河口慧海顕彰立像は、堺市南海電鉄七道駅前にある。
河口慧海(かわぐちえかい 1866-1945)は、明治時代、鎖国体制下のチベットに単身ヒマラヤを越えて潜入し、
その冒険談を「西蔵(チベット)旅行記」に著したことで世界的に知られる仏教者、仏教学者である。
堺山伏町(現堺区北旅籠町西三丁)で樽職人「樽善」の息子として生まれた。
父は、河口善吉、母ツネ、6人兄弟の長男で、幼名は定治郎である。
数え年6歳で寺子屋「清光堂」に学び、7歳で錦西小学校に入学したが、12歳で家業に従事するため退学した。
その後、土屋弘(鳳州)が主宰する晩晴書院で漢学等を学び、釈迦の伝記を読んで発心し、禁食肉、禁酒、不淫を誓った。
晩晴書院の同門には、慧海のチベット行きを支援した肥下徳十郎や、のちの東京美術学校校長 正木直彦などがいた。
明治21年(1888)には上京し、哲学館(現、東洋大学)に入学した。→ 麟祥院
明治23年(1890)25歳で、黄檗宗の五百羅漢寺で得度をうけ、慧海仁広(じんこう)となった。
慧海は漢訳仏典を学ぶうちに、梵語(サンスクリット)やチベット語の仏典の収集と研究が必要であると痛感し、
32歳から50歳までの間に、前後2回、通算17年間、インド、ネパール、チベットを旅した。
そして、梵語やチベット語の仏典、仏具や仏像、標本類など膨大な資料を日本に持ち帰り、帰国後はチベット仏教や文化の紹介に捧げ、チベット仏教学を樹立した。
「西蔵旅行記」などには、血を吐き、氷河で溺れ、砂嵐に耐えながらヒマラヤを越える様子が描かれている。
また、還暦を機に既成仏教の僧籍を返上し、在家仏教を提唱し、真の仏教徒をめざさんとした。
当地の顕彰立像は、1983年に堺ライオンズクラブが彫刻家田村勤に依頼して制作し、堺市に寄贈したものである。
山羊と共に、ヒマラヤを越えてチベットを目指す雪山道人慧海の姿が表現されている。