程そ有難き
病気忘れし今日の嬉しさ 寛演

北面には、関東大震災発生後に高野山の僧侶が東京を訪問し永田秀次郎市長に被災者の収骨を告げたことなどが詳細に記されている。
下記の北面碑文全文は、山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」に載せられている。山内氏によると、寛演とは、文中の井上氏か、東京某氏か未詳。

大正癸亥関東地震也住持我高野山寺者相率訪都弔災又告永田
東京市長拾収災死者骨棺之而還葬諸奥院塋域将建石以表之
大阪井上君菊松聞之多捐資造寶篋印式石塔今茲昭和五年東京
某氏亦喜捨鉅財起錬造石龕旦簿録災死者姓名盛以水晶?凡五
石綿包之重擲以鉛與錬石以令不朽敗蔵龕嗚呼二君之義克成
我山侶慈濟之志而煢煢孤魂因以得往生密嚴浄刹哉茲録其功徳
以表干無窮云

 維時昭和五庚午歳十一月九日 総本山 金剛峯寺

寛演歌碑のすぐ横には、震災当時の東京市長永田秀次郎供養塔がある。
五輪塔地輪には、次の通り永田市長の法名が刻されている。
(梵字) 大觀院殿秀峯圓通青嵐大居士霊

永田秀次郎は、(1876-1943)は、大正、昭和時代の官僚、政治家である。
三重県知事、貴族院議員、東京市長、鉄道大臣、拓殖大学長などをつとめた。
俳人 高浜虚子と親しく、俳号は青嵐。昭和18年9月17日に68歳で死去した。→ 永田青嵐 句碑  高野山内の歌碑、句碑、詩碑



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