紀見峠

紀見峠は、和歌山県と大阪府の境にある標高400mの峠である。
紀伊国と河内国の境で、高野街道の宿駅として栄えたところで、峠の旧街道脇に「高野山六里道標石」が建てられている。
また、文化勲章を受章した数学者岡潔博士(1901年-1978年)は、少年時代を含め生涯3度紀見峠に居住していたことから、「岡潔生誕の地」の石碑が建てられている。
峠の民家裏に「一結衆二十七人墓、元中三年三月」銘の石造五輪塔がある。これらの古碑は、南都復興のために、この地で戦死した武士や住人を祀ったものと考えられている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩約40分。


養叟庵
養叟庵は、和歌山県橋本市矢倉脇にある禅僧養叟の旧跡である。
室町時代中期の禅僧養叟宋頣(1376-1458)は、京都の出身で、近江堅田の禅興庵で「孤高の禅僧」といわれた華叟宋曇について禅の修行を積んだ。
大徳寺の一休宗純とは、共に華叟の教えを受けた先輩(法兄)にあたる。
正長元年(1428年)師の華叟が入寂すると、養叟は京都紫野大徳寺大用庵に、一休は同・如意庵に住まいした。
文安2年(1445年)臨済宗の本山大徳寺の第26世となり、南禅寺同様に紫衣勅許の出世道場とした。
長禄元年(1457年)に、後花園天皇から「宋慧大照禅師」の勅号を賜っている。
養叟が、矢倉脇に来たのは享徳3年(1454年)前後で、平将門の子孫 牲川次郎左衛門将房(にえかわじろうざえもんまさふさ)は、宝形山徳禅寺を建立して養叟を迎えた。
養叟は、この地で晩年を過ごし、83歳で入寂した。
その後、徳禅寺は兵火で焼失し、場所もわからなくなっていたが、天保8年(1837年)に、紀伊藩と大徳寺が合同で調査した結果、養叟の旧跡であることが確認され、嘉永元年(1848年)に徳禅寺再建が発願され養叟庵が建立された。
元は少し離れた髙山にあったが、明治32年に現在地に移築され、平成時代には養叟苑として花がみられる庭園が約50m西に作られている。
南海高野線紀見峠駅下車、徒歩5分。


葛城第十七経塚(天見不動経塚)

葛城第十七経塚は、大阪府河内長野市天見にある法華経分別品の天見不動経塚である。
修験道の聖地・葛城山は、大阪・和歌山県境を東西に連なる和泉山脈から北上して、奈良・大阪府県境の金剛山脈へと連なる峰々の総称である。
修験道の開祖・役行者は、葛城の峯を仏法の世界と見立て、法華経八巻二十八品(ほん)をそれぞれ経筒に入れて埋納したと伝えられ、葛城二十八宿と呼ばれている。
この二十八品の経塚は、友が島の序品窟に始まり、葛城の峰を西から東に埋納し、第二十八品は大和川の亀の瀬の経塚で終わる。
明治5年(1872年)9月15日の修験道廃止令によって修験道は廃止され、衰退したが、第二次世界大戦後の信教の自由によって復活し、葛城二十八宿の経塚の実地調査が実施された。
経塚前に白の柱が立ち、天見不動といわれる二体の石仏が、石組みの上の厨子の中におかれている。
修験者は、経塚に勤行し、その証として、祈願文と年月日修験派名を記した木札を奉納する。この木札を「碑伝(ひで)」と呼び、経塚や行所にはこの碑伝が置かれている。
南海高野線天見駅下車、流谷八幡宮から砥石の谷を経て徒歩約60分。


流谷八幡神社
流谷八幡神社は、大阪府河内長野市流谷・下天見にある神社である。
祭神は、応神天皇、神功皇后、比売大神である。
長暦3年(1039年)、京都の石清水八幡宮の根本神領であった当地(河内国錦部郡甲斐庄山郷流谷)に八幡神が勧請されたのが起源である。
正式名称は「八幡神社」で、石清水八幡宮別宮と呼ばれ、宮寺として流谷極楽寺も建立された。
当神社に伝えられている鉄製湯釜は、「延元五年辰卯月十五日(中略)勧進法印賢覚」との銘があり、獣脚三足を備えた鋳鉄の釜としては最古の在銘遺品で、大阪府の重要文化財に指定されている。
毎年1月6日、古例祭として「勧請縄かけ」が行われる。
この日に石清水八幡宮の神霊が勧請された伝承に基づき、氏子により社殿前方にある大杉(勧請杉)と、川をはさんだ柿の木の間に二百尺(60m)の注連縄がかけられ、この注連縄がながく保たれると、その年は豊作だと伝えられている。
社殿左には、樹齢400年といわれる「大いちょう」があり、大阪府の天然記念物に指定されている。
南海高野線天美駅下車、徒歩15分。



南天苑本館
南天苑本館は、大阪府河内長野市天見にある温泉旅館である。
高野街道は、京都、大阪から高野山への参拝客が古来多く行き来していた。
延元年間(1336-1340)に、近郷の流谷八幡宮の境内にあった極楽寺に湯治場が開かれ、病人や多くの参詣客が入浴し、「極楽風呂」「極楽温泉」と呼ばれていたが、寛延3年(1750年)に神社、温泉共に焼失し、廃湯となった。
その後、大正4年(1915年)に天美駅が開業し、南海電鉄が旅客誘致のため天見温泉の開発が始まった。
天見温泉・南天苑本館は、元々、大正2年(1913年)に阪堺軌道(後に南海鉄道と合併)が、堺市の大浜公園に建設した娯楽施設、「潮湯」の建物の一つ「家族湯」の建物である。
この建物が、昭和9年(1934年)に室戸台風で損壊し、昭和10年に現在の場所に移築されて、大阪市阿部野の料亭「松虫花壇」の別館として営業を始めた。
平成14年9月に「明治建築研究会」により建物調査が行われ、建築界の大御所、辰野金吾博士の辰野片岡建築事務所の設計であることが分かった。
そのため、平成15年(2003年)に国の登録文化財に指定されている。
建物は、和風をベースとしながら諸所に洋風モダンな意匠が取り入れられた、大正昭和初期の建築様式を偲ばせる貴重な建物である。
堺市の大浜公園には、「いにしえの大浜公園」として、当時の潮湯の写真などが紹介されている。
南海高野線天見駅下車、徒歩2分。


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