紫雲山定福寺は、和歌山県橋本市賢堂にある高野山真言宗の寺院である。
当寺は高野山参詣道の黒河道のスタート地点に位置しており、黒河道は平成27年(2015年)10月に国の史跡に指定され、平成28年10月に世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録された。
本尊木造阿弥陀如来坐像は像高88cmで、両手を腹前で組んで上品上生(弥陀定)印を結んでいる。
檜材の一木造りのこの像は、腹部の丸みに合わせて刳り込んだ一材の両膝を矧(は)ぎ寄せる手法で作られ、平安時代中期(10~11世紀)の作品である。
均整のとれた頭体で、和歌山県の有形文化財に指定されている。
境内下にある九重塔(橋本市指定文化財、砂岩、総高244cm)は、相輪部九輪の六段目以上と塔身部第八層目が欠損しているが、基礎部の銘から弘安8年(1285年)に建立された石造層塔である。
「伊都郡学文路村誌」には、「何の為に建立されたものかに就いては異説紛々、或は朝鮮より渡来せりといひ、容易に判定し難いが、塔の下には、石棺を埋めてあると言はれ、『一村大飢饉の際に非ざれば発掘すべからず』との伝えがあるとて、人々畏怖して手を触れず」と記されている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩9分、JR和歌山線及び南海高野線橋本駅から徒歩25分。
三軒茶屋大常夜燈籠は、和歌山県橋本市の旧高野街道にある史跡で、市の文化財に指定されている。
高野街道は、京都・大阪・堺から河内長野を経て高野山へ向かう道で、古くは九度山町の慈尊院から町石道を登った。
その後、御幸辻から南下して谷内川(橋本川)河口付近から紀の川を渡ってこの地に至り、学文路から高野山へ登っていく道が開かれた。
この道は、町石道に比べて距離も短くなったことから、室町時代後期には、高野参詣はもっぱらこの道が用いられるようになった。
天正15年(1587年)応其上人は、紀の川に橋本の地名の由来となる長さ130間(236m)の橋を架けたが、紀の川増水により3年後に流失し、橋に代わって舟による有料の横渡(よこわたし)が行われるようになった。
しかし、増水時の割増運賃や営業時間を巡ってのトラブルもあり、元禄10年(1697年)から、高野山と紀州藩、関係村々が費用を出して「無銭横渡」となった。
無銭横渡は常夜の営業で両岸の燈籠に灯がともされ、旅人の目印であった。
元は石燈籠二基が相対して建てられていたが、近年の道路拡幅工事で東側の一基が北へ約5m移動された。
この石灯籠には、宝暦2年(1752年)「高野山興山寺(現在の金剛峯寺の前身)領」の銘が刻まれている。
紀伊名所図会の橋本・東家・陵山にも、「橋本わたし」の舟が描かれている。
南海高野線紀伊清水駅から徒歩8分。
高野街道六地蔵第一(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市清水にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、当地から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
「紀伊國名所図会」には、次のように記されている。
「地蔵堂(清水村にあり。この堂より山上まで、六地蔵とて六体あり。その一なり。)」
第一は清水、第二が橋本市南馬場、第三が九度山町繁野、第四が同町河根(かね)峠、第五が高野町西郷の作水(さみず)、第六は同町桜茶屋にそれぞれ祀られている。
当時どのような規模で祀られていたか、明らかでないが、信仰の道に残された跡は、かつての高野山信仰を今日に伝える文化遺産である。
当地に西行庵がある。
「紀伊続風土記」の清水村の項には、
「地蔵堂 村の東端にあり 高野街道六地藏第一といふ堂内に西行の像あり
長七寸許坐像にて包を背に背負へり」
と書かれている。
平安時代末期の歌人西行が、一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内に残されており、西行ゆかりの地として「正覚山永楽寺西行庵」と呼ばれている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩5分。
成就寺(大師堂)は、和歌山県橋本市南馬場にある高野山真言宗の寺院である。
瑜伽山遍照院と号する。本尊は、厄除弘法大師像である。
寺由緒によると、空海が開基したと伝えられている。
境内には、本堂、坊舎、山門(内部に鐘楼あり)、船越喜右衛門之碑等がある。
寺宝として、露盤宝珠(寛永年間高野山千手院長泉房良弁作)、棟札(寛永20年作)、石像(如意輪観音)がある。
船越喜右衛門は、文政元年(1822年)学文路に生まれ船頭をしていた。
嘉永5年(1852年)7月に紀の川に大洪水があり、船越喜右衛門が紀の川氾濫の危険も顧みず、船を出して多くの村人を救った功績を称えて、石碑が建てられている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩15分。
学文路天満宮は、和歌山県橋本市にある神社である。
社名は天満神社で、現在は学文路地区全域の氏神となっている。
祭神は、菅原道真公で本殿中央に祀り、左側に天穂日命(あめのほのひのみこと)、御父君 菅原是善卿(すがわらこれよしきょう)、御母君 園文字姫(そのもしひめ)の3柱、右側に旧学文路村内の55柱を祀っている。
創建について、「天満神社御縁起」では、「天満神社は、人皇第75代崇徳天皇の天治元年(1124年)9月25日、紀伊国伊都郡当時相賀の荘の今の地に御勧請、<中略>当神社は京都北野神社御建立の際、時の帝第62代村上天皇の天暦元年(947年)、日本国中一郡に大社小社に不限必ず一社の鎮座を被仰出たるに依る」とされている。
元弘3年(1333年)の後醍醐天皇の綸旨、いわゆる元弘の勅裁により、相賀荘は「相賀荘河北」「相賀荘河南」と、紀ノ川の河北と河南で領有が二分された。
相賀荘河北は、これまでどおり根来寺領、相賀南荘は、高野山寺領となった。相賀大神社を「河北惣社」と呼ぶのに対し、天満神社は、南荘の総鎮守となって、「河南天神」ともいわれて、崇敬された。
明治6年(1873年)に村社、明治40年(1907年)に神饌幣帛供進(しんせんへいはくきょうしん)神社に指定された。
伊都地方唯一の天満宮として、学業成就、受験合格の参拝者が多く訪れている。
祭礼は、1月25日(初天神)、8月25日、10月第4日曜日に行われており、初天神には学文路地区の小中学生の書初め展がある。
南海高野線学文路駅下車、徒歩20分。参拝者用駐車場がある。
戸谷新右衛門の墓地は、和歌山県橋本市南馬場にある和歌山県の指定史跡である。
戸谷新右衛門は、貞享3年(1686年)高野山領の南馬場に生まれ、その性格は正義剛直の人であったと伝えられる。
当時、高野山領の年貢は、寛文9年(1669年)に幕府が制定した「京桝」を使わず、大きな「讃岐枡」を使用し、さらに付加税(年貢米1石について2升の差口米(さしぐまい))も加わって、領内農民は窮乏していた。
これを見かねた興山寺領清水組庄屋の新右衛門は、享保5年(1720年)江戸の寺社奉行に直訴し、その結果訴えが聞き入れられ、不正枡の破棄と付加税の廃止が実現した。
越訴(おつそ)の罪で3年間入牢した後、赦免されて故郷に戻ったが、興山寺の怒りを買い、高野山で石籠詰(いしごづめ)の刑に処せられて、36年の生涯を閉じた。
積まれている墓石は、新右衛門が直訴に出かける前、密かに造って竹藪の中に隠してあったものといわれている。
大菩薩峠の作者として知られる中里介山は、小説「高野の義人」で戸谷新右衛門とその子新九郎の物語を描いている。
戸谷新右衛門伝承は、立証資料がないものの、明治時代に掘り起こされた義民伝承の一つで、昭和34年には高野山を背に大きな石碑が建てられ、顕彰されている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩20分。
高野街道六地蔵第二(橋本市指定文化財)は和歌山県橋本市南馬場にある。
江戸時代の後半、高野山参詣者の安全を祈願して、清水から桜茶屋までの六か所に地蔵堂が建立され「高野街道六地藏」と呼ばれていた。
堂内には、中央に地蔵菩薩、右に観音菩薩、左に不動明王の三体が祀られているが、左右の二体は後から祀られたといわれる。
堂前の里程石には、次のように記されている。
「東 高野山女人堂迄三里
地蔵尊 弘法大師御作
弘法大師御母公御廟所
慈尊院村江一里是ヨリ十丁程先別道有
南 橋本町東家舩渡シ江一里
伊勢江三十六里吉野江七里
大坂江十二里堺江九里」
平成26年11月、国道370号線の拡幅により約7メートル西北西に移設されたため、里程石の基部の色が違っている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩20分。
大畑才蔵勝善(おおはたさいぞうかつよし)(1642年-1720年)の墓は、和歌山県橋本市学文路にある史跡である。
利水の先覚者大畑才蔵勝善は、寛永19年(1642年)学文路で生まれた。
18歳で杖突(つえつき 庄屋の補佐役)、28歳で高野内聞役(こうやないぶんやく 高野山の情報を藩に伝える役)と、若年で要職に就き、各層から厚い信望を集めた。
元禄9年(1696年)55歳の時「和歌山会所詰御用」を命じられて藩に出仕し、以降大畑才蔵の優れた才能は紀州藩の事業を通して大きく開花した。
大畑才蔵が手がけた大水利事業は、元禄11年(1698年)からの伊勢一志郡の新井(しんゆ)施工完成、紀州では元禄13年藤崎井(ふじさきい)、宝永7年(1710年)小田井竣工の二大灌漑事業がある。
特に小田井は根来(岩出市)に至る大規模なもので、県下随一を誇る農業用水であった。その長さは9里8町(約36㎞)に及び、およそ1000町(約9.9㎢)の田に水を導いた。
これらの水路には、サイフォン方式や「かけひ」方式など天才的な設計技法が随所に用いられている。
その後、才蔵のたずさわった仕事は、名高浜(なだかはま)の塩田、亀池(海南市)、引の池、河瀬(こうぜ)新地(橋本市)など多数に及ぶ。
享保5年(1720年)79歳で没し、戒名は「浄岸慈入居士」とつけられた。
「才蔵日記」等の記録類も残されており、墓地とともに和歌山県指定文化財となっている。
墓地からは、紀ノ川を望むことが出来る。
南海高野線学文路駅下車、徒歩18分。かむろ大師の参拝者駐車場がある。