飛鳥古墳めぐり

午前9時10分 飛鳥駅前集合

飛鳥駅前発 牽牛子塚古墳 岩屋山古墳 猿石 欽明天皇陵 カネヅカ古墳 鬼の雪隠 俎 天武持統天皇陵 中尾山古墳 
 高松塚壁画館 高松塚古墳 檜隈寺前休憩所 於美阿志神社 桧隈寺跡 キトラ古墳 (子嶋寺) 壷阪山駅着

距離の目安  約10km

昼食場所 檜隈寺前休憩所

飛鳥駅時刻表

橿原神宮前、古市、阿倍野橋方面 

   平日     休日 
    特急      特急 
8時代  17 28 56  5 39    25 56  9 40
9時代 26 58    10    26 57  10
           

壺阪山、吉野方面

   平日     休日 
    特急      特急 
8時代   5 34  50    4 34  20 50
9時代  5 35   50    5 35  51
           

JR高野口駅 7:59発 JR橋本駅 8:13発 飛鳥駅 8:55着

壺阪山駅時刻表

橿原神宮前、古市、阿倍野橋方面 

   平日     休日 
    特急      特急 
13時代  20 53  7    20 53  7
14時代 21 53    7    20 53  6
15時代 20 54      21 54  6

吉野口、吉野方面

   平日     休日 
    特急      特急 
13時代  12 37  53   12 37   53
14時代 12 37   53   12 37  53
15時代 12 37    53   12 37   53 

壺阪山駅 14:37発 JR橋本駅 15:19着 JR高野口 15:36着
壺阪山駅 15:12発 JR橋本駅 16:43着 JR高野口 17:16着
壺阪山駅 15:37発 JR橋本駅 16:43着 JR高野口 17:16着




牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳は、奈良県明日香村にある国史跡である。
牽牛子塚(けんごしづか)古墳は、別名「あさがお塚」とも呼ばれ、江戸時代や明治時代の文献から墳丘が多角(八角)形をしており、「あさがお」の花びらに似ていることから名前の由来になったと考えられている。
7世紀後半の終末期古墳で、斉明天皇と娘の間人皇女の合葬墓と考えられている。→ 車木ケンノウ古墳(斉明天皇陵)

牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(おちのおか)(小市岡)は、高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が詠まれ、
隣接する真弓岡や今城谷には、天武天皇と持統天皇の檜隈(ひのくま)大内陵や吉備姫王の檜隈墓など大王(天皇)家の墓が残されている。

日本書紀の天智天皇六年(667)条に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」とその陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されている。
間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたる。
小市岡(越智岡)は、斉明天皇ゆかりの女性が眠る地である。

近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩15分。アグリステーション飛鳥に来訪者用の駐車場がある。





岩屋山古墳

史跡 岩屋山古墳は、奈良県明日香村にある。
岩屋山古墳は、7世紀代の一辺約15m、高さ約12mの方墳と推定されており、墳丘の西半分は現在失われている。
石室は南面に開口する横穴式石室で、花崗岩の切石を用いて構築されている。
石室の規模は全長16.7m、羨道は長さ12m、幅1.9mで、奥にある玄室は長さ4.72m、幅2.7mである。
羨道並びに玄室の内部に立ち入って見学できる。





吉備姫王墓 猿石

吉備姫王墓 猿石は、奈良県明日香村にある。
吉備姫王墓(きびひめみこのはか / きびつひめのおおきみのはか)は、宮内庁が管理しており、「敏達天皇皇孫茅淳王妃吉備姫王 檜隈墓(ひのくまのはか)」と称されている。
孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母にあたり、「日本書紀」によれば吉備姫王(吉備嶋皇祖母命(きびしまのすめみおやのみこと))は皇極天皇2年9月に亡くなり、檀弓岡(まゆみおか)に葬られたとある。
また、延喜式諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていることから、吉備姫王墓に治定されている。

墓域内には、元禄15年(1702)に欽明天皇陵の南側の字イケダの水田から掘り出された石造物4体があり、猿石と称されている。
4体とも高さ1メートルほどの花崗岩製である。
西に面して4体が南北に並べられており。北から順に「女」「山王権現」「法師(僧)」「男」と呼ばれており、法師(僧)以外の3体には裏面にも異形の顔が彫られている。
猿石の用途は不明で、造形についても伎楽の演者をあらわすという見解など諸説がある。
高取城跡にも猿石と呼ばれる石像があり、橘寺にある二面石も共通した特徴を持っている。
高取町観覚寺の光永寺にある人頭石(顔石)は、当地の猿石と同様に小字イケダ付近から出土したと見られている。
平安時代の今昔物語集には、この陵の堤に「石の鬼形」が立っていると記されており、猿石のことではないかといわれている。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩5分。





欽明天皇陵(梅山古墳)

欽明天皇陵(梅山古墳)は、奈良県明日香村にある。
明日香村では唯一の前方後円墳で、欽明天皇の檜隈坂合陵(ひいのくまさかあいのみささぎ)に治定されている。
全長約140m、後円部径72m、前方部107mで、墳丘は3段築盛で周濠を有している。
墳丘には、葺石があり、埴輪片も出土している。

日本書紀によると、欽明天皇は32年(571)4月に亡くなり、9月に檜隈坂合陵に埋葬された。欽明天皇の妃で推古天皇の母 堅塩媛(かたしひめ)を推古天皇20年(612)に合葬し、28年(620)10月には砂礫を檜隈陵の上に葺き、土を積みて山を成し、氏ごとに大柱を土の山の上に建てさせるという記事が見える。

当地の北側約500mのところにある橿原市の巨大前方後円墳 見瀬(五条野)丸山古墳(全長310m)が欽明天皇陵であり、梅山古墳の被葬者は、蘇我稲目であるとの説も出されている。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩10分。



カナヅカ古墳(欽明天皇檜隈坂合陵 培冢)

カナヅカ古墳(欽明天皇檜隈坂合陵 培冢)は、奈良県明日香村大字平田にある。
カナヅカ古墳は、平田岩屋古墳、カナ塚古墳とも呼ばれ、現在は宮内庁によって欽明天皇檜隈坂合陵 培冢(ばいちょう)に治定されている。
当地は、飛鳥の西の玄関口とでもいうべき場所にあり、西から欽明天皇陵(梅山古墳)、カナヅカ古墳、鬼ノ俎・雪隠古墳、天武持統天皇陵が、東西にほぼ一直線に並んでいる。
カナヅカ古墳は、江戸時代から梅山古墳の培冢として記されており、1854年の「聖蹟図志」には、「岩屋」と記した石室の入口が描かれており、開口していた。
明治時代に、石室が解体されかけたが、明治23年(1890)に奈良県議会議員 西内成郷氏が奈良県知事宛ての上申書を提出し、明治25年(1892)に宮内省が欽明天皇陵培冢に治定した。
平成7年(1995)度から範囲確認調査が実施された結果、石室の南側から石英閃緑岩を丁寧に加工した切石が検出された。一辺が約35m、二段築成の方墳で、南側に東西約60m、南北約25mのテラス面を有することが判明した。
被葬者については、延喜式の記録から、「吉備姫王檜隈墓」の可能性が指摘されている。
(西光慎治氏 欽明天皇檜隈坂合陵 培冢 カナヅカ古墳の覚書 参照)




下平田 犬養孝 万葉歌碑

下平田 犬養孝 万葉歌碑は、奈良県明日香村明日香周遊歩道下平田休憩園地にある。
歌碑には次のように記されている。
   作者不詳
佐檜乃熊
 檜隈川之
  瀬乎早
君之手取者
 将縁言毳
      孝書

歌碑手前にある解説には、次のように記されている。
佐檜の隈(さひのくま) 檜の隈川の 瀬を早み
 君が手取らば 言寄せむかも
           (巻七-一一〇九)
佐檜の隈の 檜隈川の渡り瀬の 流れが早いからと、
あなたの手を取って渡ったらば、人々が噂を立てるでしょうね。

「さ」は、接頭語で、「ひのくま」は、明日香村桧前、野口、平田など一帯の地をさす。
「ひのくまがわ」は、高取山中から流れ出て、明日香村桧前の地をほぼ近鉄線に沿って北流し、畝傍山の西を廻って曽我川に入る。

平成3年に、万葉学者の犬養孝が揮毫し、毎日放送、毎日新聞社、ウォーク万葉・ラジオウォーク参加者一同が歌碑を設置した。





鬼の雪隠 鬼の俎

鬼の雪隠 鬼の俎は、奈良県明日香村にある。
鬼の雪隠(せっちん)は、墳丘上を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の横口式石槨(石室)の一部である。
本来は花崗岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個の石を組み合わせたもので、鬼の雪隠はその蓋石にあたり、上方にある鬼の俎(底石)から横転してできた状態にある。
この周辺は霧ケ峰と呼ばれ、伝説では、鬼が住んでおり、通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、「俎(まないた)」で調理し、食後に「雪隠」で用を足したといわれている。

現在は、欽明天皇陵培冢として宮内庁が管理している。
この底石と蓋石を組み合わせて横口式石槨(石室)を復元したとすると、その内法は長さ2.75m、幅1.5m、高さ1.3mとなり、その長さと幅は唐尺のほぼ9尺と5尺となる。
石槨の内法が長さ9尺、幅5尺で計画されたものとすると、大化2年(646)3月に出されたいわゆる薄葬令に規制する「夫れ王より以上の墓は、内の長さ九尺、濶(ひろ)さ五尺」の墓に該当し、天武持統天皇陵(檜隈大内陵)との関連も想定されている。
近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩10分。





天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)

天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)は、奈良県明日香村野口にある。
野口集落の西方の丘陵上に位置する壮大な古墳で、野口大墓(のぐちおおはか)、青木御陵(あおきのみささぎ)とも呼ばれ、天武、持統両天皇を合葬した「檜隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)」に治定されている。
大内陵は持統天皇元年(686)10月、草壁皇子以下により築造され、翌2年11月11日天武天皇を葬り(日本書紀)、天皇として初めて火葬された持統天皇が大宝3年(703)12月26日合葬された。(続日本紀)

陵墓は文暦2年(1235)に盗掘され、その際の調査記録である「阿不幾乃山陵記(あお(ふ)きのさんりょうき)」や藤原定家の「明月記」に内部の状況が詳細に描かれている。
阿不幾乃山陵記によると、墳形は八角形で五段築成、周囲に石段がめぐらされている。→ 八角墳と天皇陵
切石積みの石室は、前室と奥室の二室で、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)(麻布と漆を塗り重ねた棺)と、持統天皇の金銅製骨蔵器(こつぞうき)が納められている。

古くは「王(皇)ノ墓」と呼ばれたこの古墳は、江戸時代から明治初期まで文武天皇の檜隈安古岡上(ひのくまのあこのおかのへ)陵とみなされることが多かった(天武持統合葬陵は現橿原市の「五条野丸山古墳」とされた)が、
明治13年(1880)に阿不幾乃山陵記が知られ、明治14年(1881)に治定の変更が行われた。
天皇陵古墳の中で被葬者がほぼ特定でき、築造実年代が確定できる数少ない古墳である。
なお、「五条野丸山古墳」は、奈良県最大の前方後円墳で、被葬者は欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙がっている。→ 丸山古墳

現在の墳丘は、南北約50m、東西約45m、高さ約9m、周囲約120mで八角形に近い形となっている。
また墳丘の位置は、藤原京の中軸である朱雀大路の延長線上にあり、計画的な墓地選定を指摘する説もある。

近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩15分。東南麓に駐車スペースがある。




史跡 中尾山古墳

史跡 中尾山古墳は、奈良県明日香村の国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区内にある。
中尾山古墳は、江戸時代に「中尾塚・中尾石墓」とも呼ばれた終末期古墳で、周辺には高松塚古墳や天武・持統天皇陵など多くの終末期古墳が点在している。

昭和45年以降令和2年度までに行われた測量や発掘調査により、墳丘は三段築盛で、その周囲をめぐる三重の外周石敷を有する八角墳であることが判明した。
墳丘は版築で築かれ、対辺長19.4m、高さ4m以上の規模である。
墳丘の一段目、二段目の表面は、ともに裾部に花崗岩の根石を並べ、その上に拳大から人頭大の石材を小口積にして、さらに上部に根石同様の石材を垂直に積み上げた基壇上の石積みとなっている。
墳丘の三段目は版築の盛土のみで八角形に整形されている。三段目の東側に鎌倉時代の盗掘孔がある。
外周石敷は墳丘の裾部から三重にめぐっており、外周石敷の対辺長は、三重目で約32.5mである。
墳丘周囲の石敷きから沓形の凝灰岩製の石造物が二点出土しており、形状等から墳頂に置かれていたと考えられている。 → 奈良県歴史文化資源データベース

埋葬施設は底石1石、側壁2石、奥壁1石、閉塞石1石、天井石1石、隅石(柱石)4石の合計10石の切石で構成された横口式石榔である。内法は幅及び奥行各90cmであった。
石榔壁面は非常に丁寧に磨かれており、前面に水銀朱が塗布されている。
床面の中央部は60cm四方、深さ1cmの範囲が凹状に削り込まれている。ここに火葬骨を納めた骨蔵器を安置する台があったと考えられている。
この骨蔵器は、現在失われているが、明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺(こんどうしかんこ)が本来中尾山古墳から出土したものではないかと推定されている。
この金銅製四鐶壺は、明治11年に古宮の水田で出土し、明治12年に御物となって、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所管となっている。

被葬者については、第42代天皇の文武天皇に比定する説が有力視されている。
文武天皇は慶雲4年(707)6月15日に25歳で崩御した。
墓所については、「続日本紀」では「檜隈安古山陵」と記載されている。
慶雲4年(707)10月3日に造山陵司を任じ、11月12日に遺骸を飛鳥岡で火葬、11月20日に陵に葬り奉ると記されている。
一方、「檜隈安古山陵」は、「延喜式」では「檜前安古岡上陵」と記載されている。
「檜隈安古岡上陵」と記された書物、文献が下記のように江戸時代から数多くあり、「中尾山古墳」「高松塚古墳」「栗原塚穴古墳」が該当の古墳と推定されている。
宮内庁は、栗原塚穴古墳を文武天皇陵として治定している。

古墳名  中尾山古墳   高松塚古墳 栗原塚穴古墳 
 文献等    並河 誠所(大和誌)  本居 宣長(菅笠日記)  谷森 善臣(山陵考)
 秋里 籬島(大和名所図会)?  秋里 籬島(大和名所図会)?  宮内庁治定 1881年
 津川 長道(卯花日記)  安政の修陵(大和帝陵図)  

令和6年(2024)1月開催の「高松塚壁画館 冬季企画展 中尾山古墳展」では、
令和2年の発掘調査により、
天皇陵として特徴的な八角墳であることや、埋葬施設が骨蔵器を納めた火葬墓と想定されることなどから、
中尾山古墳が「檜前安古岡上陵」 つまり文武天皇の真陵である可能性は高いと考えられる
としている。





特別史跡 高松塚古墳

特別史跡 高松塚古墳は、奈良県明日香村にある。
高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初め頃に造られた古墳である。
昭和47年(1972)の発掘調査で石室内に描かれた壁画が発見された。
墳丘の内部には、16枚の凝灰岩の切石を箱型に組んだ石室(内部の奥行265.5cm、幅103.4cm、高さ113.5cm)があり、
その内面に漆喰を下地として、壁に色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武、日・月像、天井に星宿が描かれていた。
こうした壁画古墳は、日本では高松塚古墳とキトラ古墳しか知られていない。
石室は中世に盗掘されていたが、太刀の飾金具や銅鏡、ガラス玉などの副葬品の一部と、漆塗り木棺の破片などが出土している。

壁画の発見後、石室南側に保存修理のための施設を建設し保存対策を行ったが、壁画の劣化を止められず、平成17年に石室ごと取り出して修理することを決定した。
平成19年に石室を墳丘から取り出し、約500メートル離れた仮設修理施設で修理作業が進められた。
現在の高松塚古墳は、発掘調査の成果をもとに、築造当時の姿(下段部直径23m、上段部直径18mの2段築成の円墳)に復元したものである。
古墳西側には高松塚壁画館があり、再現された彩色壁画が展示されている。
近鉄飛鳥駅下車、徒歩15分。




高松塚壁画館

高松塚壁画館は、奈良県明日香村にある。
昭和47年(1972)3月、橿原考古学研究所の調査により、高松塚古墳の壁画が発見された。
その後、壁画は国宝に指定され、一般に公開されないため、古墳の隣接地に壁画館を建設し、石槨内部の模型と壁画の忠実な模写、模型を展示することになったものである。
高松塚古墳保存の記念郵便切手の寄付金などで建設され、昭和52年(1977)に開館した。
模写は発掘当初の壁画を原寸原色で再現した「現状模写」と、汚れや剥落で欠けていた部分を顕微鏡や赤外線写真をもとに復元した「一部復元模写」などがある。
また、石室模型は南壁の盗掘口から覗くように作られており、発掘時の臨場感が体験できる。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩5分。






文武天皇陵

文武天皇陵は、奈良県明日香村大字栗原字塚穴にある。
高松塚古墳の南東約200mの同じ丘陵上にあり、塚穴古墳とも呼ばれる。
元禄年間から明治初期にかけては高松塚もしくは王ノ墓(現在の天武持統天皇陵)を文武天皇陵とする考えが多かった。
明治14年(1881)に「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえりょう)」として、文武天皇陵に治定された。

文武天皇は慶雲4年(707)11月12日、飛鳥岡で火葬され、20日に檜隈安古山陵に葬られた。(続日本紀)
延喜式「諸陵寮」には「檜前安占(やすうら)岡上陵」の項に「藤原宮御宇文武天皇、在大和国高市郡、兆域東西三町、南北三町陵戸五烟」と記されている。

高松塚古墳の北に位置する中尾山古墳は、八角形の墳丘に火葬骨を納める丁重な石槨が作られていたことが明らかとなり、中尾山古墳を安古岡上陵とする説が有力となっている。




於美阿志神社 桧隈寺跡

於美阿志神社 桧隈寺跡は、奈良県明日香村にある。
桧隈は、百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住したと伝えられ、於美阿志(あみあし)神社はその阿智使主を祭神とする。
桧隈寺跡は、当神社の境内にあり、塔、講堂と推定される建物跡を残す。
「日本書紀」天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の寺名がみえ、寺跡からは、7世紀末の瓦が出土している。
現在塔跡にある十三重石塔は上層の一部を欠いているが重要文化財に指定されている。




特別史跡 キトラ古墳

特別史跡 キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村阿部山にある。

キトラ古墳は、7世紀末から8世紀初め頃に造られた古墳で、丘陵の南側斜面に位置している。
墳丘は二段築成の円墳で、発掘調査の成果などから、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mと推定されている。
内部には二上山産凝灰岩の切石を18枚組み合わせて作られた石室がある。
石室内部は奥行2.40m、幅1.04m、高さ1.24mの大きさで、鎌倉時代に盗掘を受けているが、刀装身具、琥珀玉などの副葬品の一部と、木棺片や棺の飾金具、人骨などが出土している。

昭和58年に行ったファイバースコープによる石室内部の探査で、北壁に玄武が描かれていることが分かり、高松塚古墳に次ぐ我が国で二例目の大陸的な壁画古墳であることが明かとなった。
石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画がある。四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)は天の四方を司る神獣で、四周の壁面に対応する方位に合わせて描かれている。
日本で四神の図像全てが揃う古墳壁画は、キトラ古墳壁画のみである。

四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれており、現在、子、丑、寅、午、戌、亥の6体が確認されている。
屋根形の刳り込みのある天井には、東の斜面に金箔で太陽が、西の斜面に銀箔で月が表されている。
天井の平坦面の部分には円形の中国式の天文図が描かれている。
渡部潤一氏「古代文明と星空の謎」によると、描かれている星座は奈良のものではなく、古墳造営から200年以上前に西安や洛陽で観測されたものだという。
この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例である。

キトラ古墳は、平成12年に特別史跡に指定され、令和元年に壁画が国宝に指定されている。
キトラ古墳壁画体験棺 四神の館で、壁画が公開されており、古墳についての展示がある。
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩15分。来館者用の駐車場がある。





子嶋山子嶋寺

子嶋山子嶋寺は、奈良県高市郡高取町観音寺にある真言宗御室派の寺院である。
本尊は大日如来を祀っている。
当初は、子嶋山(こじまやま)寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿(せんじゅ)院と称した。

創建については諸説あるが、寺伝によると孝謙・桓武天皇の病を癒した報恩大徳により、天平勝宝4年(752)に開かれたという。
延暦14年(795)報恩大徳を継いだ2世延鎮(えんちん)は、山城国(京都)東山の霊場で修行中に坂上田村麻呂と出会い、後に二人で東山に清水寺を建立したことが「扶桑略記」に記されており、当時は清水寺が当寺の支坊であった。
永観年間(983-985)に当寺中興の祖とされる真興(しんごう)(935-1004)が来山し、境内に観覚寺という子院を営んだ。
真興は藤原道長が帰依した人物で、もと法相宗の興福寺の僧であったが、のちに吉野の仁賀(にんが)から密教を学んで伝法灌頂を受けており、真興以来、子嶋寺は真言宗子島流の拠点として栄えた。
南北朝時代に兵火を受け堂宇が失われてから、子院の観覚寺を子島山観覚寺と号した。
室町末期には、戦乱で衰退したが、天正年間(1573-92)に高取城主 本多利久が再興した。
江戸時代には、興福寺一乗院の支配下に入り、寛永年間(1624-44)に本堂以下諸堂が再建され、高取城主植村家の祈願所となり、寺号を子嶋山千寿院と改めた。
明治維新後、廃仏毀釈で衰退したが、有志の尽力で庫裏が再建され、明治36年(1903)に旧名の子嶋寺に戻った。

境内には、嘉永年間(1846-54)再建の本堂、高取城二の門が移築された山門などがある。。
寺宝として、子島曼荼羅の名で有名な「紺彩地金銀泥絵(こんあやじきんぎんでいえ)両界曼荼羅図」2幅(国宝、奈良国立博物館寄託)を有する。
両界曼荼羅は、中興の祖 真興が一条天皇の病を平癒させた功績により下賜されたといわれるもので、東寺、神護寺と共に日本三大曼陀羅の一つとして知られており、当寺には4分の一の大きさの複製銅板(レプリカ)がある。
また、平安時代前期の木造十一面観音立像(国重要文化財、東京国立博物館寄託)も寺宝として知られる。

謡曲「田村」の発祥の地として知られている。
田村は、清水寺の縁起に関する謡曲で、後場で清水寺門前の男が、つぎのように語る。
  そもそも当寺清水寺と申すは、大同2年の御草創、坂の上の田村丸の御願也、
  昔大和国小島寺という所に、賢心といへる沙門、生身の観世音を拝まんと誓いしに、(後略)

近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩10分。境内東側約50mに参拝者用駐車場がある。




八角墳と飛鳥時代後半の天皇陵

八角墳は、飛鳥時代の後半において、天皇陵として造営された。
舒明天皇から文武天皇に至る歴代天皇(孝徳天皇を除く)に採用された。

時代  天皇名   八角墳 備考 
 


代 
 33代 推古天皇    蘇我系(方墳)
   34代 舒明天皇  〇  
   35代 皇極天皇  〇  斉明天皇(重祚)
   36代 孝徳天皇    
   37代 斉明天皇  〇  牽牛子塚古墳
   38代 天智天皇  〇  天智天皇山科陵
   39代 弘文天皇    大友皇子
   40代 天武天皇  〇  天武・持統天皇陵
 (檜隈大内陵)
 
   41代 持統天皇  〇
   42代 文武天皇  〇  中尾山古墳



代 
 43代 元明天皇    
   44代 元正天皇    
   45代 聖武天皇    
   46代 孝謙天皇    

(令和6年(2024) 高松塚壁画館 冬季企画展 中尾山古墳展 参照)



(なら記紀・万葉名所図会-壬申の乱編-2022年 参照)



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