中将姫物語ゆかりの地

誕生寺

誕生寺は、奈良市三棟町にある。
異香山法如院と号する浄土宗の尼寺で、誕生堂、三棟殿ともいう。
本尊は、中将姫法如尼木坐像で、門前に中将姫誕生霊地の石碑が建てられ、庭園には産湯に使ったという井戸が残されている。
本堂内には、中将姫父 右大臣藤原豊成の木坐像、中将姫母 元大内裏女官北の方紫侍従の木坐像が安置されている。
寺宝として、天平12年(740年)の光明皇后が祈願した断簡、蓮糸曼荼羅と伝える断片がある。
また境内には江戸時代の二十五菩薩石仏がある。
JR関西本線奈良駅、近鉄奈良駅からバスで北京終町下車、徒歩5分。



豊成山徳融寺

豊成山徳融寺は、奈良市鳴川町にある融通念仏宗の寺院である。
当寺は、もと南都七大寺のひとつ、元興寺の境内にあり、観音堂とも別時念仏の道場であったと伝えている。
室町時代、元興寺が土一揆で罹災したため、本尊を現在地へ移し、天正18年(1590年)融通念仏の檀家寺院として復活した。
本堂は、寛文7年(1667年)休岸上人が再建した入母屋造・本瓦葺の建物で、県の文化財に指定されている。
本尊は、阿弥陀如来立像で、北条政子の念持仏であったといわれている。
当寺は、藤原不比等の孫 右大臣藤原豊成邸宅跡と伝え、観音堂裏には豊成と娘の中将姫の石塔と言われる二基の宝篋印塔がある。
この石塔はもと奈良市井上町の高坊(高林寺)にあり、戦国時代に松永久秀の多聞城築城の際に、石垣の建材として近郊の石塔を徴発した。
当寺の石塔にも徴発の手が及んだので、連歌師の心前上人が、「曳残す花や秋咲く石の竹」と詠み、危うく難を逃れたという。
歌舞伎「中将姫雪責」などが公演される際に、舞台関係者が当所に詣り、公演の成功を祈った。
観音堂本尊は、平安時代作の子安観音立像で、大和北部八十八ケ所四番札所である。
幕末に観音の子育て信仰にあやかって寺子屋が開かれ、明治5年の学制で、「魁化舎(かいかしゃ)第三番小学」となり、のち西木辻八軒町に移って現在の奈良私立済美小学校となっている。
JR及び近鉄奈良線奈良駅からバスで北京終町下車、徒歩5分。



安養寺

安養寺は、奈良市鳴川町にある浄土宗の寺院である。
周辺の誕生寺、徳融寺、高林寺と同様、「当麻曼陀羅」を織りあげたとされる中将姫ゆかりの地として知られており、安養寺も中将姫が開祖と伝わっている。
かつては興福寺、薬師寺等と同じく法相宗に属する寺院であったが、江戸時代以降は浄土宗に属しており、本尊は阿弥陀如来となっている。
本堂は、円柱(まるばしら)に舟肘木(ふなひじき)を置いて妻を扠首組(きすぐみ)とする構造や、もとは屋根が厚板段葺(あついただんぶき)であったことなど、古い手法を用いていることから、
室町時代中期までの建立と考えられており、奈良県の指定有形文化財となっている。
近鉄奈良駅から徒歩15分。



高林寺

豊成山高坊高林寺は、奈良市井上町にある融通念仏宗の寺院である。
本尊の阿弥陀如来のほか、藤原豊成像、中将姫像を安置している。
寺伝によると、宝亀年中(770-781年)に藤原魚名の娘が中将姫に仕えて尼となり、現在の奈良市高御門町で中将姫の父豊成の廟塔を守って居室を尼寺とした。
その後、平重衡の南都焼き討ちで焼失し、長く再興されなかった。
天文3年(1534年)に豊成の廟塔のある当地に再興され、法相宗から融通念仏宗に改宗した。
寺宝に豊成、中将姫父娘対面の図、中将姫手織りの刺繍仏などがある。
門前には、高林寺高坊旧跡、中将姫修道霊場 豊成卿古墳之地の石碑がある。
JR及び近鉄奈良駅からバスで田中町下車、徒歩3分。





當麻寺

當麻寺は、奈良県葛城市の二上山雌岳の山麓にある寺院である。
寺伝によると、推古天皇20年(612年)に用明天皇の第3皇子麻呂子王が、兄の聖徳太子の教えを受け、河内国山田郷に萬宝蔵院禅林寺を草創した。
70年余り後、天武天皇白鳳11年(681年)に孫の當麻真人国見が、役行者練行の現在地に移し、寺号を當麻寺と改めたと伝えられている。
金堂、講堂が南北に一直線に並び金堂の南方両側に東西二つの三重塔が建ち、さらに本堂、仁王門などが独特の伽藍配置で並んでいる。
特に古代に建立された東西両塔(国宝)が現存しているのは當麻寺だけである。
宗旨は当初三論宗であったが、弘法大師が参籠してから真言宗に変わり、鎌倉時代には浄土宗の霊場ともなり、現在まで真言宗、浄土宗の二宗並立となっている。
金堂の本尊塑像弥勒仏坐像(国宝)や、中将姫伝説の綴織當麻曼荼羅図(国宝)、日本最古の梵鐘(国宝)など数多くの貴重な寺宝を有する。
ボタンの名所としても有名で、4月下旬からの開花期には多くの参詣者が訪れる。
平成30年7月14日から8月26日まで奈良国立博物館で「糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」が開かれた。
令和4年7月16日から8月28日まで奈良国立博物館で「中将姫と當麻曼陀羅」が開かれた。
近鉄南大阪線当麻寺駅下車、徒歩15分。参拝者用の有料駐車場がある。




當麻寺練供養

當麻寺練供養会式は、毎年5月14日中将姫(法如尼)の命日に行われる。
平成31年(2019年)から、熱中症対策のため毎年4月14日に行われることになった。
一般には、「當麻のお練り」「當麻レンド(レンゾ)」などと呼ばれているが、正式名は「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」という、歴史的に名高い法会である。
現在では全国各地で練供養が行われているが、寛弘2年(1005年)に恵心僧都 源信が始めたと伝えられるこの當麻寺の練供養が元祖だといわれている。
観音菩薩、勢至菩薩など二十五菩薩に扮装した人々が、極楽堂(本堂)から娑婆堂に赴き、中将姫を蓮台にすくい上げ、再び極楽堂に帰る来迎引接の様子が繰り広げられる。
観音菩薩は両手で蓮台を左右にすくい上げる所作を繰り返して進むことから「スクイボトケ」、続く勢至菩薩は合掌しながら練り歩くことから「オガミボトケ」とも呼ばれている。
中将姫は、右大臣藤原豊成の娘で、継母の仕打ちから逃れ16歳で當麻寺に入り得度して、禅尼とともに一晩のうちに蓮糸で當麻曼荼羅を織りあげたとの伝説が残されている。





中将姫の墓塔

中将姫の墓塔は、奈良県葛城市にある史跡である。
當麻寺の北側共同墓地内にあり、石造十三重塔花崗岩製、高さは285cmである。。
初重の四方仏は、軸部に縁をとった中に舟形を作って、そこに厚肉に彫り出し、屋根は軒反り強く、鎌倉時代末期の様式である。
横に建つ石造三重塔は、平安時代後期の作で、高さは156cmである。
當麻北共同墓地の東側入口通路に、慕塔の案内標柱が建てられている。
中将姫の墓は、ならまちの徳融寺の境内にもある。
近鉄南大阪線当麻寺駅下車、徒歩20分。



石光寺

慈雲山普照律院石光寺は、奈良県葛城市當麻町にある。
「元亨釈書」巻28の当麻寺の項に次のように記されている
天智天皇の時(670年頃)、この地に光を放つ三大石があり、掘ると弥勒三尊の石像が現われた。
勅願により堂宇を建立し、「石光寺(せっこうじ)」の名を賜り役小角が開山となりみろくにょらいを本尊として祀ったのが始まりである。
聖武天皇の時に、蓮糸曼荼羅を織った中将姫が、この寺の井戸で蓮糸を洗い五色に染め、桜の木にかけて乾かしたというので、この桜を「糸掛け桜」、井戸を「染の井」、またこの寺を「染寺」という。
南門前には、白鳳期の形式を持つ塔心跡が残っている。
平成3年には、金堂跡から我国最古の丸彫石仏が出土した。
1月には、弥勒堂が開帳される。
関西花の寺霊場第20番札所で、4月には春ボタンが、5月にはアメリカしゃくやくが境内に咲き誇る。
近鉄南大阪線二上神社前駅下車、徒歩20分。





角刺神社

角刺神社 鏡池は、奈良県葛城市にある。
境内の案内板には、次のように記されている。
奈良県葛城市忍海鎮座
角刺神社(つぬさしじんじゃ)(旧村社)
 御祭神 飯豊青命(いいとよあおのみこと)
由緒
 第二十二代清寧天皇が崩御された時、皇太子億計(おけ)王(仁賢天皇)と皇子弘計(をけ)王(顕宗天皇)の兄弟は互いに皇位を譲り合い、なかなか御位に就かれないので姉君である飯豊青命が代わって、この地で朝政を執られました。
日本書紀には
倭辺(やまとべ)に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺宮(つぬさしみや)
とあり、大層立派な建物であったようです。
飯豊青命の執政期間は短く、わずか十ケ月あまりで崩御され葛城埴口丘陵に葬られました。北西九百メートル先にある飯豊天皇陵がそれです。
飯豊青命は記紀では天皇としては認められていませんが、天皇の扱いになっている歴史書も古来より数冊残されており、史上初の女性天皇としてその歴史に注目が集まるところです。
鏡池(かがみいけ/かがみのいけ(葛城市歴史博物館の案内板))
 境内にある鏡池は飯豊青命が毎朝、鏡代わりに使った池と伝えられています。またこの池は蓮池とも呼ばれていて、當麻寺の中将姫が曼陀羅を織るための蓮糸をこの池から採ったといわれています。
忍海寺(にんかいじ)
 境内に建つ忍海寺は神仏習合の表れとして神社に置かれた寺院である神宮寺です。本尊の観音菩薩立像は飯豊青命が仏の姿で現れたものであはないかと伝えられています。




青蓮寺

青蓮寺(せいれんじ)は、奈良県宇陀市にある浄土宗の尼寺である。
日張山(595m)の南中腹にあり、中将姫の遺跡と伝えられる。
日張山と号し、本尊は中将姫19歳の姿を模した法如坐像である。
開山堂には、中将姫御影像がまつられている。
また中将姫伝説の松井嘉藤太春時と妻静野の供養石塔も建てられている。
中将姫は、14歳の時に継母の讒言でこの地に配流され、2年6カ月念仏三昧の生活を送り、次の歌を残している。
「なかなかに 山の奥こそ住みよけれ 草木は人のさがを言わねば」
その後、父藤原豊成がこの地に狩に来て再開し、當麻寺に入り出家した。
そして、19歳の時に再びこの山に登り、一宇の堂を建立してひばり山青蓮寺と名付けたといわれる。
山麓の寺の入り口には、「享保2年(1717年)」銘の仏足跡がある。
世阿弥の謡曲「雲雀山」は、当寺が舞台となっている。
近鉄大阪線榛原駅からバスで宇賀志下車、徒歩30分。寺の入り口に参拝者用の駐車場がある。



得生寺

雲雀山得生寺は、和歌山県有田市にある西山浄土宗の寺院である。
得生寺記という古記録によると、天平宝宇3年(759年)、時の右大臣藤原豊成のむすめ中将姫遭難の旧跡である。
当初中将姫の家士伊藤春時の創設した草庵が、後に一寺となり、安養庵と呼んだ。
時代が降って室町時代に入り西山浄土宗の明秀光雲上人が紀州に来て、文明年間(1469年-1487年)同上人によって改宗され、伊藤春時の僧名も寺号とし、雲雀山得生寺と称して今日に至っている。
現在の得生寺は、寛永5年(1752年)4月新田蓮坪の現在地に建立された。寺内西正面に開山堂があり、堂内に中将姫を中心に春時(得生)夫妻が安置されている。
当寺には、中将姫が蓮の糸で編んだ當麻曼荼羅や書写した称賛浄土経が寺宝として保管されている。
当寺では、恒例の中将姫会式が毎年5月14日に行われ、地元の子供達が二十五菩薩の姿となり、開山堂から本堂へ練供養をする。会式当日は多くの参詣者が訪れ、昔から次のように言われている。
「嫁見するなら糸我の会式、それで会わねば千田祭」
二十五菩薩練供養は、和歌山県無形民俗文化財に指定されている。
有吉佐和子の小説「有田川」では、主人公の千代が、数年ぶりに「妹」悠紀の練供養での晴れ姿をこっそりと見るために得生寺に出かける様子が、臨場感たっぷりと描かれている。
JR紀勢本線、紀伊宮原駅下車徒歩30分。参拝者用の駐車場がある。



雲雀山

雲雀山(ひばりやま)は、和歌山県有田市と有田川町の境に位置する、有田市糸我町中番の東南部にまたがる山である。
北側にある得生寺の山号であり、山内には得生寺ゆかりの中将姫に関する遺跡が残されている。
〇宝篋印塔
 康永2年癸未(みずのとひつじ)(1343)の銘がある。有田地方で最古級の金石文で、昭和59年(1984)に有田市指定文化財になっている。金剛界の四方仏を現す梵字が刻まれている。
〇親子対面岩
 中将姫が父親の藤原豊成とここで再会したと伝わる。
〇名号石
 中将姫が隠れ住んだ庵の跡の前にある一枚岩である。南無阿弥陀仏の名号が刻まれている。
〇机の岩 経の窟
 中将姫がここで写経し、経を納めたといわれる場所である。
〇御本廟
 雲雀山の山頂で、中将姫の尊像が祀られている。
JR紀勢本線紀伊宮原駅下車、徒歩1時間。




恋し野の里中将姫旧跡

恋し野の里中将姫旧跡は、和歌山県橋本市にある。
中将姫の父は、藤原豊成、母は紫の前で天平19年(747年)8月18日に誕生した。
5歳で母と死別し、7歳の時継母の照夜の前を迎えた。
姫は容姿端麗で叡智に富み、何ごとにも優れ、帝から中将の位を授かる。義弟の豊寿丸が誕生した頃から継母は姫を憎み、幾度も姫を殺害しようとするが姫は助かった。
さらに14歳の春、父の留守中に家臣の松井嘉藤太に命じて紀伊と大和の境の雲雀山で殺害させようとしたが、嘉藤太は罪もない姫を助けた。
姫は、十三仏や里人たちの温情に支えられ恋し野の里で二年三か月間様々な苦しみに耐えて、聞くも悲しい生活を送った。そして狩りに来た父と中将倉で涙の再開を果たし、奈良の都に帰った。
17歳の時當麻寺で剃髪し、法如比丘尼(ほうにょうびくに)となって藕糸(ぐうし)曼荼羅を織り、宝亀6年(775年)卯月14日29歳で波乱の生涯を静かに閉じた。

糸の懸け橋

中将倉でさびしい日々を送っていた姫がかの雲雀山に来て、天国の母様を慕い、或いは恋し野の里で里人と戯れ、草花を摘みに去年川(こぞがわ)の渓谷を毎日渡るのに困ってかけた橋である。
この橋は、糸の懸橋であって、昭和初期まで県道の橋であったが、朽ちて流されていたのを中将姫旧跡保存委員会で昭和56年に復元した。
両橋詰に十三仏の中の阿閦如来(あしゅくにょらい)と地蔵菩薩が祀られている。
JR和歌山線隅田駅から徒歩20分。



雲雀山旧跡(太刀捨て山)

雲雀山旧跡は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が14歳の時、継母の照夜の前の命令で、家臣の松井嘉藤太(かとうた)が、姫を板張りの輿にのせて、奈良の都からこの雲雀山に連れ出し殺害しようとした。
中将姫は、「これ嘉藤太や、私は日に六巻のお経を唱えている。このお経が終わればどうぞ首を討ちとってください。」と言って、西に向かってお経を唱えた。
松井嘉藤太は、その姫の姿を見て振り上げていた太刀を捨て、姫を守ることを決意した。その故事で雲雀山は、別名「太刀捨て山」と呼ばれる。
嘉藤太は、麓を流れる去年川(こぞがわ)の奥の岩陰に草庵を作って、妻のお松とともに2年3か月間隠れ住んだ。
謡曲「雲雀山」では、「大和紀の國の境なる、雲雀山にて」と、中将姫の物語が謡われている。
現地の去年川橋東詰には、田林義信和歌山大学名誉教授の次の歌碑がある。
「母を恋ひ 中将姫が揚雲雀 聞きけむ山ぞ 秋は紅葉す」
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩20分。



中将倉(中将姫旧跡)

中将倉(中将姫旧跡)は、和歌山県橋本市赤塚の去年川沿いにある。
中将姫は藤原豊成の娘で、成長するにつれ、容姿端麗で英知に富んだことから継母の照夜の前に命を狙われた。
家臣の松井嘉藤太は、照夜の前の命で中将姫を斬ろうとしたが、可憐な姫の姿に心を打たれ、妻のお松と共にこの地に草庵を結んで、隠遁生活を送った。
2年3か月後、狩りに来て山路に迷った父の藤原豊成と、中将姫が涙の再会を果たした場所である。
坂の上には、姫の法名(法如比丘尼)にちなんだ法如池があり、十三仏の釈迦如来が祀られている。
中将倉と彫られた石碑には、次のように刻された銘板がある。
 中将倉にさみだれ過ぎて
  笹百合香る運堂
 糸の細道露踏みゆけば
  姫の読経か河鹿の声が
 かなし去年川青葉かげ
    ひばり山小唄より

JR和歌山線隅田駅下車、徒歩約40分。




布経の松(別名三本松)と運び堂

布経の松(別名三本松)と運び堂は、和歌山県橋本市恋野にある。
中将姫が、三本松の根方に立って手を振ると、五本の指先から五色の糸が出て松の枝から枝に渡され、美しい布が織られた。
天上に居る母に贈り物として合掌すると、布は天高く舞い上がり、紫雲たなびく七霞山の彼方へと消えていったとの伝説が伝わっている。
「布経(ぬのえ)の松」の由来となった松の木は、今は枯れてしまい石碑が残されている。
中将姫がいつも空腹をこらえながら、称讃浄土仏攝受経を読誦しつつ、この峠を訪れるのを里人たちが見て不憫に思い、ここにある辻堂に食べ物を運んだといい、いつしかこの堂を運び堂と呼ぶようになった。
この一帯を運び堂という地名にもなっている。
JR和歌山線隅田駅下車、徒歩40分。



福王寺

雲雀山福王寺は、和歌山県橋本市恋野にある真言宗御室派の寺院である。
中将姫が恋し野の里に建立した三の庵(雲雀山庵、滝谷垣内庵、運び堂で各々庵屋敷跡が残っている)を合併して、宝暦8年(1758年)に建立したといわれる。
本尊は木造阿弥陀如来坐像で橋本市の指定文化財となっている。
また脇侍として持国天、多聞天が安置されており、和歌山県の指定文化財となっている。
阿弥陀如来像は、阿弥陀如来九品印(くぼんいん)のひとつ上品下生(じょうぼんげしょう)(来迎印)を結んでいる。
檜材による寄木造、彫眼、漆箔仕上げの像で、ふくよかな頬部とやや彫りの浅い顔部から静かな落ち着きを感じさせる。像高87.2cm、平安時代末期の作品といわれる。
脇侍の天部立像は、甲を身に着けた憤怒武装形に表現され、仏法とそれに帰依する人々の護法神として信仰される。
この2躰の像はいずれも檜材による一木造りで、持ち物は欠損しているものの当初の美しい彩色文様の一部が残り、保存状態も良い。
像高99.0cm、98.0cmで平安時代中期の作品といわれる。
堂内には、中将姫の位牌(中将姫法如大菩薩)が安置されている。
境内には、葉書の木といわれる「タラヨウ多羅洋」が植えられている。
葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩15分。参拝者用の駐車場がある。



如意山 願成寺

如意山 願成寺は、岐阜市大洞にある真言宗智山派の寺院である。
寺伝によると、創建は天武3年(674)で、壬申の乱第一の功労者といわれる村国連男依(むらくにのむらじおより)が、天竺伝来の十一面観音の小像と仏舎利を安置したのがはじまりという。
養老5年(721)越(こし)の泰澄(たいちょう)が現在地に移し、大洞山清水(せいすい)寺と名付けた。
天平17年(745)観音の霊験を得た日野金丸(ひののきんまろ)が、奈良東大寺の大仏を鋳造したことから、聖武天皇が行基に命じて、三尺五寸の十一面観音を彫らせ、七堂伽藍十二坊を建立し、如意山願成寺(にょいさんがんじょうじ)との勅額を下賜された。
現在の本堂前には、「如意山願成寺」の寺名額右に、「こころのままにねがいなるてら」と記されている。
奈良時代に中将姫が当麻寺から当寺に移り、難病を救う誓願をこめて桜を植え、弘仁5年(814)空海が滞留し、大日如来像と自身の像を彫ったと伝えられている。
天慶2年(939)藤原純友の乱に際して堂宇を焼失、承久の乱の頃在地の豪族小島重俊が寺坊を再建した。
織田信長の兵火でも焼失し、明暦年間(1655-58)宥遍により再建されている。
寺宝として、本尊の木造十一面観音立像、木造阿弥陀如来坐像、木造大日如来坐像、木造金剛力士立像(仁王像)、乾元(けんげん)二年(1303)銘鰐口、華瓶及び閼伽桶、紙本墨書の伝叡尊筆念誦次第五種、絹本著色刀八(とはつ)毘沙門像、春日版大般若経等を有する。
本堂前の中将姫誓願桜は、国指定天然記念物となっている。
JR岐阜駅からバスで光輪公園口下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。




中将姫誓願桜

中将姫誓願桜は、岐阜市願成寺にある国の天然記念物である。
樹高約8mで根元の上から三本の支幹が出ている。
山桜の変化したものといわれており花弁の数が20-30枚と多いのが特徴である。
当地の案内板には、次のように記されている。

    中将姫誓願桜の由来
 願成寺には次のような伝説が語り継がれています。
天平の昔藤原豊成という貴人の姫に中将姫というとても美しくて賢いお姫様がありましたが、
継母に大へん憎まれて殺されそうになりました。
危く難を逃れた姫は追手を避けて諸国を流浪し、やがて当寺に辿り着かれました。
ところが慣れぬ長旅で婦人病に患り、困り果ててこの寺の観音様に祈られましたところ、病気は忽ち治ってしまいました。
姫は喜びのあまり境内に一本の桜を植え、願いをこめて祈られました。
「桜よいつまでも私に代って、ここの観音様をお守りしておくれ。
又菩薩様、この桜の花や葉を大切に持つ婦人があれば、女の身にしかわからない心身の悩みから解放してやってください。」
姫はこうして九十日もの長い祈りを終えると、大和の当麻寺で織ったのと同じ曼荼羅を蓮の糸で織り、記念に当寺へ納められました。
この曼陀羅は後に故あって、愛知県の江南市にある飛保の曼陀羅寺へ伝わって行ったと言われています。
 この桜が珍らしい品種であることが分かったのは、郷土の偉人で昆虫翁と言われた名和靖氏の尽力によるもので、
東京帝国大学の三好学博士に調査を依頼したところ、学術的にも未発表の新種であることが確認され全世界に発表されたのです。
この桜は現在は天然記念物に指定されていますので自由に花を取ったりすることは許されませんから、
開花時に百花ほど摘んで安産などのお守りとして当寺より出しています。

JR岐阜駅からバスで光輪公園口下車、徒歩10分。願成寺参拝者用の駐車場がある。









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