高野山奥の院 紀州徳川家供養塔


紀州初代藩主徳川頼宜供養塔

紀州初代藩主徳川頼宣供養塔(墓所)は、和歌山県高野山の奥の院にある。
徳川頼宣(1602-1671)は、徳川家康の第10子で、母は上総(千葉県)の土豪 正木邦時(くにとき)の娘のお万の方(養珠院)である。
慶長7年(1604)3月7日伏見で生まれ、幼名は長福丸、慶長11年(1606)元服して頼将(よりまさ)と名乗った。
元和2年(1616)徳川家康の死後、駿府城主となり、元和3年(1617)加藤清正の娘、八十姫(瑶林院)を正室とした。
元和5年(1619)紀州藩主(55万5000石)となり、頼信と改名し、さらに頼宣と改めた。
和歌山城を整備し、和歌の浦に紀州東照宮を建立した。
寛文11年1月10日和歌山で亡くなり、法名は南龍院とした。
和歌山県海南市の長保寺には、紀州藩歴代藩主の墓がある。
高野山奥の院の墓所は、紀伊続風土記に「南龍院殿石碑」と紹介されている。
この石塔は、花崗岩製で、蓮弁から墓碑まで57cmと他の武将の供養塔と比べて低く造られている。
紀州藩編纂の紀伊続風土記では、
「本州の大祖にて智仁文武の明大将又禮譲謙徳の聞へあり
古老傳に遺命して多田の碑(多田満仲墓所)に幷へて碑を立てしめ給ひ
碑の高さ多田の碑に越させ給はすとそ」
と記されている。
方柱状の墓碑には正面に「南龍院殿」、右側面に「寛文辛亥」、左側面に「孟春十日」、裏面に「二品亜相源頼宣卿」と刻されている。亜相(あしょう)は、大納言の唐名である。
「孟」は、はじめという意で、孟春は「春の初め」、「初春」を表わし、陰暦正月(1月)の異称である。
墓碑が五輪塔の形でなく、方柱状となっているのは、頼宣の生母養珠院と正室瑶林院が、日蓮宗の信者であったためといわれる。
南海高野線高野山駅からバスで、奥の院口下車、徒歩約10分。



紀州徳川家供養塔(二代光貞、三代綱教、四代頼職、六代宗直)

紀州徳川家供養塔(二代光貞、三代綱教、四代頼職(よりもと)、六代宗直)は、和歌山県高野山奥の院の22町石と23町石の間にある。
各供養塔の墓石には、清渓院殿、高林院殿、深覺院殿、大慧院と刻まれている。
五代吉宗(有徳院)は、江戸で徳川幕府第八代将軍となっている。



紀州七代藩主宗将供養塔

紀州七代藩主宗将供養塔は、和歌山県高野山の奥の院二十二町石の北東にある。
紀州初代藩主南龍院供養塔に合わせた形式で建立されている。
徳川宗将(むねのぶ)(1720-1765)は、徳川宗直の長男で、宝暦7年(1757)に紀伊和歌山藩主となった。
明和2年(1765)2月25日に死去した。(享年46歳)
墓石各面には、菩提心院、仲春廿五日、明和乙酉、三品黄門源宗将卿と刻されている。



紀州徳川家供養塔(八代重倫、九代治貞、十一代斉順、十二代斉彊)

紀州徳川家供養塔(八代重倫、九代治貞、十一代斉順、十二代斉彊)は、和歌山県高野山奥の院の25町石の東南にある。
墓石には向かって右から、観自在院殿、香嚴院、顕龍院殿、憲章院殿と刻まれている。



紀州徳川家供養塔(十代治宝、十四代茂承、十五代頼倫)

紀州徳川家供養塔(十代治宝、十四代茂承、十五代頼倫)は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院参道の24町石前の薩摩島津家供養塔の東奥にある。
各墓石には向かって右側から、舜恭院殿、慈承院殿、樹徳院殿と刻まれている。
紀州徳川家第15代当主の徳川頼倫(よりみち)(1872-1925)は、田安徳川家第8代徳川慶頼の六男として生まれ、
明治13年(1880)紀州徳川家第14代当主の徳川茂承の養子となった。
明治29年(1896)イギリスのケンブリッジ大学留学中には、南方熊楠の案内で大英博物館を見学し、帰国後東京の邸内に南葵文庫を設立した。



紀州徳川家夫人方供養塔

紀州徳川家夫人方供養塔は、和歌山県高野山奥之院中の橋の南東にある。
歴代藩主の供養塔のように石囲は無く、方柱状の墓碑が建てられている。



出典 紀州藩系図 図説和歌山県の歴史


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