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小早川隆景同夫人供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院23町石の北側にあり、井伊掃部頭の霊屋西側約30mの山側五輪塔である。
小早川隆景供養塔(総高185cm)の地輪には、次のように刻されている。
天正十六年
藝刕小早川
(梵字)爲泰岳紹安
隆景逆修
十一月十五日
小早川隆景夫人(問田大方)供養塔(総高194㎝)の地輪には次のように刻されている。
天正十六年
藝刕小早川
(梵字)爲月渓信善 女人
御内方 逆修
十二月十五日
いずれの五輪塔も天正16年(1588)に逆修墓として建立された。
小早川隆景(1533-1597)は、戦国、安土桃山時代の武将である。
毛利元就の三男で、幼名 徳寿丸、又四郎、左衛門佐(さえもんのすけ)と呼ばれた。
天文13年(1544)竹原小早川家の養子となり家を継ぎ、その後沼田(ぬた)小早川家の正平(まさひら)の娘 問田大方(といだのおおかた)を室としてその嗣子となり、これによって両小早川家は合一した。
毛利元就の次男で吉川(きっかわ)家を継いだ吉川元春とともに、毛利家の国衆として活躍し、「毛利両川(りょうせん)」と呼ばれる。
慶長2年6月12日備後国の三原城で死去。法名は、隆景寺殿前黄門泰雲紹閑大居士、黄梅院泰雲紹閑。
隆景の墓所は、広島県三原市米山寺(べいさんじ)、京都市大徳寺黄梅院(おうばいいん)、山口市泰雲寺などにある。
小早川隆景夫人(生年不詳-1619)は、天文20年(1551)に隆景と結婚し、慶長2年(1597)夫死去の後、
慶長5年(1600)関ケ原の合戦後の毛利氏の減転封により、周防国吉敷郡問田に移り住んだことから、問田大方と呼ばれた。
法名は、慈光院月渓永智。墓所は山口市泰雲寺にある。
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