吉川元春供養塔は、和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院の22町石と23町石の中ほど南側で、周防岩国吉川家墓所の玉垣外西端にあり、北側が吉川元春、南側が嫡男吉川元長の供養塔である。
寛政5年(1793)に作成された「高野山奥院総絵図」では、下記写真のように吉川元春供養塔が区画東側、吉川元長供養塔が区画西側に描かれている。
吉川元春供養塔(高さ168cm)の地輪には、西側に下記の文字が刻まれている。
安藝國
吉川元春
(梵字アン)
海翁正恵
天正十四年十一月十五日
吉川元春(1530-1586)は、戦国時代の武将で、少輔次郎(しょうじろう)、治部(じぶ)少輔、駿河守と称した。
毛利元就の二男で、母は吉川国経(くにつね)の娘である。
天文16年(1547)に安芸国大朝新庄(おおあさしんじょう)の吉川興経(おきつね)の養子となり、弟の小早川隆景とともに毛利氏勢力として活躍し、「毛利氏の両川」と称された。
天正10年(1582)備中高松城の戦いで、毛利輝元が羽柴秀吉と講和した後、長子吉川元長に家督を譲って一度は隠居したが、秀吉の求めで九州征伐に出陣し、天正14年(1586)11月15日に豊前小倉城で病没した。
吉川元春墓所は、広島県北広島町海応寺跡、京都市北区大徳寺黄梅院にある。
吉川元長供養塔(高さ164cm)の地輪には、東側に次の銘文が刻まれている。(「高野山史料ー五輪塔拓影集ー」)
安藝國
吉川元長
(梵字ア)
前礼部空三大居士神儀
天正第十五丁亥六月五日
吉川元長(1548-1587)は、吉川元春の長子で、幼名は鶴寿丸、はじめ元資、のち元長と改名した。
永禄8年(1565)出雲尼子氏の本拠富田城攻撃で初陣を飾り、毛利氏の中国地方制覇で功をあげた。
天正10年家督を継いだ後、豊臣秀吉の命を受け、四国攻め、さらに九州征伐に出向いた。
勇将であるとともに、文学、仏教などの書物にも関心を示し、書物を携えて出陣し、陣中でも和歌を詠んだという。
天正14年11月父吉川元春の死後、翌天正15年5月出陣先の日向で病に倒れ、6月5日に日向国都於里(とのこおり)(宮崎県西都市都於郡町)の陣中で病死(40歳)した。法名は、万徳院中翁空山。
広島の海応寺跡の墓所でも、父の元春と並んで葬られている。