佐久間(次右衛門)信盛の墓所は、奈良県十津川村武蔵にある。
十津川村旧武蔵小学校の南側、楠正勝の墓所の上の段にあり、十津川村の文化財に指定されている。
佐久間信盛(1527-81)は、戦国、安土桃山時代の武将で、織田家に30年余り仕え、宿老と呼ばれた。
信長公記によると、天文18年(1549)織田信秀(信長の父)死去の際には、織田勘十郎信行(信長の弟)の家臣として葬儀に臨んでいる。
尾張の山崎城を守った後、永禄11年(1568)織田信長の上洛に従って京都に入り、京都の治安維持に努めた。
近江長浜城主となり、浅井氏、朝倉氏、比叡山衆徒の制圧に尽力した。
天正2年(1574)3月織田信長が勅許を得て、東大寺の蘭奢待を切り取った際には奉行をつとめている。
天正4年以降、大坂石山本願寺の攻囲に参加したが、攻囲策で無為に五年を過ごしたことを信長に問責され、天正8年8月高野山に追放され、剃髪して宗盛と称した。
高野山金剛峯寺小坂坊に身を潜めたが、織田信長から「高野山に住むこと叶うべからず」との厳命が出され、相ノ浦、さらに十津川山中で過ごしたと言われる。
天正9年(1581)7月22日紀伊国十津川の温泉で病気療養中に亡くなった。享年55歳、法名は宗祐子。
信長公記には、佐久間信盛の病死を聞いた織田信長は、信盛子息の甚九郎に旧領を保障してやり、許すと言った、と書かれている。
天正10年正月16日に、甚九郎が美濃の岐阜に参上して三位中将信忠(信長長男)に礼を伝えたという。
近鉄八木駅からバスで温泉地温泉(十津川村役場前)下車、徒歩40分。墓地横に十津川村教育資料館駐車場がある。
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