恋のあじさい園と中将姫伝説地めぐり
隅田駅時刻表
高田・王寺方面 | 橋本・和歌山方面 | ||||
平日 | 土・休日 | 平日 | 土・休日 | ||
7 | 32 | 32 | 18 | 18 | |
8 | 20 | 20 | 20 | 20 | |
9 | 3 36 | 3 36 | 20 | 20 | |
13 | 13 | 13 | 13 | 13 | |
14 | 13 | 13 | 13 | 13 | |
15 | 13 | 13 | 13 43 | 13 43 | |
16 | 22 | 13 | 47 | 37 |
休日時刻
往路(南海) | 往路(JR) | 復路(南海) | 復路(JR) | 復路(南海) | 復路(JR) | |||
南海河内長野駅 | 8:18 | 14:57 | 15:52 | |||||
南海紀見峠駅 | 8:32 | 14:43 | 15:38 | |||||
林間田園都市駅 | 8:34 | 14:41 | 15:36 | |||||
南海橋本駅 | 8:41 | 14:36 | 15:31 | |||||
JR和歌山駅 | 7:48 | 15:34 | 16:36 | |||||
JR高野口駅 | 8:48 | 14:36 | 15:36 | |||||
JR橋本駅 | 8:56 | 8:56 | 14:19 | 14:19 | 15:19 | 15:19 | ||
JR隅田駅 | 9:02 | 9:02 | 14:13 | 14:13 | 15:13 | 15:13 |
隅田駅は、和歌山県橋本市芋生にあるJR西日本和歌山線の駅である。
明治31年(1898)4月11日紀和鉄道の五条、橋本間で開業した際に設置された。
駅舎と待合室には、隅田中学美術部員が絵を描いている。(2011年)
駅前には、次の万葉歌碑がある。
亦土山 暮越行而 廬前乃 角太河原爾 独可毛将宿 萬葉三 弁基
亦土山(まつちやま)夕越え行きて 廬前(いほさき)の 隅田(すみだ)河原に ひとりかも寝む 万葉集 巻3-298 弁基
(意味)亦土山を夕方に越えて行って、廬前の隅田の河原に独り寝ることであろうか。
弁基(春日倉老(かすがのくらのおゆ))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての僧、貴族、歌人である。
大宝元年(701)に還俗して、春日倉首の氏姓と、老の名を与えられた。
万葉集に、弁基として1首、春日倉首老の名で7首、の計8首が入集している。
紀の川河口から60㎞の地点で、わかやまサイクリングマップの案内と、紀の川サイクリングロードのスタート、ゴール案内の石柱がある。
恋し野の里中将姫旧跡は、和歌山県橋本市にある。→ 紙芝居de橋本の魅力発信 中将姫物語
中将姫の父は、藤原豊成、母は紫の前で天平19年(747年)8月18日に誕生した。
5歳で母と死別し、7歳の時継母の照夜の前を迎えた。
姫は容姿端麗で叡智に富み、何ごとにも優れ、帝から中将の位を授かる。義弟の豊寿丸が誕生した頃から継母は姫を憎み、幾度も姫を殺害しようとするが姫は助かった。
さらに14歳の春、父の留守中に家臣の松井嘉藤太に命じて紀伊と大和の境の雲雀山で殺害させようとしたが、嘉藤太は罪もない姫を助けた。
姫は、十三仏や里人たちの温情に支えられ恋し野の里で二年三か月間様々な苦しみに耐えて、聞くも悲しい生活を送った。そして狩りに来た父と中将倉で涙の再開を果たし、奈良の都に帰った。
17歳の時當麻寺で剃髪し、法如比丘尼(ほうにょうびくに)となって藕糸(ぐうし)曼荼羅を織り、宝亀6年(775年)卯月14日29歳で波乱の生涯を静かに閉じた。→ 中将姫物語ゆかりの地
藤原豊成 ふじわらのとよなり [704―765]
奈良時代の政治家。南家 (なんけ) の祖武智麻呂 (むちまろ) の長男。弟仲麻呂 (なかまろ) とともに才学あり、名は衆に聞こえたといわれ、しきりに要職を経て、749年(天平勝宝1)に右大臣となった。
757年(天平宝字1)に道祖 (ふなど) 王が皇太子を廃されたときには、藤原永手 (ながて) とともに皇太子に王の兄塩焼 (しおやき) 王を推したが実現しなかった。
そのころすでに仲麻呂に政治の実権を握られ、同年起こった橘奈良麻呂 (たちばなのならまろ) の変で豊成の子乙縄 (おとただ) が奈良麻呂に加担し、
豊成もこの陰謀を知りながら奏上しなかったとして大宰員外帥 (だざいのいんがいのそち) に左遷されたが、難波 (なにわ) の別邸に至って病と称してとどまった。
764年に起こった仲麻呂の乱後ふたたび右大臣になったが、翌年薨 (こう) じた。
中将倉でさびしい日々を送っていた姫がかの雲雀山に来て、天国の母様を慕い、或いは恋し野の里で里人と戯れ、草花を摘みに去年川(こぞがわ)の渓谷を毎日渡るのに困ってかけた橋である。
この橋は、糸の懸橋であって、昭和初期まで県道の橋であったが、朽ちて流されていたのを中将姫旧跡保存委員会で昭和56年に復元した。
両橋詰に十三仏の中の阿閦如来(あしゅくにょらい)と地蔵菩薩が祀られている。
JR和歌山線隅田駅から徒歩20分。
雲雀山旧跡は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が14歳の時、継母の照夜の前の命令で、家臣の松井嘉藤太(かとうた)が、姫を板張りの輿にのせて、奈良の都からこの雲雀山に連れ出し殺害しようとした。
中将姫は、「これ嘉藤太や、私は日に六巻のお経を唱えている。このお経が終わればどうぞ首を討ちとってください。」と言って、西に向かってお経を唱えた。
松井嘉藤太は、その姫の姿を見て振り上げていた太刀を捨て、姫を守ることを決意した。その故事で雲雀山は、別名「太刀捨て山」と呼ばれる。
嘉藤太は、麓を流れる去年川(こぞがわ)の奥の岩陰に草庵を作って、妻のお松とともに2年3か月間隠れ住んだ。
謡曲「雲雀山」では、「大和紀の國の境なる、雲雀山にて」と、中将姫の物語が謡われている。
現地の去年川橋東詰には、田林義信和歌山大学名誉教授の次の歌碑がある。
「母を恋ひ 中将姫が揚雲雀 聞きけむ山ぞ 秋は紅葉す」
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩20分。
糸の細道は、奈良県及び和歌山県にある。
紀ノ川の北側を通る大和街道、伊勢街道に対して、紀ノ川南岸を通る裏道として発達したのが「糸(伊都)の細道」である。
大和盆地の中ツ道・下ツ道から栄山寺を経て、吉野川、阪合部の村々、恋し野の里、学文路、九度山、天野の里を抜け、有田から熊野街道に到達する。
中将姫殺害を命じられた松井嘉藤太が、中将姫を木製の輿に乗せて都から来たのも、この糸の細道と言われている。
雲雀山の南西斜面を通る道は、かつての恋野の生活道路で中将姫が通った当時をしのぶことができる。
紀伊国名所図会に次のように記されている。
糸の細道 赤塚村の東に細谷川ありて、其谷に掛つ橋を糸の掛橋といひ、其処に通ずる路を糸の細路という。中将姫の旧蹟なりとぞ。
車やる大路も糸の細道もかよへばかよふ身こそやすけれ 橘 園
中将倉(中将姫旧跡)は、和歌山県橋本市赤塚の去年川沿いにある。
中将姫は藤原豊成の娘で、成長するにつれ、容姿端麗で英知に富んだことから継母の照夜の前に命を狙われた。
家臣の松井嘉藤太は、照夜の前の命で中将姫を斬ろうとしたが、可憐な姫の姿に心を打たれ、妻のお松と共にこの地に草庵を結んで、隠遁生活を送った。
2年3か月後、狩りに来て山路に迷った父の藤原豊成と、中将姫が涙の再会を果たした場所である。
坂の上には、姫の法名(法如比丘尼)にちなんだ法如池があり、十三仏の釈迦如来が祀られている。
中将倉と彫られた石碑には、次のように刻された銘板がある。
中将倉にさみだれ過ぎて
笹百合香る運堂
糸の細道露踏みゆけば
姫の読経か河鹿の声が
かなし去年川青葉かげ
ひばり山小唄より
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩約40分。
清兵衛池、浮御堂 (竜王神社)は、和歌山県橋本市恋野にある。
昔から米作が盛んであった恋野では水を大切にしてきた。
江戸時代、長く雨が降らないときには似賀尾池で火を焚き雨乞いをしたと言われている。
恋野の人々が水を大切にした歴史を残し伝えるため、清兵衛池に浮御堂を建て、水を守る「沙羯羅竜王」が祀られた。
沙羯羅(しゃかつら)竜王は、法華経賛嘆(さんだん)の法会に列した8体の護法の竜王のひとつ。八大竜王とよばれ雨をつかさどるという。
池の傍には河南両国橋の橋名板が残されている。
竜王(Naga)(佐和隆研編「仏像図典」)
水中に住み雨を呼ぶ魔力を持つと信じられる仮空の動物で、その成立はきわめて古く、すでに仏伝中にその造形を見る。
(中略)又法華経序品には八大竜王来りて仏法を聴することがあり、(後略)
八大竜王(はちだいりゅうおう)(日本大百科全書)
『法華経 (ほけきょう) 』が説かれたとき聴衆として参加した8種の竜王。
〔1〕難陀 (なんだ) (ナンダNandaの音写。「歓喜」の意)、
〔2〕跋 (ばつ) 難陀(ウパナンダUpananda「弟ナンダ」)、
〔3〕沙伽羅 (しゃがら) (サーガラSāgara「海」)、
〔4〕和修吉 (わしゅきち) (バースキVāsuki「九頭」)、
〔5〕徳叉迦 (とくしゃか) (タクシャカTakaka「多舌」)、
〔6〕阿耨達 (あのくだつ) (アナバタプタAnavatapta「無熱悩」)、
〔7〕摩那斯 (まなし) (マナスビンManasvin「慈心」)、
〔8〕優鉢羅 (うぱら) (ウトゥパラカUtpalaka「青蓮華 (れんげ) 」)をいう。
なお、「提婆達多品 (だいばだったぼん) 」によると、沙伽羅竜王の娘は8歳で即身成仏 (じょうぶつ) したという。
敦煌 (とんこう) 第249窟 (くつ) の天井画の九頭の竜は和修吉かもしれない。
恋し野の里あじさい園は、和歌山県橋本市恋野にある農業公園である。
約5千株のあじさいが植栽されており、6月中旬から6月下旬まで淡いピンク、紫、水色の紫陽花が楽しめる。
農業公園として整備されているので、ゆったりと散策することが出来る。
JR和歌山線隅田駅から南へ徒歩約25分。
駐車施設も約40台駐車可能。
布経の松(別名三本松)と運び堂は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が、三本松の根方に立って手を振ると、五本の指先から五色の糸が出て松の枝から枝に渡され、美しい布が織られた。
天上に居る母に贈り物として合掌すると、布は天高く舞い上がり、紫雲たなびく七霞山の彼方へと消えていったとの伝説が伝わっている。
「布経(ぬのえ)の松」の由来となった松の木は、今は枯れてしまい石碑が残されている。
中将姫がいつも空腹をこらえながら、称讃浄土仏攝受経を読誦しつつ、この峠を訪れるのを里人たちが見て不憫に思い、ここにある辻堂に食べ物を運んだといい、いつしかこの堂を運び堂と呼ぶようになった。
この一帯を運び堂という地名にもなっている。
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩40分。
似賀尾池(にがおいけ)は、和歌山県橋本市にある。
橋本市で最も美しいと言われる池で、その透明な水は青空を映す鏡のようにも見える。
池全体の形を見て、亡き母に手を振る中将姫を偲び、中将姫の手に「似通う大池」に見えることからその名が付けられた。
現在では、米作が盛んな地元の農業用水のため池として利用されている。
筒香嘉智君 横浜べイスターズ入団記念植樹
筒香嘉智君 横浜べイスターズ入団記念植樹は、和歌山県橋本市恋野にある。
恋し野の里あじさい園の東側道路沿いにある石碑の刻銘版には次のように記されている。
筒香嘉智君
横浜べイスターズ入団記念植樹
(ユニフォーム姿の筒香選手写真)
平成二十二年二月一日
木下善之 窪田静雄 谷口雅子 阪部道春
芋生孝治 森本國昭 窪田知子 辻本賢三
筒香嘉智(つつごう よしとも 1991-)は、和歌山県橋本市出身で、恋野小学校、隅田中学校、横浜高等学校卒業後、2009年10月にドラフト一位指名を受け、2010年 横浜べイスターズに入団した。
2011年12月から背番号は、25となっている。2020年から米国へ渡り、2024年横浜DeNAベイスターズに復帰した。
橋本市には、筒香選手が自費負担で建設した大型野球施設「TSUTSUGO SPORTS ACADEMY」がある。
中将ケ森と蓮池(姿見池)は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫は、長谷観音の授かり子であったため、十三仏中の観音菩薩を守り本尊としていた。
そして、自分の身代わりとなった人々の供養や、松井嘉藤太夫人の忠誠心に加えて、里人たちの庇護と奉仕の温情に対する感謝、並びに恋野の里の弥栄を祈念して藤原南家の氏寺(五條市栄山寺)の見えるこの地に観音様を祀ったといわれている。
その後、恋野の信仰の中心となり、観音講の人々によって大切に保存されている。
中将姫は、都に帰るとき里人たちと別れを惜しみつつ、肌身離さずに持っていた観音像を残していったと伝えられている。
この森の一隅に蓮池(姿見池)があり、中将姫は蓮を植えていたといわれ、その後、當麻寺では蓮糸で曼荼羅を織ったと言われている。
雲雀山福王寺は、和歌山県橋本市恋野にある真言宗御室派の寺院である。
中将姫が恋し野の里に建立した三の庵(雲雀山庵、滝谷垣内庵、運び堂で各々庵屋敷跡が残っている)を合併して、宝暦8年(1758年)に建立したといわれる。
本尊は木造阿弥陀如来坐像で橋本市の指定文化財となっている。
また脇侍として持国天、多聞天が安置されており、和歌山県の指定文化財となっている。
阿弥陀如来像は、阿弥陀如来九品印(くぼんいん)のひとつ上品下生(じょうぼんげしょう)(来迎印)を結んでいる。
檜材による寄木造、彫眼、漆箔仕上げの像で、ふくよかな頬部とやや彫りの浅い顔部から静かな落ち着きを感じさせる。像高87.2cm、平安時代末期の作品といわれる。
脇侍の天部立像は、甲を身に着けた憤怒武装形に表現され、仏法とそれに帰依する人々の護法神として信仰される。
この2躰の像はいずれも檜材による一木造りで、持ち物は欠損しているものの当初の美しい彩色文様の一部が残り、保存状態も良い。
像高99.0cm、98.0cmで平安時代中期の作品といわれる。
堂内には、中将姫の位牌(中将姫法如大菩薩)が安置されている。
境内には、葉書の木といわれる「タラヨウ多羅洋」が植えられている。
葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩15分。参拝者用の駐車場がある。→ 中将姫物語ゆかりの地
溝端淳平君デビュー三周年記念植樹
溝端淳平君デビュー三周年記念植樹は、和歌山県橋本市にある。
恋野地区七班八班集会所南側に、石碑があり、下記のように記されている。
溝端淳平君
デビュー三周年記念植樹
平成二十二年三月吉日
七班八班一同
福西工務店(株)
溝端淳平(1989年6月14日生まれ)は、和歌山県橋本市出身の俳優である。
2006年にジュノン・スーパーボーイ・コンテストでグランプリを受賞し、2007年に俳優デビューした。
似賀尾池の北には、デビュー五周年記念碑と植樹がある。
猿田彦命
さるたひこのみこと
日本神話で、天孫瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) の降臨の際、天八衢 (あめのやちまた) にいて天上天下を照らしていた神。この神は猿女君 (さるめのきみ) の祖である天鈿女命 (あめのうずめのみこと) と対決して猿田彦命と名のり、天孫を先導したのちに伊勢 (いせ) の阿邪訶 (あざか) (三重県松阪市)に鎮座する。その容姿は、鼻の長さ7咫 (あた) 、背の高さ7尺 (さか) 、口赤く、眼は八咫鏡 (やたのかがみ) のように輝いていたという。ここには鋭い僻邪視 (へきじゃし) をもつ道祖神や、太陽神のおもかげが予見できるが、その姿は朝鮮の長 (チャンスン) 、あるいは伎楽 (ぎがく) の陵王面と同質表現であろう。天鈿女命との対決は、伊勢の漁民に信奉されていたこの神と大和 (やまと) 勢力との対決を表し、またこの神の名のりは伊勢地方の服従の神話化であり、阿邪訶の海岸でこの神がヒラブガイに手を挟まれて溺 (おぼ) れるという話も、この神の祭儀と関連があろう。
猿田彦大神は全てのことに先駆け、人々を善い方に導き、世の中の行方を開く「啓行(みちひらき)」の神として知られている。
その信仰は全国的な広がりをもち、方位除、災除、地鎮、事業繁栄、交通安全、開運などの祈祷が行われている。
紀の川水管橋
紀の川水管橋は、和歌山県橋本市にある。
→ 紀の川流域の農業水利施設 第2の紀の川 紀の川用水
【十三仏】じゅうさん‐ぶつ
仏語。亡者の法事を修する初七日から三十三回忌まで一三回の追善供養に、本尊とする一三の仏と菩薩をいう。
すなわち、不動秦広王(初七日)・釈迦初江王(二七日=ふたなぬか)・文殊宗帝王(三七日)・普賢五官王(四七日)・地蔵炎羅王(五七日)・彌勒変成王(六七日)・薬師太山王(七七日)・観音平等王(百か日)・勢至都市王(一周忌)・阿彌陀五道転輪王(三周忌)・阿蓮上王(七周忌)・大日抜苦王(十三回忌)・虚空蔵慈恩王(三十三回忌)の称。しばしばこれを一幅にした絵図が葬儀および法事の際に掛図として用いられた。
恋野村
こいのむら
[現]橋本市恋野
赤塚あかつか村の東、紀ノ川左岸の河岸段丘から南の丘陵地にかけて位置し、東は大和国宇智うち郡火打野ひうちの村(現奈良県五條市)。中世は隅田すだ庄に属し、仁安元年(一一六六)一一月日付の公文藤原忠村田畠等処分状案(隅田家文書)には「河南小犬坪一処」とある。慶長検地高目録には「恋野村」とみえ、村高三二六石余、小物成一・二三六石。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数四二(本役九・庄屋四・肝煎二など)、人数一六九、馬二、牛一〇、小物成は紙木二八束余、桑三束、茶三一斤余。雲雀山福王ふくおう寺(真言宗御室派)があり、貞享元年(一六八四)の恋野村堂座講記録(芋生家文書)によると、一七戸の家が正月五日に福王寺に参集して本尊阿弥陀如来の前で堂座講を営み、僧の牛王加持を受けた。
「続風土記」は「雲雀山といふ山あり其南十町許山中に中将カ倉といふ岩あり、中将姫の住みし処といひ伝ふ」という中将姫伝説を記す。謡曲「雲雀山」の「葛城や、高間の山の嶺続き、ここに紀の路の境なる、雲雀山」を伝説化させたものであろう。雲雀ひばり山の近くに中将姫が通ったという「糸の懸橋」や織った布を掛けたという「布経の松」、従者松井嘉藤太が食事を運んだという「運御堂」などが残る。「続風土記」はほかに村内には小祠六社(八幡宮・弁財天社など)と、弘法大師が不動明王と琵琶を彫付けたという「琵琶が甲」とよばれる岩をあげる。
アジサイ
(common)hydrangea
Japanese hydrangea
Hydrangea macrophylla(Thunb.) Ser.f.macrophylla
アジサイ
観賞用として広く庭園などに栽植されているユキノシタ科の落葉低木。梅雨時の象徴的な花である。漢字では慣用として紫陽花を当てることが多い。幹は群生して高さ1.5mくらいになり,よく枝分れする。葉は対生して托葉はなく,有柄,葉身は大きく,質が厚く,表に光沢があり,ほとんど毛がない。形は倒卵形で先は鋭くとがり,ふちに鋸歯がある。6~7月,枝の先に球状に多くの花をつける。花は大部分が萼片が大きくなり花弁状に変化した装飾花で,一般に美しい青紫色であるが,白色や淡紅色などの品種もある。種子はほとんどできない。
園芸種と歴史
アジサイは日本で育成された園芸品であり,太平洋側の海岸近くに自生するガクアジサイがその原種であるとされる。アジサイは鎌倉時代に園芸化され,江戸時代にはごく一般的な庭園植物となっていた。それとともに古く中国に渡り,中国でも庭園に植えられていた。アジサイがイギリスに導入されたのは1789年であるが,これは中国から持ち込んだものである。この品種は導入したJ.バンクスを記念したサー・ジョセフ・バンクスの品種名で現在も呼ばれている。また,マリエシイMariesiiは,日本のモモイロアジサイがフランス人によって導入されたものである。これにベニガクなどが交雑親となって,現在のように多色の品種群がヨーロッパで育成され,セイヨウアジサイ(ハイドランジア)と呼ばれ,日本に再導入され,花屋で鉢物として多く売られるようになった。このベニガクH.macrophylla f.rosalba(Van Houtte)Ohwiは,後述のガクアジサイあるいはエゾアジサイの園芸品と考えられるもので,萼の色が咲きはじめの白から淡紅,紅,紫紅と変化する種類である。花型はガクアジサイと変わらない。なお花型についてはアジサイ型(テマリ型)のものをホルテンシス・タイプHortensis type,ガクアジサイ型(ガクブチ型)のものをレースキャップ・タイプLacecaps typeと欧米でも2型に区別されている。
花色の変化
アジサイの花色は土壌の酸性度によって変化する。酸性度が高くなると鉄およびアルミニウムが多く溶け出し,ことにアルミニウムが吸収されると花色は青色が強くなる。逆の場合は桃色が強くでる。このほか肥料要素,すなわち土壌中の硝酸態窒素とアンモニア態窒素の割合なども,花色を変える原因であることが知られている。
野生種
アジサイの原種とされるガクアジサイH.macrophylla f.normalis(Wilson)Haraは,散房状集散花序の周りだけに,少数の青紫色,淡紅色または白色の装飾花をつける。多数の正常な両性花は小型で,ごく小さな5枚の萼片と5枚の楕円形鋭頭の花弁,10本のおしべをもつ。房総半島,三浦半島,伊豆半島,伊豆七島,紀伊半島南部,四国南部などに自生するが,観賞用に庭園にもよく植えられている。ヤマアジサイ(サワアジサイ)H.macrophylla ssp.serratum(Thunb.)Makinoは,アジサイと同じ種類に属し,日本の山地に広く野生している。またエゾアジサイH.macrophylla ssp.yezoensis(Koidz.)Kitam.は前者に似ているが,葉や花,果実が大型で,北海道と本州日本海側の多雪地域に分布する。葉に甘味成分を有する系統がヤマアジサイ類のなかにあり,アマチャと呼ばれる。このほかアジサイ属には,ノリウツギ,タマアジサイ,ツルアジサイ,コアジサイ,ガクウツギなど数種が日本の山地に自生する。ノリウツギH.paniculata Sieb.は高さ2~3mに達する落葉低木で,夏に円錐花序に多くの白い花をつけ,周りに装飾花がある。ノリウツギの両性花の萼が大きくなり中性花となったものがミナズキH.paniculata Sieb.f.grandiflora(Sieb.)Ohwiである。北海道,東北地方で庭に植え込まれ,ヨーロッパではことによく見られる。タマアジサイH.involcurata Sieb.は苞につつまれ,球形をした若い花序や開花した状態が美しく,水場の植栽に適するので,庭にはよく植え込まれる。東北南部から近畿にかけて分布する。ツルアジサイ(ゴトウヅル)H.petiolaris Sieb.et Zucc.は落葉つる性木本植物で,欧米では壁面をおおう植物としてひじょうによく利用されている。
栽培
これら日本産のアジサイ類のいずれの種類も耐寒性が強く,北海道から沖縄まで栽培できる。水が停滞しないところならばやや土壌湿度の高いところでも土を選ばずによく生育する。また半日陰からひなたまで植栽できる。アジサイのように種子がほとんどできない種もあり,繁殖は挿木によって行うことが多い。挿木は簡単に根づく。
[若林 三千男+脇坂 誠]
名称の由来
アジサイは日本固有の花で,《万葉集》にも名が見えるほど古くから知られ,鎌倉時代以降は園芸品種としても栽培された。しかしこれらは素朴なヤマアジサイないしガクアジサイが主であったためか,これを特別に観賞する名所といったものは江戸時代を通じても現れず,鎌倉の紫陽花(あじさい)寺(明月院)などが観光の対象となったのは第2次大戦後である。水分をよく吸うので,日当りの悪い裏庭や古寺に植えられることが多く,ガクアジサイの自生する伊豆諸島では,この葉を便所の落し紙として利用したという。日本で〈〉の漢字を当てるのはこのためだとする説もある。シーボルトはアジサイをHydrangea otaksaと名づけたが,この〈オタクサ〉は彼の愛人だった長崎丸山の遊女〈お滝さん〉(本名楠本滝)に由来する。なおアジサイの語源には諸説あるが,《大言海》にある〈集(あづ)真(さ)藍(あい)の意〉という説が有力視されている。花ことばは〈高慢〉〈美しいが香も実もない〉。女性への贈物にはふさわしくない。
[荒俣 宏]