陸奥宗光供養塔

陸奥宗光供養塔は。和歌山県高野山奥の院にある。
奥の院燈籠堂の階段下から約20m南の参道西側沿いにある。
総高164cmの小型額縁付き墓石に、次のように刻されている。
(正面)伯爵陸奥宗光墓
(左面)法謚大機院圓應宗光大居士
(裏面)未亡人亮子謹建
(右面)明治三十年八月廿四日薨
    三十二年八月二十四日分骨

許可を得て撮影された供養塔の写真は、文芸ジャンキーパラダイスに載せられている。

陸奥宗光(1844-1897)は明治時代の外交官、政治家で不平等条約の改正に尽力した。
天保15年(1844)7月7日に紀州藩の重臣であった伊達宗弘の第6子として和歌山で生まれた。
父は、紀州藩の勘定奉行、寺社奉行を勤めていたが、嘉永5年(1852)徳川治宝が亡くなると失脚し、田辺等に幽閉された。
宗光はこれらの苦境を乗り越え、江戸に出て勉学に励んだのち、神戸の海軍操練所に入り、坂本龍馬と行動を共にした。
幕末の紀州藩を救い、明治政府の地租改正を推進して財政基盤を整備した後、外交官となり明治21年(1888)に日本とメキシコとの間で初の平等条約締結に成功した。
農商務大臣を経て、第2次伊藤博文内閣で外務大臣を務め、明治27年(1894)イギリスとの不平等条約改正を実現し、欧米列強に認めていた治外法権を撤廃し、国家の独立自尊を護った。
日清戦争、三国干渉の難局を乗り越えた手腕は、「カミソリ大臣」と呼ばれた。
これらの業績を讃え、外務省に4体の銅像や胸像が置かれている。



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