備前岡山藩主 池田光政の六女 六姫供養塔

備前岡山藩主 池田光政の六女 六姫供養塔は、和歌山県高野山奥の院34町石南西にある。
織田信長墓所の西隣に、石柵で囲まれた総高250cm(8尺2寸5分)の五輪塔がある。→ 織田信長墓所周辺の石塔

五輪塔地輪には次のように刻されている。(水原堯榮氏「高野山金石図説」参照)
   延寶七巳未年
成徳院殿見巖永性大禅定尼
   十二月廿五日

池田光政(1609-1982)(芳烈公)は、江戸初期の著名な外様大名で備前岡山藩主 池田輝政の孫である。→ 播磨姫路藩主 池田輝政供養塔
幼名は幸隆(よしたか)といい、元服の時将軍徳川家光の諱(いみな)の一字をもらって、光政と改めた。
寛永9年(1632)岡山藩主となり、名君と呼ばれ、ほぼ50年にわたり岡山藩政全般に関わった。

「成徳院殿見巖永性大禅定尼」は、備前岡山藩主 池田光政と第二側室 国(利清院)の子で、光政の第六女にあたる六姫(1645-1680)の法名である。
墓所は、岡山県備前市の和意谷池田家墓所にある。

吉備群書集成第拾輯には、次のように紹介されている。
六姫君
烈公の御庶女なり。初め池田主計に嫁し玉ひ、後、瀧川儀大夫に嫁し玉ひしが、延寶二年正月、儀大夫狂気にて死しければ、六姫君は御城に帰り玉ひ、
同三年十一月三日より、石山亭に移り住せ給ひ、同七年十二月二十五日御卒去なりければ、儒禮を以て五の御山に葬り奉る。
御葬の日欠ぐ。後、法号を成徳院殿見巖永性大禅定尼と申ける。

荒木祐臣氏の「備前藩殿様の生活」には、「光政の女六姫の業深い因縁」と題して、六姫について書かれている。



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