高野口ウォーク資料 →2020年高野口街中ウォーク
高野口駅は、和歌山県橋本市高野口町にある。
明治34年(1901)3月29日に紀和鉄道名倉駅として開業した。
明治36年(1903)1月1日に高野口駅に改称された。
紀和鉄道は、明治29年(1896)に設立された鉄道会社で、五条和歌山間を建設運行していた。
その後、明治37年(1904)に関西鉄道に買収され、さらに明治40年鉄道国有法により国有化された。
明治43年(1906)に名倉村村議会で町制実施が提案され、名倉村は高野口町となった。
明治から大正時代にかけて、同駅は高野山参詣の表玄関となり、駅前には旅館が建ち並び、人力車が行列をなして参詣登山口の九度山まで往復した。
大正4年(1915)4月1日から5月20日までの50日間、「高野山開創千百年記念大法会」が執行された。
その時の高野登山者の紀和鉄道での各駅の乗降者は次のとおりである。
高野口駅 27万1855人 橋本駅 8万5290人
妙寺駅 1万5179人 笠田駅 1万7883人
約7割の参詣者が高野口駅経由で、椎出、神谷の新高野街道を使って高野山に登っていた。
その後、大正14年(1925)に大阪から高野山への登山鉄道が開通し、参詣者は鉄道利用に変わっていった。
JR和歌山線高野口駅下車。
葛城館は、和歌山県橋本市高野口駅前にある。
木造3階建て、入母屋造りの旅館で延べ約323㎡で、明治時代後期の建築である。
千鳥破風と軒唐破風を3階本屋根の正面に取り付け、銅板葺の庇と正面が総ガラスとなっている。
内部は旅館営業当時そのままに残されており、明治大正時代の常連が残した看板(講中札)や竈などがある。
高野口は、明治34年(1901)に紀和鉄道名倉駅の開業以来、高野参詣の入り口となり、
葛城旅館のほか、東雲旅館、高島館、大仲館、水野館、富久屋、守内席、平野屋、増田屋、盛進楼、
九重館、全盛楼、笠本館、下村屋、福の屋、東屋、桃山館、橋詰館、布袋屋などが営業していた。
葛城館は、平成13年11月20日に国の登録有形文化財に指定されている。
外面のガラスはすべて手すきで、斜め横から見ると凹凸となっている。
JR和歌山線高野口駅下車すぐ。
田原川踏切
昭和7年(1922)8月、高野町議会に四川合流の提案が出された。
これは、政府の補助金を仰ぎ、田原谷川、盲川、東谷川、宮谷川の四川を合流して、嵯峨谷川に合流させるという内容で、
高野口町の中心街にあった天井川の流路を変更するものである。
工事は昭和8年(1923)から開始し、昭和10年(1935)に完成した。昭和11年に昭生(しょうぶ)川と命名された。
廃川の敷地は、町が譲り受け、高野口小学校用地や道路用地となった。
不老山瀧井寺は、和歌山県橋本市高野口町にある。
境内には、「弘法大師不老水 瀧井之跡」の石碑が建てられ、次の説明文がある。
不老の瀧井旧蹟
弘法大師、高野山開創の砌、八町四方の伽藍でありし名古曽廃寺に錫を留め万民の浄福を祈りて、
薬師如来の実像を刻み、身とこころの病患を癒やす不老の浄楽を残せりと伝う。
本堂前には「瀧井寺再建の疏」の石碑があり、次のように刻されている。
不老山瀧井寺は、弘法大師高野山開創の砌、錫を名古曽廃寺に留め、
佛縁深きこの地に不老の清水のあることを教え、薬師如来の霊像を刻みて、
住民の長寿と平安浄福を祈りし霊蹟なり。
長徳4年(998年)祈親上人定誉四十二歳の時、この地を尋ね厄除けの護摩を修せし文献と共に、
その霊験は長く伝承され来るも天災兵乱の災禍により当時の面影を偲ぶに由なく、
一宇を残せしも、明治維新の廃佛棄釈(毀釈)の法難により無住となる。
爾来幾度か修復を重ね護持に尽力し来れるも、荒廃の度ついに改修の及ぶ能わざるところとなりけり。
この度、先祖菩提、子孫浄福、郷土発展を憶念せし檀徒の熱願が熟し、
本堂並びに庫裡再建の浄業を達成するに至る。佛天の冥護、期して待つべきものあり。
ここに、再建の素懐を誌し、御寄進功徳主の法名を刻み、霊蹟の永く伝えるものなり。 合掌
昭和六十三年三月吉祥日
瀧井寺兼務住職 大僧正 谷本 嘉隆
住吉神社(住吉大神宮)は、和歌山県橋本市高野口町名古曽にある。
祭神は、表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと) 他二神である。
社伝によると、天正10年(1582)織田信長の高野攻めの時に、織田方の武将 松山庄五郎(松山新介重治)が、名古曽城に在陣の時、戦勝を祈願して、堺の住吉神を当地に勧請したものである。
社殿は、住吉造りの形式を具えている。
紀伊続風土記の北名古曽村の項に、次のように記されている。
住吉大明神社 境内周五十八間
天照皇大神 春日大明神 相殿
末社 神功皇后社 辨財天社
村の北にあり境内に古木多く舊社と見えたり
拝殿南側には、小北稲荷明神、天満宮、金刀比羅宮が祀られている。
大祭はかつて7月31日に行われていたが、現在は7月の最終日曜日に行われる。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩10分。
名古曽廃寺(なこそはいじ)跡は、和歌山県橋本市にある和歌山県指定史跡である。
そこには「護摩石(ごまいし)」と呼ばれる大きな石が残されている。
かつて、祈親(きしん)上人が、この場所で護摩を修したとの言い伝えによりこの名がある。
この石は、長さ223cm、幅133cmで、中央に直径44cmの心柱をうける孔があり、さらにその中に仏舎利をおさめる孔がある。
これは、古代寺院の塔の心柱をすえる心礎と呼ばれる礎石で、平成元年度の発掘調査によって、一辺が約9mの規模を持つ塔跡であることが確認された。
平成2年度の発掘調査によって、塔跡の西側から東西約15m、南北約12mの規模の金堂跡が確認された。
これにより東に塔、西に金堂を配置する法起寺式伽藍配置であったことが明らかになった。
こうした発掘調査に基づき、現地に基壇や礎石が復元され、史跡公園として整備されている。
史跡 一里松
和歌山城の京橋から10里目の松が植えられていた。
昔から、「10里四方ところ払い」といい、罪人はここで解き放たれた。
陸奥宗光の家族もところ払いとなった。
松は、戦時中に伐採され、新しい松が植えられている。
名古曽廃寺跡の北東約200mにある一里山の丘陵地(名古曽墳墓)は、県史跡に指定されている。
昭和38年(1963年)10月13日、高さ23.1cm・幅27.6cmの三彩骨蔵器(国の重要文化財)が、滑石製石櫃(いしびつ)に収められた状態で出土した。発掘者は、名古曽の梅谷博男氏である。
奈良時代の典型的な薬壺形骨蔵器であり、蓋、身ともに緑、白、褐(かち)の三色の釉がかけられている。
全体に褐色が強いのは胎土に鉄分を含んだあらい土を使い、さらに一般の緑釉陶器等より高温で焼き上げられたからである。
形は中ふくらみの豊満の形で、色彩、光沢の鮮明さと大きさから奈良三彩の一品とされ、わが国考古学・陶芸史上貴重な存在である。
埋納土坑の須恵器から8世紀後半に成人男子火葬骨を葬ったものと考えられている。
実物は、京都国立博物館で保管され、橋本市産業文化会館にレプリカが展示されている。
出土地址には、石碑が建てられている。
引の池応其上人五輪塔は、和歌山県橋本市高野口町にある。
引の池は、高野口町応其の西北にある橋本市最大のため池である。
天正17年(1589年)に応其上人の主導によって築造され、現在も応其、伏原、名古曽一帯を灌漑している。
堤高13.5m、堤長187m、総貯水量19万㎥、満水面積は6haである。
引の池の名の由来は、もとあった「鐘の樋池」が潰れたため、新たに手前に引き寄せてつくった池なので「引の池」と呼ぶことにしたといわれる。
上池の西側土手を登ったところに応其上人の五輪塔がある。
一番下の地輪には、次のように記されている。
(正面) 天正十八年 木食応其上人 九月廿一日
(側面) 施主四ケ村 奉為息災謝 奉行西山勝家
西側には、寛政四年(1792年)建立の法華経一字一石がある。
応其上人
応其上人は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
和歌山県立伊都中央高等学校
和歌山市橋本市にある単位制の昼間・夜間定時制、通信制高校である。
2015年4月に伊都高等学校(1922年設立)と紀の川高等学校(1967年設立)を統合して開校した。
校舎には、「祝世界選手権金メダル スケートボード 四十住さくら」の懸垂幕がかけられている。
四十住さくら(2002年3月15日生まれ)は、岩出市在住の通信制の生徒で、2018年11月南京で開催された世界選手権で金メダルを獲得した。
条里制の遺構
条里制は、日本において古代から中世後期にかけて行われた土地区画制度である。
条理の基本単位は約109m四方の正方形である。
古代日本では約109mは、1町(60歩)にあたり、約109m四方の面積も同様に1町と呼ばれた。
この1町四方からなる基本単位を「坪」(現在の坪と異なる)と呼び、36坪を1里と呼んだ。
応其平野に、区画された跡や、「住吉坪」「市坪」「八の坪」などの地名が残っている。
条里制跡には、1町ごとに用水路が南北に紀ノ川まで通されており、引の池の用水を利用している。
伊都中央高校の敷地の東西距離は2町、応其小学校の敷地の東西距離は1町である。
名古曽城館群、名倉城跡は、和歌山県橋本市高野口町にある。
橋本市名古曽は、紀ノ川の北岸の洪積台地上(標高85m)に位置している。
台地上を紀ノ川の支流、旧田原川が南北に流れて扇状地を形成している。
(名古曽城館跡 高尾城跡)
この旧田原川の東には高野山の領域型荘園である官省府荘を管理する政所一族の有力荘官、高坊氏、塙坂(はねさか)氏、小田氏らの城館跡がある。
平成7年(1995)の塙坂氏館跡の発掘で、空堀や土塁のほか、4棟の建物群、中国製青磁椀の破片が発見されている。
小字上ノ段には、名古曽城跡の石碑があり、裏面には次のとおり刻されている。
「天文年間塙坂出雲守秀信その子小右衛門久幸此処に居住す
紀伊続風土記畠山家譜 塙坂家由緒書に拠る
昭和三十九年三月 塙坂治郎五郎 建之」
(名倉城跡)
旧田原川の西の名倉には、政所一族の亀岡氏の館跡や、守護勢が駐屯した名倉城跡がある。
JR高野口駅西側周辺の小字は、「城跡(しろあと)」と呼ばれ、周辺約2万㎡が名倉城跡とみられており、
段丘下の「殿(とう)の井戸」は城の附属施設と考えられている。
「多聞院日記」によると、永禄10年(1567)、紀伊守護畠山秋高(昭高)が、根来寺の連判衆ら約3千人の兵を連れて名倉城に入城している。
JR和歌山線高野口駅下車すぐ。
四條畷地蔵尊は、和歌山県橋本市高野口町にある。
江戸時代後期、当地の浦之段阿弥陀寺は無住職となり、寺守りが歴代檀務の世話を継承してきた。
明治時代終り頃、八助が寺守りとして当地に住んでいたが、かつて行商先の河内四條畷河川敷で、
九死に一生を得る不思議な体験があり、その救い主が地蔵尊であることが、片時も忘れられなかった。
地元の人々の開運を思い、霊験に触れることを確信し、その後三度遷祀したが、昭和34年(1959)当地にこの地蔵尊を勧請した。
その後、子安開運の地蔵尊として地元の人々から尊崇されている。
JR和歌山線高野口駅下車、徒歩5分。
信太神社(信太五社大明神)は、和歌山県橋本市高野口町九重にある。
祭神は、天照大神、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほににぎのみこと)、饒速日尊(火明命)(にぎはやひのみこと)、神日本磐余彦尊(神武天皇)(かむやまといわれびこのみこと)、岩長比賣命(いわながひめのみこと)である。
大字田原、上中、下中、九重の総氏神で、神社の祭祀は四か村が分担して行っている。
創建については詳らかでないが、古文書では、天武天皇の白鳳三年(674年)に、役行者が葛城山で修行の際に、当社の塔内で誦経されたとある。
天元2年(979年)に拝殿、御供所、神庫、楼門を改造したという伝えがあり、このことから1300年前には、すでにこの神社が創建されていたと考えられている。
内鳥居に掲げられていた「信太神宮」の額面は、弘法大師空海の筆によるものと伝えられ、応永2年(1395年)まで神庫に保存していたというが、現在は紛失して不明である。
この神社は「おんごろ(土龍(もぐらのこと))の宮として近郷に名高く、神社の北隣にあった別当寺(神宮寺)から土龍(もぐら)封じの護符が出されていたが、寛政6年(1794年)の火災で別当寺が焼失して、このとき神社の宝物や古文書が失われた。
むかしから氏子の四か村には、土龍(もぐら)が生息していないと言い伝えられている。
境内には推定樹齢400年の樟樹の大木(樹高約25m)があり、昭和34年に和歌山県の天然記念物に指定されている。
この木は、江戸時代に書かれた紀伊続風土記にも書かれており、根元から胸高周囲が2.1mのクロガネモチの大木が癒合し、神秘性を現わしている。
JR和歌山線高野口駅から徒歩約45分。
新高野街道
明治大正期の高野参詣客は、高野口駅から、椎出、神谷の新高野街道を経て、高野山までお参りしていた。
宿場跡 清水館 守内館などが残されている。
紀北冷蔵跡
文化4年(1807)から昭和28年(1953)まで、葛城凍豆腐(天然凍豆腐)が生産されていた。
紀北冷蔵は、葛城峯での天然凍豆腐生産が終了した後も、人工冷凍で豆腐生産を続けた。