飛鳥古墳めぐり
午前9時10分 飛鳥駅前集合
飛鳥駅前発 牽牛子塚古墳 岩屋山古墳 猿石 欽明天皇陵 カネヅカ古墳 鬼の雪隠 俎 天武持統天皇陵 中尾山古墳
高松塚壁画館 高松塚古墳 檜隈寺前休憩所 於美阿志神社 桧隈寺跡 キトラ古墳 (子嶋寺) 壷阪山駅着
距離の目安 約10km
昼食場所 檜隈寺前休憩所
飛鳥駅時刻表
橿原神宮前、古市、阿倍野橋方面
平日 | 休日 | ||||
特急 | 特急 | ||||
8時台 | 17 28 56 | 5 39 | 25 56 | 9 40 | |
9時台 | 26 58 | 10 | 26 57 | 10 | |
壺阪山、吉野方面
平日 | 休日 | ||||
特急 | 特急 | ||||
8時台 | 5 34 | 50 | 4 34 | 20 50 | |
9時台 | 5 35 | 50 | 5 35 | 51 | |
JR高野口駅 7:59発 JR橋本駅8:13発 8:42着吉野口駅8:45発 飛鳥駅 8:55着
(古市経由)
南海紀見峠駅 7:50発 南海河内長野駅 8:04着 近鉄河内長野駅 8:18発 古市駅 8:38発 飛鳥駅9:04着
(大阪阿部野橋経由)
大阪阿部野橋駅 8:20発 飛鳥駅 9:04着
壺阪山駅時刻表
橿原神宮前、古市、阿部野橋方面
平日 | 休日 | ||||
特急 | 特急 | ||||
13時台 | 20 53 | 7 | 20 53 | 7 | |
14時台 | 21 53 | 7 | 20 53 | 6 | |
15時台 | 20 54 | 21 54 | 6 |
吉野口、吉野方面
平日 | 休日 | ||||
特急 | 特急 | ||||
13時台 | 12 37 | 53 | 12 37 | 53 | |
14時台 | 12 37 | 53 | 12 37 | 53 | |
15時台 | 12 37 | 53 | 12 37 | 53 |
(吉野口経由)
壺阪山駅 14:37発 JR橋本駅 15:19着 JR高野口 15:36着
壺阪山駅 15:12発 JR橋本駅 16:43着 JR高野口 17:16着
壺阪山駅 15:37発 JR橋本駅 16:43着 JR高野口 17:16着
(古市経由)
壺阪山駅 14:20発 古市駅 14:53着 河内長野駅 15:13着 紀見峠駅 15:32着
壺阪山駅 15:21発 古市駅 15:52着 河内長野駅 16:13着 紀見峠駅 16:32着
壺阪山駅 15:54発 古市駅 16:22着 河内長野駅 16:43着 紀見峠駅 17:06着
(大阪方面)
壺阪山駅 14:20発 大阪阿部野橋駅着 15:12着
壺阪山駅 15:06発特急 大阪阿部野橋駅 15:51着
壺阪山駅 14:53発 大阪阿部野橋駅着 15:42着
壺阪山駅 15:21発 大阪阿部野橋駅着 16:12着
壺阪山駅 15:54発 大阪阿部野橋駅着 16:42着
牽牛子塚古墳は、奈良県明日香村にある国史跡である。
牽牛子塚(けんごしづか)古墳は、江戸時代にケンゴウシ又は御前塚と呼ばれていた。ケンゴウシは漢字で牽牛子と書き、アサガオを指す。
朝顔は、ヒルガオ科の一年生蔓草で、中国南西部やヒマラヤ山麓が原産地といわれる。
中国では、宋の時代からこの種子を薬用に供し、だいじな牛を牽いて薬草の朝顔にかえた故事から牽牛子(子は実のこと)・牽牛花の名が起こった。
日本へは、千二百年前、遣唐使が薬用として持ち帰ったのが最初で、粉末にして緩下薬、峻下剤として用いた。
平成21年度の調査では、牽牛子塚古墳が二上山の凝灰岩を使用した八角墳であることが明かとなった。→ 八角墳と天皇陵
そして平成22年度の調査で、牽牛子塚古墳の南東から石英閃緑岩を使用した刳り貫き式横口式石槨が検出され、越塚御門古墳と命名された。
これらの発掘調査の結果から、牽牛子塚古墳は、7世紀後半の終末期古墳で、斉明天皇と娘の間人皇女の合葬墓と考えられている。→ 車木ケンノウ古墳(斉明天皇陵)
牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の所在する越智岡(おちのおか)(小市岡)は、高取川の左岸にあり、古く万葉歌に「越智野」が詠まれ、
隣接する真弓岡や今城谷には、天武天皇と持統天皇の檜隈(ひのくま)大内陵や吉備姫王の檜隈墓など大王(天皇)家の墓が残されている。→ 天武・持統天皇陵 吉備姫王墓 カナヅカ古墳
日本書紀の天智天皇六年(667)条に斉明天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬した「小市岡上陵(おちのおかのえのみささぎ)」とその陵の前に「大田皇女」が葬られたことが記されている。
間人皇女は、斉明天皇の娘で孝徳天皇の后、そして大田皇女は斉明天皇の孫で天智天皇の娘にあたる。
小市岡(越智岡)は、斉明天皇ゆかりの女性が眠る地と紹介されている。
なお、益田岩船、石の宝殿について、牽牛子塚古墳の横口式石槨との関連が指摘されている。
猪熊兼勝氏は、「飛鳥の古墳を語る(平成6年刊)」において、
「益田岩船、石宝殿は斉明陵として墓室を造る途中、予期しなかった亀裂が生じ、未完成として残った石塊である」
としている。
益田岩船については、上記の猪熊氏の著書に、亀裂についての説明がされている。
石の宝殿については、日本書紀の天智天皇6年2月条に、「石槨の役(いわきのえだち)(横口式石槨の墳墓の造営)を起さしめず」と記されていることから、
万民のために造営を中止したものであるとの説がある。
→ 近畿文化会 臨地講座 益田岩船(後編) 牽牛子塚古墳を解説 石の宝殿の正体 石の宝殿及び竜山石採石遺跡
近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩15分。アグリステーション飛鳥に来訪者用の駐車場がある。
史跡 岩屋山古墳は、奈良県明日香村にある。
明治時代にはウィリアムゴーランドが訪れ、
「最も素晴らしい驚嘆するような切り出し石の巨石構造の例は、舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で、日本中のどれ一つとして及ばない。」
と評価している。
昭和53年(1978)度に環境整備事業に伴う発掘調査が実施された。
墳丘は7世紀前半から中頃の造営で、二段築成の方墳(一辺約15m、高さ約12m)であると推定されており、墳丘の西半分は現在失われている。
石室は南面に開口する花崗岩の切石積みの横穴式石室で、石室の規模は全長16.7m、羨道は長さ12m、幅1.9mで、奥にある玄室は長さ4.72m、幅2.7mである。
羨道並びに玄室の内部に立ち入って見学できる。
被葬者については、舒明天皇や斉明天皇の初葬墓とする説や、吉備姫王の墓とする説などがある。
→ 「岩屋山古墳を解説」
吉備姫王墓 猿石は、奈良県明日香村にある。
吉備姫王墓(きびひめみこのはか / きびつひめのおおきみのはか)は、宮内庁が管理しており、「敏達天皇皇孫茅淳王妃吉備姫王 檜隈墓(ひのくまのはか)」と称されている。
孝徳天皇と皇極(斉明)天皇の生母にあたり、「日本書紀」によれば吉備姫王(吉備嶋皇祖母命(きびしまのすめみおやのみこと))は皇極天皇2年9月に亡くなり、檀弓岡(まゆみおか)に葬られたとある。
また、延喜式諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていることから、吉備姫王墓に治定されている。
墓域内には、元禄15年(1702)に欽明天皇陵の南側の字イケダの水田から掘り出された石造物4体があり、猿石と称されている。
4体とも高さ1メートルほどの花崗岩製である。
西に面して4体が南北に並べられており。北から順に「女」「山王権現」「法師(僧)」「男」と呼ばれており、法師(僧)以外の3体には裏面にも異形の顔が彫られている。
猿石の用途は不明で、造形についても伎楽の演者をあらわすという見解など諸説がある。
高取城跡にも猿石と呼ばれる石像があり、橘寺にある二面石も共通した特徴を持っている。
高取町観覚寺の光永寺にある人頭石(顔石)は、当地の猿石と同様に小字イケダ付近から出土したと見られている。
平安時代の今昔物語集には、この陵の堤に「石の鬼形」が立っていると記されており、猿石のことではないかといわれている。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩5分。
欽明天皇陵(梅山古墳)は、奈良県明日香村にある。
欽明天皇(510-571)は、第29代に数えられる天皇である。
継体天皇と手白香(たしらか)皇后の嫡子で、異母兄の宣化天皇の死後、539年に即位し、大和の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)で、宣化天皇の女の石姫を皇后として敏達天皇が生まれ、蘇我稲目の堅塩媛(きたしひめ/かたしひめ)を妃として、用明、推古両天皇、その同母妹の小姉君(おあねぎみ)を妃として崇峻天皇が生まれた。
即位の事情については、継体天皇の死の直前、もしくは直後に即位し、安閑、宣化両天皇の「王朝」と並立したとの説もある。
梅山古墳は、明日香村では唯一の前方後円墳で、欽明天皇の檜隈坂合陵(ひのくまさかあいのみささぎ)に治定されている。
全長約140m、後円部径72m、前方部107mで、墳丘は3段築成で周濠を有している。
墳丘には、葺石があり、埴輪片も出土している。
日本書紀によると、欽明天皇は32年(571)4月に亡くなり、9月に檜隈坂合陵に埋葬された。欽明天皇の妃で推古天皇の母 堅塩媛(きたしひめ/かたしひめ)を推古天皇20年(612)に合葬し、28年(620)10月には砂礫を檜隈陵の上に葺き、土を積みて山を成し、氏ごとに大柱を土の山の上に建てさせるという記事が見える。
当地の北側約500mのところにある橿原市の巨大前方後円墳 見瀬(五条野)丸山古墳(全長310m)が欽明天皇陵であり、梅山古墳の被葬者は、蘇我稲目であるとの説も出されている。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩10分。
カナヅカ古墳(欽明天皇檜隈坂合陵 培冢)は、奈良県明日香村大字平田にある。
カナヅカ古墳は、平田岩屋古墳、カナ塚古墳とも呼ばれ、現在は宮内庁によって欽明天皇檜隈坂合陵 培冢(ばいちょう)に治定されている。
当地は、飛鳥の西の玄関口とでもいうべき場所にあり、西から欽明天皇陵(梅山古墳)、カナヅカ古墳、鬼ノ俎・雪隠古墳、天武持統天皇陵が、東西にほぼ一直線に並んでいる。
カナヅカ古墳は、江戸時代から梅山古墳の培冢として記されており、1854年の「聖蹟図志」には、「岩屋」と記した石室の入口が描かれており、開口していた。
明治時代に、石室が解体されかけたが、明治23年(1890)に奈良県議会議員 西内成郷氏が奈良県知事宛ての上申書を提出し、明治25年(1892)に宮内省が欽明天皇陵培冢に治定した。
平成7年(1995)度から範囲確認調査が実施された結果、石室の南側から石英閃緑岩を丁寧に加工した切石が検出された。一辺が約35m、二段築成の方墳で、南側に東西約60m、南北約25mのテラス面を有することが判明した。
被葬者については、延喜式の記録から、「吉備姫王檜隈墓」の可能性が指摘されている。
(西光慎治氏 欽明天皇檜隈坂合陵 培冢 カナヅカ古墳の覚書 参照)
下平田 犬養孝 万葉歌碑
下平田 犬養孝 万葉歌碑は、奈良県明日香村明日香周遊歩道下平田休憩園地にある。
歌碑には次のように記されている。
作者不詳
佐檜乃熊
檜隈川之
瀬乎早
君之手取者
将縁言毳
孝書
歌碑手前にある解説には、次のように記されている。
佐檜の隈(さひのくま) 檜の隈川の 瀬を早み
君が手取らば 言寄せむかも
(巻七-一一〇九)
佐檜の隈の 檜隈川の渡り瀬の 流れが早いからと、
あなたの手を取って渡ったらば、人々が噂を立てるでしょうね。
「さ」は、接頭語で、「ひのくま」は、明日香村桧前、野口、平田など一帯の地をさす。
「ひのくまがわ」は、高取山中から流れ出て、明日香村桧前の地をほぼ近鉄線に沿って北流し、畝傍山の西を廻って曽我川に入る。
平成3年に、万葉学者の犬養孝が揮毫し、毎日放送、毎日新聞社、ウォーク万葉・ラジオウォーク参加者一同が歌碑を設置した。
犬養氏揮毫の万葉歌碑は、全国に141基あり、その内15基が明日香村にあるという。
犬養孝氏の最初の万葉歌碑は昭和42年に甘樫丘に建立された。
釆女の 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く 志貴皇子 巻1-51
(大意)釆女の袖を吹き返した明日香風は、都が遠くなったので、ただ空しく吹いている
鬼の雪隠 鬼の俎は、奈良県明日香村にある。
鬼の雪隠(せっちん)は、墳丘上を失った終末期古墳(7世紀後半・飛鳥時代)の横口式石槨(石室)の一部である。
本来は花崗岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個の石を組み合わせたもので、鬼の雪隠はその蓋石にあたり、上方にある鬼の俎(底石)から横転してできた状態にある。
この周辺は霧ケ峰と呼ばれ、伝説では、鬼が住んでおり、通行人に霧を降らせ迷ったところをとらえて、「俎(まないた)」で調理し、食後に「雪隠」で用を足したといわれている。
現在は、欽明天皇陵培冢として宮内庁が管理している。
この底石と蓋石を組み合わせて横口式石槨(石室)を復元したとすると、その内法は長さ2.75m、幅1.5m、高さ1.3mとなり、その長さと幅は唐尺のほぼ9尺と5尺となる。
石槨の内法が長さ9尺、幅5尺で計画されたものとすると、大化2年(646)3月に出されたいわゆる薄葬令に規制する「夫れ王より以上の墓は、内の長さ九尺、濶(ひろ)さ五尺」の墓に該当する。
明治10年(1877)頃に俎の東方約9mの位置から、もう一つの俎が発見された。分割されて村内の邸宅の庭石になっていたが、現在は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の前庭で展示されている。
墳丘は完全に削平されているが、地籍図の検討から本来は一つの墳丘に二つの石槨がおさめられた長方墳(東西約41m)と考えられている。
日本書紀には、建王(たけるのみこ)が亡くなった際、祖母である斉明天皇が嘆き悲しみ、「要(かなら)ず朕(わ)が陵に合せ葬れ」と遺言した記述があり、鬼ノ俎・雪隠古墳は「建王と斉明天皇の初葬墓」とする説もある。
近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩10分。
天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)は、奈良県明日香村野口にある。
野口集落の西方の丘陵上に位置する壮大な古墳で、野口大墓(のぐちおおはか)、青木御陵(あおきのみささぎ)とも呼ばれ、天武、持統両天皇を合葬した「檜隈大内陵(ひのくまおおうちのみささぎ)」に治定されている。
大内陵は持統天皇元年(686)10月、草壁皇子以下により築造され、翌2年11月11日天武天皇を葬り(日本書紀)、天皇として初めて火葬された持統天皇が大宝3年(703)12月26日合葬された。(続日本紀)
陵墓は文暦2年(1235)に盗掘され、その際の調査記録である「阿不幾乃山陵記(あお(ふ)きのさんりょうき)」や藤原定家の「明月記」に内部の状況が詳細に描かれている。
阿不幾乃山陵記によると、墳形は八角形で五段築成、周囲に石段がめぐらされている。→ 八角墳と天皇陵
切石積みの石室は、前室と奥室の二室で、天武天皇の夾紵棺(きょうちょかん)(麻布と漆を塗り重ねた棺)と、持統天皇の金銅製骨蔵器(こつぞうき)が納められている。
古くは「王(皇)ノ墓」と呼ばれたこの古墳は、江戸時代から明治初期まで文武天皇の檜隈安古岡上(ひのくまのあこのおかのへ)陵とみなされることが多かった(天武持統合葬陵は現橿原市の「五条野丸山古墳」とされた)が、
明治13年(1880)に阿不幾乃山陵記が知られ、明治14年(1881)に治定の変更が行われた。
天皇陵古墳の中で被葬者がほぼ特定でき、築造実年代が確定できる数少ない古墳である。
なお、「五条野丸山古墳」は、奈良県最大の前方後円墳で、被葬者は欽明天皇や蘇我稲目などの名前が候補として挙がっている。→ 丸山古墳
現在の墳丘は、南北約50m、東西約45m、高さ約9m、周囲約120mで八角形に近い形となっている。
また墳丘の位置は、藤原京の中軸である朱雀大路の延長線上にあり、計画的な墓地選定を指摘する説もある。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩15分。東南麓に駐車スペースがある。
史跡 中尾山古墳は、奈良県明日香村の国営飛鳥歴史公園高松塚周辺地区内にある。
中尾山古墳は、江戸時代に「中尾塚・中尾石墓」とも呼ばれた終末期古墳で、周辺には高松塚古墳や天武・持統天皇陵など多くの終末期古墳が点在している。
昭和45年以降令和2年度までに行われた測量や発掘調査により、墳丘は三段築成で、その周囲をめぐる三重の外周石敷を有する八角墳であることが判明した。
墳丘は版築で築かれ、対辺長19.4m、高さ4m以上の規模である。
墳丘の一段目、二段目の表面は、ともに裾部に花崗岩の根石を並べ、その上に拳大から人頭大の石材を小口積にして、さらに上部に根石同様の石材を垂直に積み上げた基壇上の石積みとなっている。
墳丘の三段目は版築の盛土のみで八角形に整形されている。三段目の東側に鎌倉時代の盗掘孔がある。
外周石敷は墳丘の裾部から三重にめぐっており、外周石敷の対辺長は、三重目で約32.5mである。
墳丘周囲の石敷きから沓形の凝灰岩製の石造物が二点出土しており、形状等から墳頂に置かれていたと考えられている。 → 奈良県歴史文化資源データベース
埋葬施設は底石1石、側壁2石、奥壁1石、閉塞石1石、天井石1石、隅石(柱石)4石の合計10石の切石で構成された横口式石榔である。内法は幅及び奥行各90cmであった。
石榔壁面は非常に丁寧に磨かれており、前面に水銀朱が塗布されている。
床面の中央部は60cm四方、深さ1cmの範囲が凹状に削り込まれている。ここに火葬骨を納めた骨蔵器を安置する台があったと考えられている。
この骨蔵器は、現在失われているが、明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺(こんどうしかんこ)が本来中尾山古墳から出土したものではないかと推定されている。
この金銅製四鐶壺は、明治11年に古宮の水田で出土し、明治12年に御物となって、現在は宮内庁三の丸尚蔵館所管となっている。
被葬者については、第42代天皇の文武天皇に比定する説が有力視されている。
文武天皇は慶雲4年(707)6月15日に25歳で崩御した。
墓所については、「続日本紀」では「檜隈安古山陵」と記載されている。
慶雲4年(707)10月3日に造山陵司を任じ、11月12日に遺骸を飛鳥岡で火葬、11月20日に陵に葬り奉ると記されている。
一方、「檜隈安古山陵」は、「延喜式」では「檜前安古岡上陵」と記載されている。
「檜隈安古岡上陵」と記された書物、文献が下記のように江戸時代から数多くあり、「中尾山古墳」「高松塚古墳」「栗原塚穴古墳」が該当の古墳と推定されている。
宮内庁は、栗原塚穴古墳を文武天皇陵として治定している。
古墳名 | 中尾山古墳 | 高松塚古墳 | 栗原塚穴古墳 |
文献等 | 並河 誠所(大和誌) | 本居 宣長(菅笠日記) | 谷森 善臣(山陵考) |
秋里 籬島(大和名所図会)? | 秋里 籬島(大和名所図会)? | 宮内庁治定 1881年 | |
津川 長道(卯花日記) | 安政の修陵(大和帝陵図) |
令和6年(2024)1月開催の「高松塚壁画館 冬季企画展 中尾山古墳展」では、
令和2年の発掘調査により、
天皇陵として特徴的な八角墳であることや、埋葬施設が骨蔵器を納めた火葬墓と想定されることなどから、
中尾山古墳が「檜前安古岡上陵」 つまり文武天皇の真陵である可能性は高いと考えられる
としている。
→ 飛鳥古代史チャンネル
特別史跡 高松塚古墳は、奈良県明日香村にある。
高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初め頃に造られた古墳である。
昭和47年(1972)の発掘調査で石室内に描かれた壁画が発見された。
墳丘の内部には、16枚の凝灰岩の切石を箱型に組んだ石室(内部の奥行265.5cm、幅103.4cm、高さ113.5cm)があり、
その内面に漆喰を下地として、壁に色鮮やかな男女群像や青龍、白虎、玄武、日・月像、天井に星宿が描かれていた。
こうした壁画古墳は、日本では高松塚古墳とキトラ古墳しか知られていない。
石室は中世に盗掘されていたが、太刀の飾金具や銅鏡、ガラス玉などの副葬品の一部と、漆塗り木棺の破片などが出土している。
壁画の発見後、石室南側に保存修理のための施設を建設し保存対策を行ったが、壁画の劣化を止められず、平成17年に石室ごと取り出して修理することを決定した。
平成19年に石室を墳丘から取り出し、約500メートル離れた仮設修理施設で修理作業が進められた。
現在の高松塚古墳は、発掘調査の成果をもとに、築造当時の姿(下段部直径23m、上段部直径18mの2段築成の円墳)に復元したものである。
古墳西側には高松塚壁画館があり、再現された彩色壁画が展示されている。
近鉄飛鳥駅下車、徒歩15分。
高松塚壁画館は、奈良県明日香村にある。
昭和47年(1972)3月、橿原考古学研究所の調査により、高松塚古墳の壁画が発見された。
古墳壁画を描いた人物については、持統天皇や文武天皇の葬送にも関与した黄書本実(きぶのみほんじつ)が最有力の候補である。
山城国を拠点とする絵師の一族出身で、唐で絵を学び、仏足石の絵を日本に伝えたことが知られている。
高松塚古墳壁画は国宝に指定され、古墳の隣接地に壁画館を建設し、石槨内部の模型と壁画の忠実な模写、模型を展示することになったものである。
高松塚古墳保存の記念郵便切手の寄付金などで建設され、昭和52年(1977)に開館した。
模写は発掘当初の壁画を原寸原色で再現した「現状模写」と、汚れや剥落で欠けていた部分を顕微鏡や赤外線写真をもとに復元した「一部復元模写」などがある。
また、石室模型は南壁の盗掘口から覗くように作られており、発掘時の臨場感が体験できる。
近鉄吉野線飛鳥駅下車、徒歩15分。
文武天皇陵は、奈良県明日香村大字栗原字塚穴にある。
高松塚古墳の南東約200mの同じ丘陵上にあり、栗原塚穴古墳、ジョウセン塚古墳とも呼ばれる。
元禄年間から明治初期にかけては高松塚もしくは王ノ墓(現在の天武持統天皇陵)を文武天皇陵とする考えが多かった。
明治14年(1881)に「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえりょう)」として、文武天皇陵に治定された。
文武天皇は慶雲4年(707)11月12日、飛鳥岡で火葬され、20日に檜隈安古山陵に葬られた。(続日本紀)
延喜式「諸陵寮」には「檜前安占(やすうら)岡上陵」の項に「藤原宮御宇文武天皇、在大和国高市郡、兆域東西三町、南北三町陵戸五烟」と記されている。
高松塚古墳の北に位置する中尾山古墳は、八角形の墳丘に火葬骨を納める丁重な石槨が作られていたことが明かとなり、中尾山古墳を安古岡上陵とする説が有力となっている。
於美阿志神社 桧隈寺跡は、奈良県明日香村大字檜前にある。
桧隈は、百済から渡来した阿知使主(あちのおみ)が居住したと伝えられる。
神社名の「於美阿志(おみあし)」の由来は、「阿志(阿知)」が氏族名で、「於美」とは「使主(おみ)」のことで、渡来人にたいする一種の尊称、姓として用いられたもので、朝鮮語の「オム」(親とか、首長という意味)であるという。
祭神の阿智使主(阿智王)は、後漢霊帝の曽孫で、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖として知られる。
日本書紀の応神天皇二十年九月の条には、
「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖、阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主(つがのおみ)、並に己が党類(ともがら)十七県(こおり)を率いて、来帰(もうけ)り」
と記されている。
「五郡神社記」には、於美阿志神社は磐橋(いわはし)神社と称されたとあり、近世、社地は宣化天皇檜隈廬入野宮(ひのくまのいほりのみや)跡とされ、神宮寺として桧隈寺の系統をひくという道興寺(どうこうじ)があった。
桧隈寺跡は、於美阿志神社の境内にある。
「日本書紀」天武天皇朱鳥元年(686)八月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺、各封百戸、限卅年」と記されており、
軽寺(橿原市軽)、大窪寺(橿原市大久保)とともに三十年に限って百戸が封じられていた。
天武天皇の病気平癒のためと推測されている。
跡地には、金堂跡、中門跡、塔跡、講堂跡、回廊跡と推定される遺構があり、礎石が遺されている。
伽藍は西を正面とし、塔を中心に右(南側)に金堂、左(北側)に講堂があり、金堂、講堂は塔側を正面とする特異な配置となっている。
現在跡地には、於美阿志神社石塔婆があり、明治42年に国の重要文化財に指定されている。
平安時代後期に造立されたと考えられており、もと桧隈寺塔跡の心礎の上にあったが、昭和44年の解体保存修理で積み直され、心礎は移動して保存されている。
もとは、十三重石塔であったが、上の二重と相輪は失われている。凝灰岩製で、現在の高さは4.3m。
解体修理に際し、地下から旧塔心礎と石塔の埋納物(ガラス製小壺、青白磁合子、蓋付須恵器四耳壺)が発見され、埋納物も国の重要文化財に指定されて、現在は奈良国立博物館に収蔵されている。
特別史跡 キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村阿部山にある。
キトラ古墳は、7世紀末から8世紀初め頃に造られた古墳で、丘陵の南側斜面に位置している。
墳丘は二段築成の円墳で、発掘調査の成果などから、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mと推定されている。
内部には二上山産凝灰岩の切石を18枚組み合わせて作られた石室がある。
石室内部は奥行2.40m、幅1.04m、高さ1.24mの大きさで、鎌倉時代に盗掘を受けているが、刀装身具、琥珀玉などの副葬品の一部と、木棺片や棺の飾金具、人骨などが出土している。
昭和58年に行ったファイバースコープによる石室内部の探査で、北壁に玄武が描かれていることが分かり、高松塚古墳に次ぐ我が国で二例目の大陸的な壁画古墳であることが明かとなった。
石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画がある。四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)は天の四方を司る神獣で、四周の壁面に対応する方位に合わせて描かれている。
日本で四神の図像全てが揃う古墳壁画は、キトラ古墳壁画のみである。
四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれており、現在、子、丑、寅、午、戌、亥の6体が確認されている。
屋根形の刳り込みのある天井には、東の斜面に金箔で太陽が、西の斜面に銀箔で月が表されている。
天井の平坦面の部分には円形の中国式の天文図が描かれている。
渡部潤一氏「古代文明と星空の謎」によると、描かれている星座は奈良のものではなく、古墳造営から200年以上前に西安や洛陽で観測されたものだという。
この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例である。
キトラ古墳は、平成12年に特別史跡に指定され、令和元年に壁画が国宝に指定されている。
キトラ古墳壁画体験棺 四神の館で、壁画が公開されており、古墳についての展示がある。
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩15分。来館者用の駐車場がある。
子嶋山子嶋寺は、奈良県高市郡高取町観音寺にある真言宗御室派の寺院である。
本尊は大日如来を祀っている。
当初は、子嶋山(こじまやま)寺、平安時代中期以降は観覚寺、江戸時代には子嶋山千寿(せんじゅ)院と称した。
創建については諸説あるが、寺伝によると孝謙・桓武天皇の病を癒した報恩大徳により、天平勝宝4年(752)に開かれたという。
延暦14年(795)報恩大徳を継いだ2世延鎮(えんちん)は、山城国(京都)東山の霊場で修行中に坂上田村麻呂と出会い、後に二人で東山に清水寺を建立したことが「扶桑略記」に記されており、当時は清水寺が当寺の支坊であった。
永観年間(983-985)に当寺中興の祖とされる真興(しんごう)(935-1004)が来山し、境内に観覚寺という子院を営んだ。
真興は藤原道長が帰依した人物で、もと法相宗の興福寺の僧であったが、のちに吉野の仁賀(にんが)から密教を学んで伝法灌頂を受けており、真興以来、子嶋寺は真言宗子島流の拠点として栄えた。
南北朝時代に兵火を受け堂宇が失われてから、子院の観覚寺を子島山観覚寺と号した。
室町末期には、戦乱で衰退したが、天正年間(1573-92)に高取城主 本多利久が再興した。
江戸時代には、興福寺一乗院の支配下に入り、寛永年間(1624-44)に本堂以下諸堂が再建され、高取城主植村家の祈願所となり、寺号を子嶋山千寿院と改めた。
明治維新後、廃仏毀釈で衰退したが、有志の尽力で庫裏が再建され、明治36年(1903)に旧名の子嶋寺に戻った。
境内には、嘉永年間(1846-54)再建の本堂、高取城二の門が移築された山門などがある。。
寺宝として、子島曼荼羅の名で有名な「紺彩地金銀泥絵(こんあやじきんぎんでいえ)両界曼荼羅図」2幅(国宝、奈良国立博物館寄託)を有する。
両界曼荼羅は、中興の祖 真興が一条天皇の病を平癒させた功績により下賜されたといわれるもので、東寺、神護寺と共に日本三大曼陀羅の一つとして知られており、当寺には4分の一の大きさの複製銅板(レプリカ)がある。
また、平安時代前期の木造十一面観音立像(国重要文化財、東京国立博物館寄託)も寺宝として知られる。
謡曲「田村」の発祥の地として知られている。
田村は、清水寺の縁起に関する謡曲で、後場で清水寺門前の男が、つぎのように語る。
そもそも当寺清水寺と申すは、大同2年の御草創、坂の上の田村丸の御願也、
昔大和国小島寺という所に、賢心といへる沙門、生身の観世音を拝まんと誓いしに、(後略)
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩10分。境内東側約50mに参拝者用駐車場がある。
無量山 光永寺 人頭石は、奈良県高取町にある。
無量山 光永寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。
土佐街道から山門に至る参道左側の庭園内に、人頭石がある。
高さ103cm、幅80cm、厚さ110cmの石造物である。
角張った顔と縦長の耳、大きな目と鷲鼻をした人物の横顔で、頭部にはのちに手水鉢として使われた穴が穿たれている。
通称飛鳥石と呼ばれる閃緑岩(花崗岩)製で、欽明天皇陵付近から江戸時代に4体の猿石とともに出土し、光永寺に搬入されたと伝えられている。
斉明天皇の時代(在位655-661)にもてなしの場の装飾として造られたとされ、飛鳥の宮殿を訪れたペルシャ人の顔ともいわれている。
近鉄吉野線壺阪山駅下車、徒歩5分。土佐街道東側に参拝者用駐車場がある。
八角墳と飛鳥時代後半の天皇陵
八角墳は、飛鳥時代の後半において、天皇陵として造営された。
舒明天皇から文武天皇に至る歴代天皇(孝徳天皇を除く)に採用された。
それまでの天皇陵は、敏達天皇陵までは前方後円墳、推古天皇陵までは方墳であった。
ここで新たに八角形墳を採用したのは、天皇が他の豪族とは違う存在であることを、古墳においても誇示する必要があったと考えられている。
そこで中国の思想などを取り入れた、それまでのわが国にはなかった独自の墳丘形式を採用した。
(「飛鳥・藤原の宮都を語る」相原嘉之氏 参照)
和歌で、「やすみしし(八隅知し、安見知し)」という枕詞がある。
これは、「わが大君(天皇)」「わご大君」にかかる枕詞で、「八隅知し」とは、「国の八隅を知ろしめす」「国の隅々までお治めになっている」との意味が込められており、天皇陵と八角墳の関係を伺い知ることが出来る。
(令和6年企画展 牽牛子塚古墳 今昔物語 参照)
時代 | 天皇名 | 八角墳 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
飛 鳥 時 代 |
33代 推古天皇 | 蘇我系(方墳) 植山古墳 推古天皇磯長山田陵 | ||
34代 舒明天皇 | 〇 | 舒明天皇陵 段ノ塚古墳 | ||
35代 皇極天皇 | 〇 | 斉明天皇(重祚) | ||
36代 孝徳天皇 | 孝徳天皇 大阪磯長陵(山田上ノ山古墳) | |||
37代 斉明天皇 | 〇 | 牽牛子塚古墳 | ||
38代 天智天皇 | 〇 | 天智天皇山科陵 | ||
39代 弘文天皇 | 大友皇子 | |||
40代 天武天皇 | 〇 | 天武・持統天皇陵 (檜隈大内陵) |
||
41代 持統天皇 | 〇 | |||
42代 文武天皇 | 〇 | 中尾山古墳 | ||
奈 良 時 代 |
43代 元明天皇 | |||
44代 元正天皇 | ||||
45代 聖武天皇 | ||||
46代 孝謙天皇 |
(令和6年(2024) 高松塚壁画館 冬季企画展 中尾山古墳展 参照)
日本の特別史跡
奈良観光コンシェルジュ
(なら記紀・万葉名所図会-壬申の乱編-2022年 参照)
各天皇の宮と陵墓 | ||||||
代 | 天 皇 | 古事記 宮号 | 日本書紀 宮号 | 続日本紀 | 扶桑略記 | 水鏡 |
古事記 陵号 | 日本書紀 陵号 | |||||
宮内庁管理陵墓 | ||||||
古墳名称 | ||||||
29 | 欽明 | 師木嶋大宮 | 磯城嶋金刺宮 | |||
檜隈坂合陵 檜隈大陵 檜隈陵 |
檜隈坂合陵 | 檜隈坂合陵 | ||||
欽明天皇檜隈坂合陵 | ||||||
梅山古墳 見瀬(五条野)丸山古墳 |
||||||
30 | 敏達 | 他田宮 | 百済大井宮 訳語田幸玉宮 |
|||
川内科長 | 磯長陵 (妣皇后所葬之陵) |
磯長中尾 | 磯長中尾陵 | |||
敏達天皇河内磯長中尾陵 | ||||||
太子西山古墳 奥城(おくつき)古墳 |
||||||
31 | 用明 | 池辺宮 | 磐余/池辺双槻宮 | |||
石寸掖上 ●後遷・科長中陵 |
磐余池上陵 ●改葬/河内磯長陵 |
磐余池上 ●改葬/ 磯長原山陵 |
磐余池上陵 | |||
用明天皇河内磯長原陵 | ||||||
春日向山古墳 | ||||||
32 | 崇峻 | 倉椅柴垣宮 | 倉梯 | 倉梯崗 (異本云。 葬添上郡。 無山陵) |
||
倉橋岡上 | 倉梯岡陵 | 倉橋山岡陵 | ||||
崇峻天皇倉梯岡陵 | ||||||
(金福寺跡) 赤坂天王山古墳 |
||||||
33 | 推古 (592-628) |
小治田宮 | 豊浦宮/小墾田宮 | 冝葬竹田皇子陵。 山陵/科長山田。 或本云。山陵。 大和国高市郡 |
||
大野岡上 ●後遷/科長大陵 |
葬/竹田皇子之陵 | 磯長山田陵 | ||||
推古天皇磯長山田陵 | ||||||
山田高塚古墳 | ||||||
34 | 舒明 (629-641) |
岡本宮(飛鳥岡傍) 田中宮 百済宮(百済川傍) |
||||
葬/滑谷岡 ●葬/押坂陵 |
葬/滑谷岡 ●改葬/押坂山陵 (一云。 河内国石川郡) |
押坂内陵 | ||||
舒明天皇押坂内陵 | ||||||
段ノ塚古墳 | ||||||
35 | 皇極 (642-645) |
小墾田宮 飛鳥板蓋宮 |
||||
36 | 孝徳 (645-654) |
難波長柄豊崎宮 | ||||
葬/大坂磯長陵 | 大坂磯長山陵 | 刀坂磯長陵 | ||||
孝徳天皇大阪磯長陵 | ||||||
山田上ノ山古墳 | ||||||
37 | 斉明 (655-661) |
飛鳥板蓋宮 飛鳥川原宮 後飛鳥岡本宮 |
越智山陵 造営/修造 |
|||
小市岡上陵 (合葬/間人皇女) |
山陵朝倉山。 ●改葬/ 越智大握間山陵 |
越智太間陵 | ||||
斉明天皇越智崗上陵 | ||||||
車木ケンノウ古墳 牽牛子塚古墳 |
||||||
38 | 天智 (668-671) |
近江宮 | ||||
山科山陵 山科陵 |
一云。/不知陵所。 (只、以履沓落処 為其山陵) /山陵/ 山科郷北山 |
山科北陵 | ||||
天智天皇山科陵 | ||||||
御廟野古墳 | ||||||
39 | 天武 (673-686) |
飛鳥浄御原宮 | ||||
大内陵 | 大内山陵 | 檜隈大内 | 檜隈大内陵 | |||
天武天皇持統天皇檜隈大内陵 | ||||||
野口大墓古墳 青木御陵 |
||||||
40 | 持統 (690-697) |
飛鳥浄御原宮 藤原宮 |
||||
合葬/大内山陵 | 大内陵 (天武天皇 之同陵也。 以下火葬) |
大内陵。 天武同陵此後火葬。 |
||||
天武天皇持統天皇檜隈大内陵 | ||||||
野口大墓古墳 青木御陵 |
||||||
41 | 文武 (697-707) |
|||||
檜隈安古山陵 | 檜前安古岡上/ (火葬飛鳥岡) |
檜隈安昌岡上陵 | ||||
文武天皇檜隈安古岡陵 | ||||||
栗原塚穴古墳/ジョウセン塚古墳 中尾山古墳 |
(「ここまでわかった飛鳥・藤原京」 「都市陵墓の出現」 今尾文昭氏作成資料 参照)
飛鳥時代諸宮の変遷
王宮名 | 造営開始 | 遷宮(完成) | 期間 | 備考 |
豊浦宮 | 592年11月3日(崩御) | 592年12月8日(即位) | 約1か月 | |
小墾田宮 | 不明 | 603年10月4日(遷宮) | 2年5か月(以内) | |
飛鳥岡本宮 | 629年1月4日(即位) | 630年10月12日(遷宮) | 約1年9か月(以内) | |
百済大宮 | 639年7月(造営詔) | 640年10月(遷宮) | 約1年4か月 | 西国の民を動員 |
飛鳥板蓋宮 | 642年9月19日(造営詔) | 643年4月28日(遷宮) | 約7か月 | 遠江~安芸まで動員 |
難波長柄豊碕 | 645年12月9日(難波遷都) | 652年9月(完成) | 6年10ケ月 | 悉く論ずべからず |
後飛鳥岡本宮 | 655年冬(火災) | 656年是歳 | 約1年3か月(以内) | |
近江大津宮 | 666年冬(鼠) | 667年3月19日(遷宮) | 約3~6か月以上 | |
飛鳥浄御原宮 | 672年9月15日(遷宮) | 672年冬(南に増築) | ― | 後飛鳥岡本宮 |
(藤原宮) | 694年 | |||
(平城京) | 710年 |
(相原嘉之氏「飛鳥・藤原の宮都を語る」 参照)
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