益田岩船

益田岩船は、奈良県橿原市南妙法寺町にある史跡である。
貝吹(かいぶき)山の連峰である石船山の頂上近くに所在する花崗岩の巨大な石造物で、昭和51年に奈良県の史跡に指定されている。
大きさは、東西の長さ11m、南北8m、高さ4.7mの台形で、頂上部と東西の両側面に幅1.8m、深さ0.4mの浅い溝状の切れ込みがある。
上部には1.4mの間隔をあけて東西に二つの方形の孔がある。孔は東西1.6m、南北1.6m、深さ1.3mで東西ほぼ同じ規模である。
この石造物について、弘仁13年(822)にこの地に築造された益田池の碑の趺(台石)とする説があり、頂部平坦面を90度回転させ横口式石槨とする(墳墓)説や占星台の基礎とする説、物見台とする説などがある。

来村多加史氏は、横口式石槨とする(墳墓)説で、「上下する天文」(2019年刊)の中で、次のように記している。
斉明七年(六六一)七月二四日に筑前国の朝倉宮で客死した斉明天皇の尊骸は、十月二三日に難波津まで運ばれ、十一月七日から飛鳥の川原で殯が始められた。発哀の儀は九日間に及んだという。
その後、中大兄皇子は百済再興の遠征に手をとられ、白村江の敗戦後は九州から畿内にいたるまでの山城建設に専念し、この葬儀の翌月には近江への遷都を強行した。
そのような慌ただしい時期であったためか、母である斉明天皇の「石槨の役」を停止した。放棄された石槨は貝吹山の近くに残る益田岩船と考えられる。
あの巨石を尾根づたいに八〇〇メートルばかり南にある牽牛子塚古墳まで運び、天智四年(六六五)二月二五日に薨去した間人皇女との合葬陵にする予定であった。
多くの役夫が犠牲になりそうな難工事をやめ、墳丘内に現存する二上山凝灰岩の石室に替えたものと、私は見ている。それでも難工事になるのだが。
→ 近畿文化会 臨地講座 益田岩船(後編)

また、「飛鳥史跡事典」では、次のように記されている。
平安時代に築堤された灌漑用ため池「益田池」の造池記念碑の台石との憶説からこの名がつけられたが、現在は石室未完成品廃棄説が有力である。(中略)
本例の方形穴底部には大きな亀裂が走っており、それが廃棄の原因か。硬質な花崗岩の加工をあきらめたのか、牽牛子塚古墳の石室はより加工の容易な凝灰岩製である。

用途は確定していないが、上部平坦面の溝や孔が高麗(こま)尺で計画され、花崗岩の加工技術が終末期の古墳と共通するなど、七世紀代の特色を持っている。
益田岩船の名称は、江戸時代の地誌類に見られるもので、この岩船が益田池に関連するものとの想定に基づく呼称であるため、現地案内板では「史跡 岩船」と表示されている。
近鉄南大阪線橿原神宮前駅からバスで南妙法寺町下車徒歩10分。






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