牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳は、奈良県明日香村にある国史跡である。

牽牛子塚(けんごしづか)古墳は、江戸時代にケンゴウシ又は御前塚と呼ばれていた。ケンゴウシは漢字で牽牛子と書き、アサガオを指す。
朝顔は、ヒルガオ科の一年生蔓草で、中国南西部やヒマラヤ山麓が原産地といわれる。
中国では、宋の時代からこの種子を薬用に供し、だいじな牛を牽いて薬草の朝顔にかえた故事から牽牛子(子は実のこと)・牽牛花の名が起こった。
日本へは、千二百年前、遣唐使が薬用として持ち帰ったのが最初で、粉末にして緩下薬、峻下剤として用いた。

平成21年度の調査では、牽牛子塚古墳が二上山の凝灰岩を使用した八角墳であることが明かとなった。→ 八角墳と天皇陵
そして平成22年度の調査で、牽牛子塚古墳の南東から石英閃緑岩を使用した刳り貫き式横口式石槨が検出され、越塚御門古墳と命名された。
これらの発掘調査の結果から、牽牛子塚古墳は、7世紀後半の終末期古墳で、斉明天皇と娘の間人皇女の合葬墓と考えられている。→ 車木ケンノウ古墳(斉明天皇陵) 

牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(おちのおか)(小市岡)は、高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が詠まれ、
隣接する真弓岡や今城谷には、天武天皇と持統天皇の檜隈(ひのくま)大内陵や吉備姫王の檜隈墓など大王(天皇)家の墓が残されている。→ 天武・持統天皇陵 吉備姫王墓 カナヅカ古墳

日本書紀の天智天皇六年(667)条に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」とその陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されている。
間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたる。
小市岡(越智岡)は、斉明天皇ゆかりの女性が眠る地と紹介されている。

なお、益田岩船石の宝殿について、牽牛子塚古墳の横口式石槨との関連が指摘されている。
猪熊兼勝氏は、「飛鳥の古墳を語る(平成6年刊)」において、
「益田岩船、石宝殿は斉明陵として墓室を造る途中、予期しなかった亀裂が生じ、未完成として残った石塊である」
としている。
益田岩船については、上記の猪熊氏の著書に、亀裂についての説明がされている。
石の宝殿については、日本書紀の天智天皇6年2月条に、「石槨の役(いわきのえだち)(横口式石槨の墳墓の造営)を起さしめず」と記されていることから、
万民のために造営を中止したものであるとの説がある。
→ 近畿文化会 臨地講座 益田岩船(後編) 牽牛子塚古墳を解説 石の宝殿の正体 石の宝殿及び竜山石採石遺跡

近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩15分。アグリステーション飛鳥に来訪者用の駐車場がある。→ 飛鳥古墳めぐり



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