黒井城跡(保月城趾)

黒井城跡(保月城趾)は、兵庫県丹波市春日町黒井にある国指定史跡である。
春日盆地のほぼ中央にある城山(356.8m)(別名 猪ノ口山)山頂に位置しており、八木城、八上城とともに丹波三大山城の一つといわれる。
建武2年(1335)足利尊氏に従い新田義貞とたたかった赤松貞範(さだのり)が、その戦功により丹波春日部荘をあたえられ、山頂に砦を築いたがはじまりといわれる。
応仁・文明の乱(1467-1477)前後には、荻野氏の所領となり、黒井城も荻野氏の居城となった。
天文23年(1554)、赤井氏から荻野氏の猶子となった直正は、荻野秋清を殺害して黒井城主となり、荻野悪右衛門直正と名乗った。
直正は、丹波北部各地の戦いで勝利を得て勢力を広げ、黒井城の大改修を行い、堅固な要塞とした。
天正年間(1573-92)初期には、黒井城は反織田勢力の拠点となり、直正は甲斐の武田勝頼、石山本願寺の下間頼兼らとも気脈を通じている。
天正3年(1575)、越前の一向一揆を平定した織田信長は、明智光秀に丹波攻めを命じた。
明智軍は丹波の国人衆の大半を服従させて黒井城を「相陣」で包囲し、来春には落城するとの風聞が広がった。
しかし、天正4年正月15日、八上城主 波多野秀治が寝返って明智光秀の陣を急襲し、総崩れとなった明智軍は壊滅的打撃を受け、栗栖峠方面に退却した。これは、後に「赤井の呼び込み戦法」と呼ばれている。
天正6年3月に直正は病死し、天正7年(1579)明智光秀が再び攻撃して、6月に八上城が落城、8月に黒井城も陥落した。
明智光秀は、黒井城南麓の興禅寺に陣屋を設け、家臣斎藤利三に代官を命じて氷上郡を統治させた。
落城以降は城跡が放置されたが、本城部分、曲輪跡、砦跡などの遺構が残されており、戦国時代の山城の様子を残している城跡として、平成元年(1989)に国の史跡に指定された。
JR福知山線黒井駅下車、山頂まで徒歩1時間。山麓の興禅寺の南と北に来訪者用の駐車場がある。



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