隅田八幡神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
社伝によれば、859年の建立という。
祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、丹生都比売神(にうつひめがみ)、瀬織津比女神(せおりつひめがみ)で、中世には隅田荘の領主、石清水八幡宮の別宮であった。
正月15日の管祭り(くだまつり)は粥占神事として、管竹三本の束「舟」を小豆粥に入れて稲作の豊凶を占うもので、橋本市の無形民俗文化財に指定されている。
三本の竹筒は、穴一つが早稲(わせ)、穴二つが中稲(なかて)、穴三つが晩稲(おくて)で、小豆粥の釜に舟をつけ、神殿に供えた後、いずれの筒に多く米が入っているかを確かめ、参拝者に稲の作柄を宣言する。
神社に伝わる青銅鏡として、国宝の人物画像鏡がある。
江戸時代後期に、現在の橋本市妻で刀剣や土器とともに発見されたと伝えられ、我が国最古の金石文の一つして知られている。
直径19.9センチの国宝は東京国立博物館に寄託されており、境内では、国宝記念碑で拡大したものを見ることが出来る。
平成9年には、神社正遷宮の境内整備によって、隅田八幡神社経塚が発見された。
約5m四方の範囲に3基の経塚が確認され、うち1基は当時の姿をほぼ残していると見られており、墨書銘で長寛2年(1164年)に書写されたものであることが確認され、和歌山県指定文化財に指定されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩20分。
霜山城は、和歌山県橋本市隅田町中島にある城跡である。
「郷土・橋本市の城」によると、古城跡としてその遺構をはっきりと残しているが、築造者や城主は詳らかではない。
江戸期の資料やつい最近までの所有者に野口氏が知られている。
鎌倉末期から室町期にかけて、同地に中島氏や下山氏の名が見え、あるいはこの両氏が霜山城主であったとも考えられている。
霜山城は、隅田川と高橋川にはさまれた、隅田八幡神社を含む台地の西南端を占め、東は野口池に、西と南は断崖によって護られた要害の地にある。
北は空堀が二重に作られており、二重の堀にはさまれた細長い土塁は、蔀(しとみ)土塁と言われている。
城内は東郭と西郭に分かれ、間は土橋でつながっている。
民有地のため、立ち入りは制限されている。
JR和歌山線下兵庫駅下車、徒歩20分。
利生護国寺は、和歌山県橋本市下兵庫にある真言律宗の寺院である。
寺伝等によると、聖武天皇が行基に命じて建てた畿内四十九院の一つである。
その後寺は荒廃したが、弘安年間(1278-88)に最明寺(北条)時頼が再建した。
利生護国寺文書によると、弘安8年(1285年)、沙弥願心が兵庫荒野並びに田畑等を寄進した。
また永仁6年(1298年)関東祈祷諸寺注文では、鎌倉幕府の祈祷寺34か寺の一つにあげられ、鎌倉幕府の信仰を得ていたことがわかる。
利生とは、「利益(りやく)衆生」の意味で、仏・菩薩が衆生に利益を与えること、またその利益を指す。
覚王山利生院と号し、通称で大寺さんと言えば、伊都地方ではこの寺を指す。
中世には地名に因んで兵庫寺などとも呼ばれ、隅田一族の氏寺として栄えた。
本尊は行基作と伝えられる木造大日如来像で、和歌山県の重要文化財に指定されている。
本堂は、一重寄棟造、本瓦葺き、朱塗りの建物で、南北朝期の天授年間(1375-81)に再建されたもので国の重要文化財に指定されている。
本堂北側に、裏山の斜面から移転した隅田一族の墓石群があり、「元中元年(1384年)」銘の墓石もある。
本堂前には、太閤駒繋松があり、「紀州名所図会」には、次のように記されている。
「馬繋松 境内をおほへる大樹なり。文禄三年豊太閤高野参詣のとき、帰路当寺に止宿し給へるとき、馬を繋ぎしにより此名ありとぞ。(後略)」
2年に一度、大茶碗でお茶をいただく「大茶盛」が開催される。
JR和歌山線下兵庫駅下車、徒歩5分。本堂北側には、参拝者用の駐車場がある。
妻の杜は、和歌山県橋本市にある。
この森は、東 中 西と3か所あり、西の森の場所に万葉歌碑が建てられている。
大宝元年(701年)辛丑十月大太上天皇(持統天皇)文武天皇の紀伊国に幸し時坂上忌寸人長(さかのうえいみひとおさ)の作れる歌
紀の国に 止まず通わむ 妻の杜
妻寄こしせね 妻といひながら
或云(こくうん) 坂上忌寸人長(さかのうえいみひとおさ)(巻九 一六七九)
原文 城国尓 不止将往来 妻杜 妻依来西尼 妻常言長柄
紀の国へは 度々通うことにしよう
そこには妻の神のいる森がある その名の通りならきっと妻を授けてくれるだろう どうか私にも良い妻を
南海電鉄JR和歌山線橋本駅から徒歩10分。
陵山古墳は、和歌山県橋本市にある横穴式円墳である。
「古佐田古墳」「田村将軍塚」「紀古佐美陵」などとも呼ばれている。
直径は約46m、高さ約6m、濠の幅6mで紀の川中流域では最大の円墳で、和歌山県の文化財に指定されている。
盛土は三段で、墳丘の段の肩に沿って円筒埴輪が埋められている。
南東方向には横穴の石室入口があり、前後に分かれた石室の側面には赤色顔料が塗られている。
明治26年(1893年)、昭和27年(1952年)、昭和47年(1972年)に発掘調査が行われ、勾玉や首の回りを防御する頚甲(けいこう)という鎧などが出土しており、5世紀末から6世紀初めごろに築造された有力氏族の墓と推定されている。
南海高野線、JR和歌山線の橋本駅下車、徒歩10分。
応其寺は、和歌山県橋本市にある真言宗の寺院である。
1587年に応其によって創建され、山号は中興山と号する。
応其は、1537年近江国蒲生郡観音寺に生まれた。俗姓は佐々木順良(むねよし)といい、主家の大和の国高取城主の越智泉が没落したため、紀伊の国伊都郡相賀荘に移り住んだ。
37歳の時、出家して高野山に登り、名を日斎房良順のちに応其と改めた。
高野山では米麦を絶ち木の実を食べて13年間仏道修行を積んだため、木食上人と呼ばれた。
1585年豊臣秀吉が根来寺の攻略の後、高野山攻撃を企てた時、高野山を代表して和議に成功し、秀吉の信任を得て高野山再興の援助を受けた。
応其は、全国を行脚して寺社の勧進に努めたほか、学文路街道を改修し、紀ノ川に長さ130間(236m)の橋を架けた。橋本市の地名はこの橋に由来する。
境内には、本堂、庫裏、鐘楼、山門があり、寺宝として木像応其上人像、木食応其上人画像、古文書応其寺文書などがある。
高野山奥の院には、「興山応其上人廟」、興山上人一石五輪塔がある。
南海電鉄高野線及びJR和歌山線橋本駅から徒歩5分。
東家の追分石は、和歌山県橋本市東家にある。
追分とは、道が左右に分かれるところをいう。
伊勢(大和)街道と高野街道が交差する四つ辻に旅人の便宜を図るためにもうけられた道標石である。
東面に「右 京大坂道」、西面に「右 こうや 左 京大坂道」
南面に「南無大師遍照金剛 施主 阿州一楽村 藍屋元次郎
世話人 当邑 河内屋次右エ門」
北面に「右 わかやま こかわ
左 い勢 なら はせ よしの 追分」
と刻まれている。
阿州とは、徳島のことで、徳島県の北の粟の生産地で「粟の国」、南の「長の国」と呼ばれ、大化の改新の後に「粟国」に統一された。
和銅6年(713年)、元明天皇の命により、地名を二字で表記するため、粟は「阿波」に変更された。
南海電鉄高野線橋本駅下車、徒歩10分。
丹生山薬師院妙楽寺は、和歌山県橋本市にある真言律宗の寺院である。
弘仁11年(820年)嵯峨天皇の勅願寺で、大森の社の西に七堂伽藍を草創したといわれる。
その後、永仁年間(1293-98)に最明寺時頼が再興して現在地に移したが、寛正4年(1463年)に焼失した。
文明5年(1473年)僧悟阿が諸方に勧進して再建したが、天正年間、織田氏高野攻めの時、高野山の衆徒が焼き払ったといわれる。
当寺は、創建の頃僧空海の姪「如一尼」の居たところで、以後尼寺となり、永仁6年(1298年)関東から祈祷寺三十四箇寺を定めた内、尼寺七箇寺の一つである。
本堂が焼失したため、妙楽寺再建・再興委員会が一石一経による再建を目指している。
本尊の木造薬師如来坐像は、橋本市郷土資料館に保管されている。
また、嵯峨天皇の女御とち姫宮に供奉して当寺に移った青待之衆一二人の記録の写しが残されている。
南海高野線、JR和歌山線橋本駅下車、徒歩7分。