地蔵寺 矢倉脇

宝形山延命院地蔵寺は、和歌山県橋本市矢倉脇にある真言宗の寺院である。
本尊は地蔵菩薩で、脇仏として不動明王、毘沙門天を祀っている。本堂には天井絵が描かれている。
紀見村郷土誌によると、元は西方高山の頂上にあったものである。
平将門の末裔 贄川将房がこの地に迷い込み、高山七郎という老人の敬愛を受けて、長藪城(橋本市城山台)の城主となった。
高山七郎の宅地を改めて、本堂、護摩堂、山王権現、摩利支天法幢等の堂塔伽藍を建立しこれを宝形山と号した。
高山七郎が剃髪して、隆阿と名を改めて、将房の武運を祈ったという。
その後15世紀後半に、第9代将軍足利義尚の兵乱で堂宇を焼かれた。
現在地には天文10年(1541年)に再建された。庫裏は平成3年(1991年)に改築されている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩5分。



養叟庵

養叟庵は、和歌山県橋本市矢倉脇にある禅僧養叟の旧跡である。
室町時代中期の禅僧養叟宋頣(1376-1458)は、京都の出身で、近江堅田の禅興庵で「孤高の禅僧」といわれた華叟宋曇について禅の修行を積んだ。
大徳寺の一休宗純とは、共に華叟の教えを受けた先輩(法兄)にあたる。
正長元年(1428年)師の華叟が入寂すると、養叟は京都紫野大徳寺大用庵に、一休は同・如意庵に住まいした。
文安2年(1445年)臨済宗の本山大徳寺の第26世となり、南禅寺同様に紫衣勅許の出世道場とした。
長禄元年(1457年)に、後花園天皇から「宋慧大照禅師」の勅号を賜っている。
養叟が、矢倉脇に来たのは享徳3年(1454年)前後で、平将門の子孫 牲川次郎左衛門将房(にえかわじろうざえもんまさふさ)は、宝形山徳禅寺を建立して養叟を迎えた。
養叟は、この地で晩年を過ごし、83歳で入寂した。
その後、徳禅寺は兵火で焼失し、場所もわからなくなっていたが、天保8年(1837年)に、紀伊藩と大徳寺が合同で調査した結果、養叟の旧跡であることが確認され、嘉永元年(1848年)に徳禅寺再建が発願され養叟庵が建立された。
元は少し離れた髙山にあったが、明治32年に現在地に移築され、平成時代には養叟苑として花がみられる庭園が約50m西に作られている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩5分。


極楽寺 柱本

日光山極楽寺は、和歌山県橋本市柱本にある高野山真言宗の寺院である。
紀伊西国第7番札所で、本尊は大日如来(胎蔵界)が祀られている。
紀伊西国三十三所観音巡礼は、少なくとも太平洋戦争末期まで、橋本市及び九度山町の「紀伊西国霊場会」で行われていた。
昭和8年発行の紀見村郷土誌には、次のように記されている。
「極楽寺 柱本に在り
境内除地交れり 域内本堂及び経堂あり 本尊は大日佛なり
嘗て記録等盗難にかゝりし事あり 依りて由来不詳
現住職は和田廣島樂師なり」
当寺に残り、現在も使われている「鰐口」には、次の銘が彫られている。
「伊都郡谷内柱本極楽寺寛文拾庚戌夫五月吉辰日」(1670年)
この銘と上棟板に記された「元禄十六年」(1703年)「極楽寺大日堂建立」という旧本堂が建てられた年、さらに本尊大日如来横の「観世音菩薩」光背に記された「二世安楽」の銘から、当寺に住職が常住し始めたのが、寛文十年頃で、それ以前は「大日如来」を安置した無住のお堂だったと考えられている。
これは、江戸時代初期、寛文5年(1665年)に交付された「諸宗寺院法度」から5年後にあたり、各宗派の寺院がそれぞれ「本山・末寺」として整理され、地域の主な末寺にも住職が常住化した時期とも合致している。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。



葛城神社(柱本)

葛城神社は、和歌山県橋本市柱本にある神社である。
祭神は、素戔嗚命で、境内社として、若宮殿と猿田彦神社がある。また飛地社として愛宕神社ほか末社四殿がある。
勧請についての詳細は不明で、古老の言い伝えによれば、正平4年(1349年)頃、戦火により旧記等ことごとく焼失したという。
当神社は、牛頭天王社とも称し、疫病神としての京都祇園社(八坂神社)が総社である。牛頭天王は、もとはインドの釈迦や弟子の僧坊である祇園精舎の守護神であった。
京都祇園社の紋が胡瓜の切り口に似ているところから、祇園さんの紋を食べるのは恐れ多いとされ、最近まで胡瓜を食べなかったと云う。
六十年毎に本殿の造営が行われ、現在の建造物は、昭和55年に、氏子によりすべての建物が寄進された。
古くから当神社を管理し守るための宮ノ講という座中による輪番で毎年元旦から1年間神主を務めて祭事を司っている。
元旦には神主を司るものが、重さ20kgの大松明2基による道案内で、神社東側の宮川の滝壺に入り、精進潔斎の禊を行う。
境内には、橋本市指定文化財のムクロジがある。ムクロジ科の落葉高木で、6月頃淡緑色5弁の小花を大きな円錐花序につけ、実(果実)は球で硬く羽子(はご)の球に使われる。
また果皮はサポニンを含むので石鹸の代用とされた。漢名は、無患子、木患子。和名のムクロジは、モクゲンジの漢名「木樂子」の誤用とされている。
平成9年指定当時、高さ29.7m、胸高幹回4.2mと大きく、和歌山県の調査によると、高知県須崎市大谷の勢井白王(伊気)神社境内のものに次いで、全国2番目の規模といわれる。
南海高野線林間田園都市駅から南海りんかんバスで「紀見ヶ丘」下車、徒歩5分。



紀見峠

紀見峠は、和歌山県と大阪府の境にある標高400mの峠である。
紀伊国と河内国の境で、高野街道の宿駅として栄えたところで、峠の旧街道脇に「高野山六里道標石」が建てられている。
また、文化勲章を受章した数学者岡潔博士(1901年-1978年)は、少年時代を含め生涯3度紀見峠に居住していたことから、「岡潔生誕の地」の石碑がある。
博士の顕彰活動に取り組む「橋本市岡潔数学WAVE」が、岡博士の散策した道を「情緒の道」と名付け、この地に博士の筆跡を写し取った文字で標柱が建てられている。
峠の民家裏に「一結衆二十七人墓、元中三年三月」銘の石造五輪塔がある。これらの古碑は、南都復興のために、この地で戦死した武士や住人を祀ったものと考えられている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩約40分。(Y.N)


峠の茶屋 丹波屋

峠の茶屋 丹波屋は、紀見峠から高野街道を約400m南に行ったところにある。
店内には、江戸時代の宿場町の面影の残る風景画が飾られている。
毎週土曜日と日曜日に午前10時から午後5時まで営業している。


蟹井神社

蟹井神社は、大阪府河内長野市にある神社である。
元禄5年(1692年)の寺社吟味帳(吉年家文書)に八幡宮(現蟹井神社)が載っている。
天喜2年(1054年)の創建といわれている。
蟹井神社は、「甲斐庄」に鎮座していたことから、甲斐神社と称され、誉田別命(応神天皇)、神倭伊和礼彦命(神武天皇)、息長帯比売命(神功皇后)を祀っていた。
その後延宝4年(1676年)の大火で焼失し、神社の南の天見川の蟹井の淵からご神体があらわれ、「蟹井神社」と改称された。
明治41年(1908年)岩瀬の菅原神社(祭神菅原道真公)を合祀している。
秋の大祭では、見坂、茶屋出、島の谷の三地区から高提灯を仕立て、祇園囃子を唄いながら参拝する「提灯祭」が行われる。
行列が宮入りした後、境内で「湯立神事」が行われる。大きな釜でお湯を沸かし、お供えの後、神主が榊や笹の葉を熱湯に浸して、氏子たちに振り掛ける。
南海電鉄高野線天見駅下車、徒歩10分。



安明寺 

安明寺は、大阪府河内長野市天見にある真言宗御室派(元は融通念仏宗)の寺院である。
山号は妙雲山、本尊は阿弥陀如来で、両脇に不動明王と弘法大師像が祀られている。
創建年代は不詳であるが、本堂改修工事の際に弘化3年(1846年)に、本堂が再建された旨の記録が見つかっている。
南海電鉄高野線天見駅下車、徒歩10分。


南天苑本館
南天苑本館は、大阪府河内長野市天見にある温泉旅館である。
高野街道は、京都、大阪から高野山への参拝客が古来多く行き来していた。
延元年間(1336-1340)に、近郷の流谷八幡宮の境内にあった極楽寺に湯治場が開かれ、病人や多くの参詣客が入浴し、「極楽風呂」「極楽温泉」と呼ばれていたが、寛延3年(1750年)に神社、温泉共に焼失し、廃湯となった。
その後、大正4年(1915年)に天美駅が開業し、南海電鉄が旅客誘致のため天見温泉の開発が始まった。
天見温泉・南天苑本館は、元々、大正2年(1913年)に阪堺軌道(後に南海鉄道と合併)が、堺市の大浜公園に建設した娯楽施設、「潮湯」の建物の一つ「家族湯」の建物である。
この建物が、昭和9年(1934年)に室戸台風で損壊し、昭和10年に現在の場所に移築されて、大阪市阿部野の料亭「松虫花壇」の別館として営業を始めた。
平成14年9月に「明治建築研究会」により建物調査が行われ、建築界の大御所、辰野金吾博士の辰野片岡建築事務所の設計であることが分かった。
そのため、平成15年(2003年)に国の登録文化財に指定されている。
建物は、和風をベースとしながら諸所に洋風モダンな意匠が取り入れられた、大正昭和初期の建築様式を偲ばせる貴重な建物である。
堺市の大浜公園には、「いにしえの大浜公園」として、当時の潮湯の写真などが紹介されている。
南海高野線天見駅下車、徒歩2分。(Y.N)


矢倉脇村

やぐらわきむら

 

[現]橋本市矢倉脇

橋谷(はしたに)村の北、紀見(きみ)峠に続く丘陵地にあり、橋本川の谷に沿って細長く人家が点在。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大(おうがだい)神社八月放生会に「矢蔵脇村」は米五升を納めている。慶長検地高目録によると村高一四一石余、小物成四升五合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数二四(本役八など)、人数一〇九、馬一、牛四、小物成は茶一斤、紙木七束。寛文一三年(一六七三)の慶賀野と矢蔵脇等五ケ村山出入証文(矢倉脇区有文書)によると、同年三月二八日、慶賀野(けがの)村の村人が当村根古(ねご)山に「めかり」刈に来たことから山論が生じ、山の入会について取決めをし、絵図を作成している。

地蔵寺(高野山真言宗)は本尊地蔵菩薩。葛城(和泉)山脈の山腹には養叟が住していた徳禅(とくぜん)院跡があり、現在養叟(ようそう)庵と称する小庵となっている。養叟は京都大徳寺の第五世、隠退して当村に来住、土地の有力者贄川氏の援助で徳禅院を建てたという。天保八年(一八三七)の宗恵大照禅師尊像由来記(上垣家蔵)によると、中下(ちゆうげ)村の慶長検地帳に徳善寺所持田畑として六反七畝二四歩が記されていたようである。天王神社は素戔嗚命を祀り、ほかに八王子社四社があった(続風土記)。根古川上流に唐(から)滝と孤子(こし)ヶ滝がある。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo

 

"やぐらわきむら【矢倉脇村】和歌山県:橋本市", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-08-31)

紀見峠

きみとうげ

 

大阪府との境にあり、紀伊見(きいみ)峠(きのみ峠とも)ともいった。高野山開創により京・大坂からの参詣道の峠となり、葛城修験の行場でもあった。南北朝時代、東北に楠木正成の千早(ちはや)城(現大阪府南河内郡)があり、戦略の要地となった。峠の民家裏に「一結衆二十七人墓、元中三年三月」銘の石造五輪塔がある。寛正四年(一四六三)三月一四日、河内竜泉寺(りゆうせんじ)城(現大阪府富田林市)を追われた畠山義就は紀見峠を越えて高野山へ遁走しているが、「長禄寛正記」は義就の侍者の歌として「夏落ル木ノ実峠ノ行末ヲシラヌハゲニモ道理也ケリ」を載せる。

慶安元年(一六四八)和歌山藩の伝馬所が設けられた。同四年の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)に紀見峠新家として家数一七、人数五九、馬二〇が記され、物資輸送に携わる者の住居や茶店なども建てられたことがうかがえる。江戸時代初期の烏丸資慶の紀行「高野山路之記」は峠の様子を次のように記す。

 

紀の見の峠にこえかゝる。道に木たかくふりたる松三本ぞたてる。故あるさまなるをとへば。紀の国河内の境のしるしといふ。

たよりあらば紀のぢのさかひけふこえてしるしの松もみきとつげばや

峠にのぼりぬれば。旅人の為にむすびをけるいほりあり。やすらひてそこらとひきけば。此山なんかつらぎの峰つゞきにて。むかひのしげれる嶽にても。行者のおこなひすなるといへば。

しら雲のよそにかけこしかつらぎのみねのつゞきをけふぞこえぬる

©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo

 

"きみとうげ【紀見峠】和歌山県:橋本市/柱本村", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-05-23)

 

 

 

紀見峠

きみとうげ

 

紀伊見(きいみ)峠・木の実(きのみ)峠ともいう。高野街道の河内・紀伊国境の峠。標高約四〇〇メートル。国境を示す老松が街道の東の山頂(四三七・九メートル)にあり、境界松とよばれたが、現在は枯死している。「河内名所図会」に「紀見嶺(きのみとうげ) 天見村の南にあり、紀州伊都郡の界也、天見より一里十七町あり」とある。紀見峠は軍事上重要な地点であった。正慶二年(一三三三)正月、甲斐(かい)庄安満見(あまみ)(天見)で合戦があり、紀伊国の御家人井上入道ら五〇余人が楠木軍に討ちとられた(楠木合戦注文)。また峠の民家の裏に「一結衆二十七人墓 元中三年三月」と刻まれた五輪塔がある。寛正四年(一四六三)三月、嶽山(だけやま)城(現富田林市)の合戦に敗れた畠山義就は、この峠を越えて高野山に敗走した(長禄寛正記)。烏丸資慶の「高野山路之記」に、「紀の見の峠にこえかゝる。道に木たかくふりたる松三本ぞたてる。故あるさまなるをとへば、紀の国河内の境のしるしといふ。(中略)峠にのぼりぬれば、旅人の為にむすびをけるいほりあり」とある。

道標に「高野山女人堂江六里」とある。和歌山藩は峠に番所を置いて通行人を警戒した。かつては高野詣の通行人が多く、国境を紀州側へ越えたところに宿駅が設けられていた。明治時代には七〇軒くらいの人家があったが、明治三三年(一九〇〇)紀和鉄道(現国鉄和歌山線)が奈良から和歌山県橋本(はしもと)を通って和歌山まで開通してからは、紀見峠を利用する高野山参詣者は激減した。大正四年(一九一五)紀見峠トンネルが完成して大阪高野鉄道(現南海電鉄高野線)が峠を越え、昭和四四年(一九六九)国道三七一号の紀見トンネルが開通、同五一年には南海電鉄新紀見トンネルが開通した。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo

 

"きみとうげ【紀見峠】大阪府:河内長野市/天見村", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-05-23)

 

 

 

 

紀伊見峠宿場跡

橋本市史 下巻

 

 紀伊見峠は紀伊と河内の境にある峠の名称であり、古い歴史につながった一つの宿駅でもある。この峠の宿駅がいつごろできたかはさだかではない。しかし延暦15年(796年)南海駅路の新路として開かれた道は、まさしくこの峠を越える道であったし、また弘仁7年(816年)空海の高野山開創によって、京都から高野山に通ずる道もまた、この峠を越えた道であったことは、古代史によって明らかである。交通の不便な時代、この峠を越えて南海道や高野山に至る旅人の苦難は、恐らく我々の想像外であったろう。昔の旅人にとっても峠のもつ意義と価値は大きかった。それはあえぎあえぎ登った山上の峠は何よりの休息地であり、また大自然の展望に心を慰められる地点でもあった。そこに休息の茶店や宿が自然に発生するのが峠である。このように考える時、天下の官道が通るこの峠、大師結戒(界)の聖地を訪う権者、庶民の往還したこの峠の起原はかなり古い時代であったことが推定される。おそらく平安後期にさかのぼるのではなかろうか。

 「紀伊名所絵図」によると、

東家村より十七町許(1.9キロメートル)これより河内国三日市まで二里、葛城連峯の中、この處最も卑(ひく)くして平易なれば、北方の諸州より本國に入る通路とす。河内國

錦部(にしきべ)郡天見村に接せり。むかし諸帝高野山に行幸し給へるも皆この峠を越えさせ給う。永承年(自10461052)中、関白頼道公御参拝の記に、「おの山を越ゆるよし見えたるも猶この道なり、おの山は葛城続きの北山の総名なれば、こゝををもしかいへる事他にも證あり」(「お」は口へんに猿のつくり、「の」は口へんに、於)かくて南山登詣の緇素(しそ)(僧と俗人)年々歳々に多きをもって、いつの頃よりか山嶺に茶店をひらき、客舎を建てつらねしかば、酒旗春風になびき、にくからぬ袖に、往来の旅人を招くもあるべし。

 なお、「新撰長禄寛正記」によると

寛正4年(1792年)314日、嶽山の寄手の中、奈良の成(じょう)真院がはかりごとにて、國見山の頂に陣とり、城中南の口の道路を指留ければ、忽ちに兵糧つきて、籠城不叶(ろうじょうかなわず)義就(よしなり)(畠山)共嶽山を落ちらるゝ、御供の侍紀伊見峠にてかくぞ口號(くちずさみ)ける。

夏おつる 紀のみ峠のゆく末も ひとにまかせて さく花を見む

(「紀州名所図会」)

またこの峠は紀河国境の地にあって、軍事上の要地でもあった。

「正慶年中(1332-33)湯浅孫六赤坂城に籠り、楠木正成が寄手を防ぎ、糧米を紀州阿瀬川(有田)より運ばしむ、正和和田、恩地、安間、高安等三百人に命じて、湯浅が兵を紀伊見峠に破る。云々」(「太平記」三楠実録)

 今、同地岡氏裏藪に大小二、三基の五輪塔があり、「一結衆二十七人墓、元中三年(1386年)三月」との銘文のみ判読することができるが、ほかは風雪にさらされ不明である。

 これらの古碑は、南都復興のために、この地で戦死した武士や土民を祭ったものであろう。

 なおこの峠が公認の「伝馬所」となって、人馬物資輸送の宿駅となったのは慶安元年(1648)である。

 このころは、峠の最も繁盛した時代で、茶店、宿舎も数十軒にも及んだと伝えられる。

 ちなみに紀河の国境には「三本松」があった。現在は、一本の老松が残ってわずかに昔の面影をとどめている。

 

 

西高野街道ガイド

河内長野市観光協会

 

平安遷都後の延暦15年(796)に紀見峠越えの新しい道が開かれその後、弘仁7年(816)には、空海が高野山を開いたので、この街道はますます重要性を増し沿道の村々は発展しました。
 高野山に参る道には、初めは山城国(京都府)から洞ヶ峠を越えて、河内国(大阪府)に入り生駒山脈の西麓を南に下って、紀見峠から慈尊院につき、高野山町石道をのぼって大門へ通じる東高野街道が発達しました。その後、大坂からの街道は、平野から松原を経て河内長野に出る中高野街道と堺から狭山を経て河内長野に至る西高野街道が開け、江戸時代(16031867)には大変賑わいました。また江戸時代末には西高野街道には旅人の便宜をはかるために一里ごとに道標石が堺から高野山の女人堂まで13基建てられました。
 西高野街道は平安時代末から鎌倉時代初期に開かれ、室町時代には高野聖の納骨や庶民の参詣の道となり、江戸時代には天下の台所といわれた大坂、堺の町人の米・酒・綿など通商の幹線道としてにぎわい全盛期をむかえました。明治35年(1902)堺市草尾の辻に大阪府が建立した道標に「西高野街道」と刻んでいるのをみても、この道の繁栄ぶりを伝えています。
 現在、西高野街道の起点は堺市役所近くの大小路橋で、高野山女人堂とを結び、その間に堺・榎元町の十三里道標石から高野山神谷の一里道標石まで、ほぼ1里(4km)、ごとに13基の里石が建ち、すべて現存しています。安政4年(1857)の2月から9月にかけて建立したものです。

 13本の里石道標の建立を発起(発願)したのは、河内、茱萸木村(現大阪府狭山市)の百姓人・小佐衛門・五兵衛の二人ですが、その素性は全くわかりません。
 里石の石材は花崗岩で、高さは地上より約150cm前後、幅24㎝位の直方体の四面に、女人堂までの里数、建立年月、発起人両名の名、施主(建立寄進者)名、そして「南無大師遍照金剛」と刻み同じ形式でつくられています。施主はすべて河内国の人々で、一人で寄進したもの、複数の人によって建立したものとさまざまです。発起人の地元茱萸木村の十里石は、両名に敬意を表してか「村中」によって建立しています。
 小佐衛門と五兵衛がどのような方法で勧進したのか不明ですが、堺市関茶屋の十二里石は四人の世話人で浄財を集めて建立、橋本市東家の四里石は一族中で建立するなど、施主名から勧進の方法を推測することができます。
 里石道標石が建立される少し以前の弘化3年(1846)、大坂の町人の「高野より吉野・長谷寺参詣の記」という旅日記がのこっています。それによると3月19日正午前に大坂を旅立ち、堺から西高野街道に入り三日市(河内長野市)の油屋庄兵衛で一泊、翌20日雨降りのなか出発、紀見峠(橋本市)を越え紀の川を渡り三軒茶屋(橋本市賢堂)の松屋惣八で昼食、不動坂を経て高野山で投宿しています。1日半で大坂から高野山へ登る健脚に驚かされます。この旅日記に、道中でいろいろな喜捨を受けた内容を記録しています。巡礼姿の何の面識もない大坂の町人に、行く先々で、むすび一つや二つ、餅一つ二つ、あんころ餅3つと接待を受け、そのうえ草鞋まで頂いているなど当時の街道の人々の厚い心が、この旅日記ににじみでています。このような篤い高野信仰が、里石建立に結びついたものでしょう。

 

紀見峠

「高野街道と熊野街道」西岡博史氏私家版

私の生まれ故郷は、高野街道に沿った紀見峠の海抜4百メートルの山頂で、河内と紀伊のの国境の宿場で戸数は多いときは50戸位、今は半分になっている。

この峠の国境には御影石の苔むした道標があり、これより女人堂六里と刻まれている。この道標は、三本松の根方にあるが、ここは昔、藩の番所のあった跡で、その跡には小生の長兄とは碁仇の従兄で数学者の岡潔の家がある。

私の家は、この宿場で代々「虎屋源兵衛」と言う旅籠で山林を業としていた。この家からは高野の山々が紀の川をはさんで一望できるところで、高野山詣の巡礼路であった。

「源兵衛と名乗り幾秋古峠」

「行き暮れて乞わるるままに秋の宿」

「秋の嶺誰が末なりや隠れ棲む」

「秋の嶺延暦の雲越え行くよ」

この句は「風太郎」と号する兄の句である。

紀見峠のことが歴史書に現れるのは、桓武天皇の延暦15年(西暦796年)、南海道新線として官道に認定された。空海が高野山を開創されたのは、西暦816年(弘仁7年)であるので、これより20年後のことである。

私の青少年時代は大正から昭和初期にかけての農村不況の頃で、木材や蚕価格が暴落し、どん底の時代であった。その頃この山里は、春休みは山の杉の間伐の山仕事から始まる。

これは、四人一組で、一番先頭の人が間引く木を選定し、二番目がその木を削って矢立で番号を書く。三番目は目印のためその木を藁でくくり、四番目が根元を削って刻印を打つ。

昼食時になると、谷川のほとりで焚き火をしながら、握り飯をほおばる。ふりかけてあるゴマ塩とたくあんが妙に調和してうまい。

この間伐した木材は、山林業者が家に集まって入札する。先日久しぶりに帰ってみると、この山の木は太さ三尺ちかい大木に育っていた。

夏休みは養蚕の桑摘み、毎日大所帯の米搗きが日課であった。

このあたりは、田が少ないので屋根ふき職を副業として農閑期に河内、摂津へ出稼ぎにゆく。秋は松茸山の季節、松茸やしめじ等大籠に一杯とれた。秋祭りの前後は山小屋に寝泊りして山々を探しまわった。

採れた松茸を古新聞を濡らして包み焚き火にくべて、あつあつの焼松茸を引き裂いて、醤油と柚子の絞り汁で食べる味はまた格別で、かしわの入った松茸飯としめじ汁は、顎が落ちるほど美味しい。良質の松茸は河内の市場から買い集めに来るので、唯一の現金収入で家ではバレたものばかり食べたものである。

私は、七人兄弟の末っ子で兄の尻について山を駆け巡り、松茸の新しい寝宿を見つけるのが得意であった。この辺りは、朝食は「茶粥」で、「柿の葉ずし」が名物である。峠の道端の古い渋柿の黄色い葉にお握りと塩鯖を包んで、木箱に入れて石で押し付ける。これはこのあたりから、大和、吉野にかけての名産となっている。

 

西高野街道

大阪の街道と道標 改訂版 武藤善一郎

西高野街道は、堺を起点とする高野山への道で、堺の発展とともに成立する幹線道路である。

東高野街道が、京から高位高官族の往来に始まって、利用されてきたことに比べると、西高野街道は商人から庶民にいたる、広い階層にわたって利用されてきたのとでは、旅の仕方にも違いがあったものと考えられる。(略)

南海線に沿って天見を過ぎる頃から上り坂となり、やがてヘアピン坂となって峠へと向かう。以前は、峠下に食堂が一かたまりになって並んでいたが、昭和45年に見坂から柱本まで紀見トンネルが開通してから無くなっている。

紀見峠から旧峠への道が左に最後の登りとなって向かっている。その岐路に女人堂六里の標識があり、そばに岡潔生誕地の石標がある。岡潔は、数学者で京大教授をされ、既に個人となられたがこの地の出身(生まれは大阪)であった。紀見峠は葛城28越の一つである。

紀見トンネルの真上に当たる和歌山県橋本市域に、十数軒の家々が国道を見下ろすように建っていて、それを通り抜けた旧道は急坂となって下り、沓掛の家並みを通り国道に合流する。(略)

 

石標図

130 上岩瀬  25×26×150 上が左

南無大師遍照金剛

高野山女人堂 江 七里

安政四丁巳年二月

 

131 紀見峠 25×25×150

南無大師遍照金剛

高野山女人堂 江 六里

安政四丁巳年二月 発願主 ○○

 

132 橋谷 23×23×135

安政四丁巳 月立之 施主 堺 和泉屋伊右エ門

是ヨリ 高野山 女人堂 江 五里

南無大師遍照金剛

 

 

高野街道―京・大坂道―

てくころ文庫VOL2 高野街道

 

一 東高野街道 京都からの道

古来、「高野街道」と呼ばれてきたいくつかの高野参詣道の中で、歴史も古く交通量の多かったのが、京都から高野への東高野街道(京街道)と、河内長野でこれに合流する堺からの西高野街道で、京・大坂道として多くの人々に慣れ親しまれてきた。

京都から八幡市を経て、大阪府の枚方市に入り、生駒・金剛山系の西麓を南下し、河内長野市から紀見峠を越えて橋本市に入るルートは、延暦15年(796年)に、それまでの真土峠(紀和国境)越えから、路線変更になった南海道とほぼ同じであったと言われている。

南海道は間もなく和泉国から雄ノ山越えとなり、やがて官道としての機能を失うが、この道は、弘仁7年(816年)弘法大師空海の高野開山により、都と高野を結ぶ信仰の道としてよみがえることとなった。

 東高野街道が名実共に高野参詣道となるのは、平安時代後期11世紀末から12世紀初め頃と言われるが、中世以降村落の発達につれ、北・中・南河内を縦貫するこの街道は、単なる信仰の道だけでなく、村々を結ぶ重要な生活道路であり、また、生駒・金剛の山なみを越えて東西に走るいく筋もの街道を縫い合わせる役目を果たした。それらのことが紀見峠越えまでの緩やかな地形と相まって、高野街道としての立地条件をよくし、旅人の数は年を追って増加し、高野参詣の大動脈に発展していった。

 現在、そのルートは国道1号で洞ヶ峠から枚方市に入り、そこから南へ交野・寝屋川・四条畷・大東・東大阪・八尾・柏原・藤井寺・羽曳野・富田林・河内長野の諸都市を貫き、府道、国道170号線・371号線などによって結ばれている。多くは近代的な道路の下に埋没してしまったが、それでも諸都市の裏通りのたたずまいや、街角に残る「かうや道」と刻まれた道標などに旧街道の面影を宿しているところが少なくない。

 

2 西高野街道 大坂・堺からの道

 堺から河内長野までの西高野街道は、本来は熊野街道と東高野街道を結ぶもので、その成立は平安時代末期から鎌倉時代初期の頃と思われる。中世以降寺社詣が庶民の間に広まるにつれ、西国方面からこの街道を高野へ向かう人々が多くなったが、室町時代には京都方面からでも淀川を船で下ってこの道を行く者もあり、次第に交通量も増加していった。

 しかし、西高野街道が全盛期を迎えるのは近世以降であり、これには大阪や堺の繁栄と深い関係がある。江戸時代の寺社詣は庶民のレクリエーションであり、高野参詣の旅程の中に大坂見物を組み込むことが多かった。それらの人々が海上から堺の港に上陸した人々を合わせて、西高野街道に繰り込んだ。江戸時代後半には、この街道を通る人は東高野街道を通る人を上廻り、ついにはそのお株を奪って河内長野以南までも西高野街道と呼ばれる始末であった。

 江戸時代の西高野街道は、堺の土居川に架る大小路橋から南へ仁徳陵の東側を通り、下茶屋、中茶屋などの地名を今に残しながら、大阪狭山市を南へ貫通して河内長野に入り、楠町で大阪平野から松原を経て狭山池の東側を通る中高野街道を合わせ、原の辻で東高野街道に合流するものであった。現在、このルートには国道310号線が走り、往年の高野街道はこれに吸収されたかにみえる。しかし、国道からそれた脇道、たとえば、堺市の関茶屋の古い家並みの間の小路や、大阪狭山市の開発から取り残された水路に沿った農道などいくつかの場所は、幕末に茱萸木村(大阪狭山市)の小左衛門と五兵衛が発願して建てられた一里道標石とともにこの街道の歴史を今に伝えている。

 

3 紀見峠越え

 紀見峠越えの道も東高野街道と呼ばれてきた。峠越えの古道は紀見峠北口からすぐ「巡礼坂」を矢倉脇に下って慶賀野に出るもので峠の上を南北に縦断し、南口から「馬ころがし坂」を下って沓掛から慶賀野への新道が整備されたのは近世以降のこと。慶安元年(1648年)に紀州藩がここに伝馬所を置いたのが契機となって集落が形成され、やがて峠の宿場が栄えた。今も本陣北村家をはじめ、古い家並みが往時を偲ばせてくれる。

 明治31年(1898年)現在のJR和歌山線が五條から延長されて橋本駅が開設されると、紀見峠を通る高野参詣客は減少し、大正4年(1915年)今の南海高野線が橋本まで入るにおよんで、峠の道は高野街道としての機能を全く失ってしまった。現在国道371号は昭和44年に開通した紀見トンネルを抜けるので、峠に登って柱本に下る旧国道は静かな散策道となっている。

 

山号

さんごう

寺院名に冠する称号。仏陀(ぶっだ)在世中の霊鷲山(りょうじゅせん)のように、インドや中国では山中に精舎(しょうじゃ)や寺院を設ける伝統があった。中国では山中に建てられた寺院に、その所在を示す山名を付して天台山国清(こくせい)寺、廬山東林(ろざんとうりん)寺のように山名と寺名を連称してよぶようになり、のちに山名がそこに所在する寺院の別称にもなった。日本では、古代には都などの平地に寺院が建てられたので山号はない。平安初期の延暦寺(えんりゃくじ)や金剛峯寺(こんごうぶじ)はその所在地によって比叡山(ひえいざん)、高野山(こうやさん)とよばれたが、後世の山号のように形式的な称号ではなかった。平安末に嵯峨清凉寺(さがせいりょうじ)が五台山と名づけられ、鎌倉時代になって禅宗が中国の五山制度に倣い平地の寺院にも山号を冠するようになり、東山(とうざん)建仁寺、金龍山(きんりゅうざん)浅草寺のように形式的な山号をつけてよぶのが一般的になった。

 

和泉山脈

いずみさんみやく

 

和歌山県と大阪府の境を東西に走り、ほぼ和泉国の南を限るので、この名がある。その東端は大阪府と奈良県の境にあたる金剛(こんごう)山(もとは葛城山といい、標高一一一二・二メートル)で、ここから府県境を北に向かい二上(にじよう)山に達する山脈が葛城山脈(金剛山地)である。もとはこの両者を含めて葛城山脈ともいい、両山脈にはそれぞれ葛城山がある。和泉山脈は東から岩湧(いわわき)山(八九七・七メートル)・燈明(とうみよう)岳(八五七メートル)・三国(みくに)山(八八五・七メートル)・葛城山(八五八メートル)などが県境ないしその南北に並ぶ。西に向かって燈明ヶ岳(五五三メートル)・札立(ふだたて)山(三四九・三メートル)・高森(たかもり)山(二八四・五メートル)としだいに低くなり紀淡海峡となるが、海峡の友(とも)ヶ島(沖ノ島・地ノ島)を経て、淡路島の諭鶴羽(ゆづるは)山につながる。東西約五〇キロ、南北平均二五キロの山脈で分水線は南にかたより、南斜面は中央構造線の断層崖となってこれに紀ノ川が沿い、北斜面は比較的ゆるやかな山地が起伏して大阪平野へと移行する。

和泉・葛城両山脈には古くから山岳宗教の行場が開かれており、その中心の金剛山はかつては葛城山とよばれていた。また両山脈を行場とする葛城修験道が成立すると、全体を単に「葛城山」とよぶようにもなった。したがって葛城修験道をいう場合、両山脈内の行場が含まれる。葛城修験道は大峯修験道同様顕著な山々と寺の独立した信仰を一本のルートで結んだ修行路を軸として成立った。おもな山に西から大福(だいふく)山・燈明ヶ岳・葛城山・牛滝(うしたき)山・経塚(きようづか)山・三国山・槙尾(まきのお)山・岩湧山・金剛山・二上山などがあり、これらの山と行場を管理する寺が山麓にあったが、現在は少なくなっている。山中には二十八宿が設定されたが、これは法華経の二十八品を山中各地に一品ずつ埋めた経塚をつくり、その地を行場としたものである。葛城二十八宿の所在については「葛城修行灌頂式」(一部は永正元年に猷助が記し、「葛城峯中記」「同宿次第」は明和四年の書写)や「葛城嶺中記」「葛城峯中記」(向井家文書)、「葛嶺雑記」(七宝瀧寺蔵)などで相違があり、的確に現在地を比定できないものが少なくない。したがっていまは考証を略して、江戸時代末期に再興を図った際のものに推察を加え、大体を述べることとする。

一の宿にあたる法華経の「序品第一窟」は友ヶ島の沖(おき)ノ島にあり、山岳信仰の葛城修験道が海にもかかわる点で特色がある。この管理は和歌山市加太(かだ)の伽陀(かだ)寺であった。二の宿からは山地に入り、和歌山市西庄(にしのしよう)の神福(じんぷく)寺(二の宿、方便品第二)を経て大福山円明(えんみよう)寺(三の宿、譬喩品第三)と滝畑(たきはた)の成願(じようがん)寺金剛童子(四の宿、信解品第四)、那賀(なが)郡打田(うちた)町今畑(いまはた)の多聞(たもん)寺(五の宿、薬草喩品)、同町神通(じんづう)の金剛童子(六の宿、授記品第六)、同粉河町の中津川(なかつがわ)金剛童子(七の宿、化城喩品第七)から燈明ヶ岳(八の宿、五百弟子受記品第八)に出る。燈明ヶ岳は峰中の有力寺院である大阪府和泉佐野市の犬鳴山七宝瀧(しつぽうりゆう)寺の管理で経塚があり、この山の火は紀淡海峡の船から見えたという。燈明ヶ岳の紀州側に下ったところが中津川の山伏村で、高祖堂(役行者堂)を中心として、葛城入峯の先達を務め、先達は和歌山藩から苗字帯刀を許されていた。燈明ヶ岳の東に連なる大阪府岸和田市と那賀郡那賀町境の山はいま葛城山というが、これは本来の葛城山(金剛山)の一言主神を移し祀ったことによる山名で、今は不明であるが「九の宿、人記品第九」の竜(りゆう)ノ宿はこれにあたるらしい。「九の宿、人記品」は「葛城修行灌頂式」の「宿次第」では「七越」となっており、これが事実ならば遥かに東の七越(ななこし)峠となり、現伊都(いと)郡かつらぎ町大久保(おおくぼ)から大阪府和泉市父鬼(ちちおに)町へ越える峠である。しかし「十の宿、法師品」が大阪府岸和田市の牛滝山大威徳(だいいとく)寺であることはうごかないので、葛城山を「九の宿、人記品」に当てるのが妥当であろう。

七越峠は三国山の西にあり「十一の宿、宝塔品第十一」にあたる。「葛城嶺中記」には七輿(ななこし)寺とあり、「葛城峯中記」には七越経護童子とある。しかし「葛城修行灌頂式」では「柳宿」とあって相違する。「十二の宿、提婆品第十二」はかつらぎ町東谷(ひがしたに)の堀越(ほりこし)の燈明岳の燈明峯(とうみようぶ)寺とするのが多いが、同町東谷の神野(こうの)の天女山正楽(しようらく)寺とするものもある。「十三の宿、勧持品第十三」は蔵王(ざおう)峠の紀州側にある同町大畑(おおはた)の一乗山勝楽(しようらく)寺であることは諸書一致している。蔵王峠の河内側が「十四の宿、安楽行品第十四」の福王山光滝(こうたき)寺で、大阪府河内長野(かわちながの)市滝畑に属する。滝畑を和泉側へ越えると観音霊場西国三十三所の第四番、大阪府和泉市の槙尾山施福(せぶく)寺で、顕著な経塚があり、もとは行所であったらしく「葛城峯中記」にあげている。「十五の宿、従地涌出品第十五」は河内長野市の岩湧山岩湧寺で、岩屋と湧水が多いことにもよるが、法華経の従地湧出品から名付けられたものであろう。この辺りは「十六の宿、如来寿量品第十六」の流谷(ながれたに)金剛童子も、「十七の宿、分別功徳品第十七」の天見(あまみ)不動金剛童子も、紀見(きみ)峠下にあたる「十八の宿、随喜功徳品第十八」の橋本市柱本小峯(はしらもとこみね)寺金剛童子も、人里に近い平地で、金剛山の山麓として行所になったのであろう。「十九の宿、法師功徳品第十九」は奈良県五條市大沢町の大沢(だいたく)寺金剛童子とも神福山神福(じんぷく)寺金剛童子(同久留野町地福寺)ともいい、「廿の宿、常不軽菩薩品第廿」は同じく五條市久留野(くるの)峠の石寺といわれる。そして「二十一の宿、如来神力品第二十一」が葛城修験道の中心、金剛山転法輪(てんぼうりん)寺である。ここからは奈良県と大阪府の境(葛城山脈)を北上して「二十八の宿、普賢菩薩勧発品第二十八」の大和川亀ノ瀬に至る。

これら二十八品の二十八行所のほかにも、多数の経塚が両山脈中に存在し、古代から如法経修行の聖地として、多くの修行者が入山、修行をしたものと思われる。これは古代の文化中心である大和・河内・和泉に近いことにもよるが、何よりも金剛山が役行者の開創と伝え、山地内の行場がすべて役行者の遺跡として神聖視されたことによるのであろう。しかも天台系の修験道が寺門派京都聖護院を中心に組織されると、この法華経の聖地が重視され、入峯修行するものが多くなった。しかし近世には、高野山の行人の入峯もあったが二十八宿全部に入峯する者は少なくなり、行場もわからなくなったところができたのである。©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo

 

"いずみさんみゃく【和泉山脈】和歌山県:総論", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-05-26)

 

岡潔

おかきよし

[1901―1978]

数学者。和歌山県生まれ。1925年(大正14)京都帝国大学理学部数学科卒業。1929年(昭和4)京大助教授となり、3年間パリに留学。その間、多変数複素関数論が当時数学において最重要な課題であるにもかかわらず、いまだ表皮的な成果しか得られていないと断じて、これを自己の研究課題と決意して帰国した。帰国後、広島文理科大学助教授となる。
 1936年から1942年の間に、当面の問題である「クザンの問題」などを、すべて解決したが、なかでも重要なのは「レビの問題」であった。Gが正則領域なら、Gは局所的にはある意味で凸である。すなわち擬凸である。これの逆の命題がレビの問題で「擬凸なら正則領域か」であり、年来の難問題であった。まず2変数の場合に、肯定的に解いたが、一般n次元のときには、局所イデアルの概念を導入し、そのうえにたてられた理論により、やはり肯定的に解けることを示したのである。この局所イデアルはアンリ・カルタンHenri Cartan1904―2008)の層の概念の原型であり、その理論は解析的層の連接性を与えるものであった。このように岡は具体的に多変数解析関数に没入することによって、層という数学の各分野にわたって有効な概念の鉱脈を掘り当てたというべきである。1949年(昭和24)奈良女子大学教授に就任、1951年には学士院賞を受賞し、1960年には文化勲章を授与された。天才に奇行多しというが、彼にも奇行は少なくはなかった。また文才にも長じ、『春宵(しゅんしょう)十話』など多くの随筆を残した。
[
秋月康夫]

長藪城跡

ながやぶじようあと

 

[現]橋本市細川・慶賀野

細川(ほそかわ)と慶賀野(けがの)の間にある城(しろ)山山頂にある。「続風土記」は牲川氏の居城とし、文明年中(一四六九―八七)牲川義春が築城、永禄元年(一五五八)松永久秀に攻められ落城したが、同三年には取返したとする。牲川(贄川)氏は南北朝時代に南朝方に属した多々良三家の一家と伝え(牲川氏系譜)、天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の紀州攻めにより滅ぼされたという。城跡は和泉山脈が南へ長く張出した丘陵地に位置する。最高部に本丸・二の丸・三の丸の主郭があり、西南の出丸には空堀や土塁が見られる。長藪城の南西、胡麻生(ごもう)にある牲川氏の下屋敷跡には天主畠(てんしゆはたけ)や木戸の脇(きどのわき)の地名が残る。地形も橋本川と東谷(ひがしたに)川が合流する台地で軍事上の要害の地である

 

"ながやぶじょうあと【長藪城跡】和歌山県:橋本市/細川村", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, http://japanknowledge.com, (参照 2016-05-31)

 

牛頭天王

ごずてんのう

素戔嗚尊(すさのおのみこと)の化身とされ、薬師如来(やくしにょらい)を本地仏とする。武塔天神(むとうてんじん)、あるいは京都八坂(やさか)神社(祇園(ぎおん)社)の祭神として祇園天神ともいう。平安時代から行疫神として崇信され、祇園祭はこの神を祀(まつ)って疫病を鎮める年中行事である。牛頭天王は、インドでは祇園精舎(しょうじゃ)の守護神であったが、わが国では、最初は播磨(はりま)国(兵庫県)明石(あかし)浦に垂迹(すいじゃく)、ついで広峰に移り、その後、京都東山瓜生(うりゅう)山北白川東光寺へ、さらに清和(せいわ)天皇869年(貞観11)東山の感神院に移ったとされ、それが現在の八坂神社である。『蔵王陀羅尼経(ざおうだらにきょう)』には、この神が「癘鬼(れいき)を縛撃(ばくげき)して疫難を禳除(じょうじょ)す」とみえる。また『備後国風土記(びんごのくにふどき)』逸文には、武塔天神が蘇民将来(そみんしょうらい)から受けた一宿一飯の恩に報いるため除難の法を教えたとあり、これにちなみ、社寺では正月に疫病除(よ)けの護符として蘇民将来札が出される。牛王(ごおう)宝印も牛頭天王の護符で、祇園社から出ていた。
[
菟田俊彦]

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