相賀八幡神社は、和歌山県橋本市胡麻生(ごもう)にある神社である。
かつての相賀北庄(現在の橋本市中央部、紀ノ川北部)のうち、橋本・古佐田・妻から紀見峠までを氏子圏とする総氏神で、「ごもうの八幡さん」として親しまれている。
祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、気長足姫尊(おきながたらひめのみこと)である。
「紀伊国神名帳」の天手力雄気長足魂住吉神に比定され、古くは、住吉大社の神々を祀っていた。
9世紀頃に、この地の豪族 坂上氏が石清水八幡宮から八幡神を勧請して合祀したといわれている。
「紀伊續風土記」には「(伊都)郡中の古詞五社の一つであり、村中十一ケ村の氏神なり---、即ち此れ八幡宮なるべし---(相賀)庄中の大社なり」と記されている。
天正9年(1581年)の春、織田信長の高野山攻めの後、高野山衆徒の反撃の際に当社も焼き討ち遭って焼失した。
天正14年(1586年)在地武士の牲川海部が再興造営したと伝えられている。
天正21年(1366年)刻銘の鳥居板額が残されている。
古くは、旧暦8月15日に八幡宮放生会が行われ、村々から山車が出された。
現在は、10月第2土曜に宵宮、翌日曜日に秋まつり(本宮)が行われ、屋形船をかたどった舟楽車などが参加する。
南海高野線御幸辻駅下車、徒歩20分。
相賀八幡神社 おうがはちまんじんじや
[現]橋本市胡麻生 胡麻生(ごもう)の中央丘陵地にあり、祭神は誉田別(ほんだわけ)尊・足仲彦(たらしなかつひこ)尊・気長足姫(おきながたらしひめ)尊。旧郷社。「続風土記」に胡麻生村・橋谷(はしたに)村(現橋本市)など一一村の氏神とあり、「紀伊国神名帳」の天手力雄気長足魂住吉神に比定する。天正九年(一五八一)高野山衆徒により焼払われた後再建されたと伝える。流造・檜皮葺の社殿は近世の造営であるが、正平二一年(一三六六)刻銘の鳥居板額、紺紙金泥法華経八巻、文亀二年(一五〇二)・永禄一二年(一五六九)の祭文、元禄一六年(一七〇三)の手水鉢などがある。古くは旧暦八月一五日に八幡宮放生会があり、村々から山車が参加し盛大に行われた。文亀二年の祭文に「毎年御神事御放生会御頭人勤給事有」とあり、中世の郷村での祭礼をうかがわせる。現在は一〇月一五日に神事が行われ、橋本からは屋形船をかたどった舟楽車が参加する。
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉©Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo "おうがはちまんじんじゃ【相賀八幡神社】和歌山県:橋本市/胡麻生村",
日本歴史地名大系,
四神
中国の古代に発祥する四つの方位を表す象徴的動物。東を青竜(蒼竜とも),南を朱雀(しゆじやく)(〈すざく〉ともいう),西を白虎,北を玄武で表す。戦国時代前期の,曾侯乙墓出土の漆器の蓋に,北斗や二十八宿とともに竜と虎とが描かれて,四神の観念の基礎となるものが天空上の星座と結びついて,すでに生まれていたことを示す。この竜虎の組合せに朱雀と玄武とが加わったのは,四霊(麟,鳳,亀,竜)の観念と結合したからであろうか。とくに玄武が,亀と蛇とのからみ合った図象で表されるのは,北方が,五行思想によれば水であり冬の季節にあたるところから,冬至の時期に宇宙的規模の性的結合があって世界が再生すると考えられたことによろう。なお四神のそれぞれに色が配当されているのも五行の観念による。四神の組合せに近いものは前漢時代のいくつかの文献に見えるが,現在の形にそろうのは《礼記》曲礼篇のものが最も古いであろう。四神の図像は,前漢時代末から器物や墓中の壁画などに見えるようになり,後漢時代には四神鏡や画像石などに盛んに出現し,一つの小宇宙を象徴する図像として後代に引きつがれる。また中国以外の地域にも伝播し,高句麗の壁画墓,日本の高松塚古墳などにそれを見ることができる。
紀伊国伊都郡(現,和歌山県橋本市)の荘園。荘域は紀ノ川をはさんで北は河内国堺より南は高野山麓におよぶ。1132年(長承1)陸奥守女子藤原氏と現地の豪族坂上豊澄の寄進,および鳥羽上皇の外護によって,高野山の僧覚鑁(かくばん)の住房密厳院領として成立。翌年不輸不入の一円所領となったが,隣荘石清水八幡宮領隅田(すだ)荘や金剛峯寺領官省符荘との紛争が続き,荘経営は当初安定しなかった。成立期の田数は90余町,所当400余石という。下司職は室町時代にいたるまで坂上氏が相伝している。鎌倉末期以降,高野山が〈御手印縁起〉の範囲内だとして河南地域(南荘)の領有を主張し,1333年(元弘3)後醍醐天皇の勅裁によって高野山領に編入された。しかし河北地域(北荘)は戦国時代にいたるまで密厳院(根来(ねごろ)寺)領として存続した。95年(応永2)から翌年にかけて,高野山は南荘の田畠・在家の検注を行い,本格的な支配にのりだしている。南北朝時代ごろより荘内の村落には惣的結合がみられ,柏原村にはその実態を垣間みることのできる区有文書(西光寺文書)が現存する。
天岩戸(あめのいわと)神話のなかに出てくる神。須佐之男命(すさのおのみこと)の乱暴を恐れた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、天岩戸にこもってしまった。困った神々は、天岩戸から出てもらうために神事を行い、また天鈿女命(あめのうずめのみこと)が卑猥(ひわい)な踊りをしたところ、神々が爆笑した。天照大神が不思議に思い、天岩戸を細めに開いたとき、この神が手をとって引き出した(『古事記』)。文字どおり手の力の強い神の意であろうが、この話のなかでつくられた神のようにも思われる。しかし、天孫降臨神話のところに、佐那那県(さなながた)に鎮座されるとあり、伊勢(いせ)国(三重県)多気(たけ)郡に佐那神社があるところからすると、伊勢地方の地方神かもしれない。
[守屋俊彦]
易産山護国院地蔵寺は、和歌山県橋本市にある高野山真言宗の寺院である。
天平9年(737年)に東大寺建立に関わった僧行基によって開かれたと伝えられている。
本尊の地蔵菩薩立像は、一切女人安産守護のため僧行基が安置したものである。
堂宇は、天正9年(1581年)の織田信長の高野攻めの際に焼失したが、本尊は人里離れた山中に難を逃れ、のちに村人に発見された。
その地は、「かくれがた」と呼ばれ、現在も残っている。
慶安3年(1650年)紀州徳川家初代藩主徳川頼宣により復興され、以来紀州徳川家の安産祈願所として、篤く信仰されてきた。
安産子授祈願の参拝者が多く、通称「子安地蔵」と呼ばれている。
近年は、「紀伊ノ国十三佛」、関西花の寺霊場第24番札所「藤の寺」としても知られている。
樹齢百年の古木を含め、8種類二十数本ある藤の開花時期(4月下旬から5月上旬)には、多くの参拝客で賑わう。
南海高野線御幸辻駅下車、徒歩約30分。藤の季節には、有料の参拝者駐車場が開設される。
行基ぎょうき[668―749]
奈良時代、社会事業に尽力した法相(ほっそう)宗の僧。父は百済(くだら)から渡来した王仁(わに)の子孫にあたる高志(こし)氏。和泉(いずみ)国(大阪府)の母の家(家原(えばら)寺の寺)に生まれ、15歳で出家。師は法相宗初伝の道昭(どうしょう)、その他の説がある。のち薬師寺の僧となり、土木技術の知識を学び、各地に橋を架け、堤を築き、池や溝を掘り、道をつけ、樋(ひ)を渡し、船息(ふなやど)をつくった。また当時、税として納められた諸国の産物を都へ運ぶ運脚夫は帰国の途中餓死する者が多かったので、彼らを収容し救うための施設として布施屋(ふせや)を8か所つくったと伝える。また、行基は各地を周遊したが、とどまった所に道場が建てられ、その数49院あったともいう。民衆への伝道にも努め、彼を慕って従う者1000名にも及び、行基菩薩(ぼさつ)と称された。717年(養老1)の詔(みことのり)では、行基とその徒が、町でみだりに罪福を説き、多くの人が仕事を放棄して集団をなして食物を乞(こ)い、仏教と国法とに違反している、と叱責(しっせき)されているが、のちに政府は、高齢の追随者には出家を認めるなど融和策をとった。さらに聖武(しょうむ)天皇の大仏造営に際しては、絶大な民衆への影響力により、大仏造営費の勧進(かんじん)に起用された。745年(天平17)78歳で大僧正に任ぜられ、仏教界における最高の地位を占めた。僧正は以前からあったが、行基が大僧正の初めである。大仏完成の3年前、天平(てんぴょう)21年2月2日、菅原寺(すがわらでら)で82歳で没した。
[田村晃祐]
1番 | 根来寺 | 岩出市根来2286 | |
2番 | 圓蔵院 | 和歌山市南相生丁28 | |
3番 | 普門院 | 橋本市高野口町伏原154 | |
4番 | 法輪寺 | 和歌山市吉田495 | |
5番 | 地蔵寺 | 橋本市菖蒲谷94 | |
6番 | 慈尊院 | 伊都郡九度山町慈尊院832 | |
7番 | 禅林寺 | 海南市幡川424 | |
8番 | 興国寺 | 日高郡由良町門前801 | |
9番 | 浄教寺 | 有田郡有田川町長田542 | |
10番 | 観福禅寺 | 西牟婁郡白浜町栄162 | |
11番 | 高室院 | 伊都郡高野町高野山599 | |
12番 | 高山寺 | 田辺大師 | 田辺市稲成町392 |
13番 | 瀧法寺 | 日高郡印南町印南原495 | |
結願 | 高野山奥之院 | 伊都郡高野町高野山 |
隅田八幡神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
社伝によれば、859年の建立という。
祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)、丹生都比売神(にうつひめがみ)、瀬織津比女神(せおりつひめがみ)で、中世には隅田荘の領主、石清水八幡宮の別宮であった。
正月15日の管祭り(くだまつり)は粥占神事として、管竹三本の束「舟」を小豆粥に入れて稲作の豊凶を占うもので、橋本市の無形民俗文化財に指定されている。
三本の竹筒は、穴一つが早稲(わせ)、穴二つが中稲(なかて)、穴三つが晩稲(おくて)で、小豆粥の釜に舟をつけ、神殿に供えた後、いずれの筒に多く米が入っているかを確かめ、参拝者に稲の作柄を宣言する。
神社に伝わる青銅鏡として、国宝の人物画像鏡がある。
江戸時代後期に、現在の橋本市妻で刀剣や土器とともに発見されたと伝えられ、我が国最古の金石文の一つして知られている。
直径19.9センチの国宝は東京国立博物館に寄託されており、境内では、国宝記念碑で拡大したものを見ることが出来る。
平成9年には、神社正遷宮の境内整備によって、隅田八幡神社経塚が発見された。
約5m四方の範囲に3基の経塚が確認され、うち1基は当時の姿をほぼ残していると見られており、墨書銘で長寛2年(1164年)に書写されたものであることが確認され、和歌山県指定文化財に指定されている。
JR和歌山線隅田駅下車徒歩20分。
隅田八幡神社 すだはちまんじんじや
[現]橋本市隅田町垂井 JR隅田駅の北西、宮(みや)ノ壇(だん)とよばれる台地上に鎮座。祭神は誉田別(ほんだわけ)命・足仲彦(たらしなかつひこ)命・息長足姫(おきながたらしひめ)命・丹生都比売(にうつひめ)神・瀬織津比売(せおりつひめ)神。旧県社。
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉 〔草創と組織〕中世は隅田荘の領主山城石清水(いわしみず)八幡宮の別宮であったが、草創は明らかでない。「続風土記」は「神功皇后、誉田皇子と共に衣奈浦より大和国に趣かせ給ふ御道すから此地に暫御滞留ましまし地なる故に、後世其遺蹤に八幡宮を勧請し奉りしなるへし」と記し、隅田八幡宮由来略記(社蔵)もほぼ同様の伝えを載せる。隅田荘の成立に伴い、荘鎮守として石清水八幡宮の祭神を勧請したものであろう。以後、石清水八幡宮を本宮としてその支配下にあり、鎌倉時代以降は在地の豪族隅田氏を中心とする隅田党の氏寺利生護国(りしようごこく)寺(現橋本市護国寺)とともに氏神として発展した。寺人・神人の構成は、本宮の石清水八幡宮に倣ったといい、別当寺を大高能(だいこうのう)寺と称した。隅田荘内の寺院のうち二一ヵ寺が近世に大高能寺末寺であった(続風土記)。この別当寺のもとに供僧六人(六坊家)が置かれ、神職として神主・大禰宜・禰宜・神子・宮使・承使各一人がいた。六坊家は乾之坊・中之坊・角之坊・辻之坊・南之坊・新之坊からなり、六坊家共有文書によると正月の修正会、八月の放生会などの隅田八幡宮の神事に参画していた。
〔隅田党と宮座〕平安末期から鎌倉時代にかけて隅田荘の公文職・預所職・地頭職を有していた隅田党の中心隅田氏は、隅田八幡宮の俗別当職を兼帯していた。元永元年(一一一八)一〇月八日の隅田八幡宮俗別当職補任符案(隅田家文書)によれば、石清水八幡宮寺政所の符により隅田荘公文職藤原忠延が「別宮俗別当之職」に補任されている。この俗別当職は同氏世襲であった(同文書)。毎年正月の修正会に御朝拝神事を行ったが、その頭役を定めた建長五年(一二五三)以来の隅田八幡宮朝拝頭人差定(隅田家文書・葛原家文書)が残る。また八月一五日の放生会にも在地の有力農民が頭役を勤めた。放生会は本宮石清水八幡宮に倣ったもので、頭役には御供頭・饗頭・猿楽頭・相撲頭・伶人頭・田楽頭・御酒頭などがあった。ほかに毎月一万巻心経講の頭役も知られる(嘉暦四年八月一三日「隅田八幡宮放生会頭人差定」隅田家文書など)。頭役は在地土豪が勤めたが、彼らは宮座として「庁座」を結成、ここに八幡宮を紐帯とした武士団隅田党が成立する。彼らは八幡宮の祭祀を独占し、「殿」の呼称を用いていた。正平一〇年(一三五五)五月一八日の氏人等起請隅田八幡宮供料注文(隅田家文書)の起請文には隅田党の二五名の署名が「次第不同」で記されており、一族の比較的平等な結合がうかがわれる。
隅田党の惣領家隅田氏が南北朝の争乱で衰亡すると、隅田党のなかで葛原氏・上田氏などの有力庶子家が台頭してくる。応永二五年(一四一八)葛原忠満と高坊実敏の間で庁座の座敷をめぐる相論が起こり(同年八月日「高坊実敏訴状案」葛原家文書)、三問三答に及ぶ座次相論は葛原氏の勝利に終わる。永享二年(一四三〇)一二月七日の隅田八幡宮社僧連署申状案(同文書)にみえるように、葛原氏は隅田八幡宮の運営に専権を振るうようになっていたが、戦国争乱のなかで隅田党は弱体化した。荘内では村落の形成が進んで、村単位の宮座である「堂座」が成立し、神社も荘園鎮守から村々の氏神へと変わっていく。
〔社殿・摂社〕永禄三年(一五六〇)松永久秀により社頭堂塔は焼払われたが(「隅田氏系図」隅田家文書)、近世には隅田荘内一六ヵ村の産土神として信仰を集めた(続風土記)。慶長一九年(一六一四)には社殿再建のため人別一升を出すよう各村の百姓らが申合せ、かつての庁座の者たちへも寄付をよびかけている(六坊家共有文書)。江戸時代中頃、境内には本殿・拝殿のほかに神楽殿・僧座庁・神輿蔵・経庫・鐘楼・本地堂・護摩堂・薬師堂・観音堂・三昧堂・三重塔・楼門・浴室などが整い、摂社として若宮・松尾(まつお)宮・高良(こうら)宮・八王子宮・今宮・若一王子社・春日社・武内(たけうち)社・八島(やしま)社・恵比須宮・諏訪社・弁才天宮・猿田彦(さるたひこ)社・外武内(そとたけうち)殿・岩倉(いわくら)宮などがあった(「隅田八幡宮由来略記」社蔵文書)。社殿は二一年ごとに葺替えおよび彩色の改替があり、上下遷宮の時の諸式には別当の大高能寺が勤仕した。慶長年中の検地では境内山林が除地とされ、享保年中(一七一六―三六)には境内四至の示、および殺生禁制の制札が立てられた。外武内殿(社)は武内宿禰を祀るが、数取(かずと)りの宮ともよばれる。これは当神が八幡宮に参詣する人々を「彼ハ幾度、此ハ何度」と数えたためという。猿田彦社は里神(さとがみ)とよばれ、瘡病平癒に霊験があったため瘡(くさ)神ともよばれた。薬師堂には乳房の絵馬が掛けられ、乳の出の少ない婦人の信仰があつく、また難聴の人々が小石に穴をあけて糸を通して堂に掛けて祈った(同書)。
現在境内には本殿・拝殿のほか透廊・伏拝所・楼門・神輿庫・鐘楼などがあり、末社は若御前(わかごぜん)社以下一八社。本殿裏には元中二年(一三八五)銘の宝篋印塔がある。祭礼に一月一五日の管祭と一〇月一五日の例祭(県指定無形民俗文化財)がある。管祭は粥占をする神事で、管竹に小豆粥を入れ、早稲・中稲・晩稲のいずれかを占い、豊作を祈る行事である。
〔文化財〕神宝の隅田八幡宮人物画像鏡(国宝)は、熊本県江田船山(えだふなやま)古墳・埼玉県稲荷山(いなりやま)古墳出土の大刀とともに、漢字の刻された最も古い遺品である。江戸時代後期、現橋本市妻(つま)で刀剣や土器とともに発見されたと伝え、「紀伊国名所図会」にも紹介されている。径約二一センチの古墳時代の銅製製鏡で、内区に中国の画像鏡をまねた文様、外区に四八字の次の銘文がある。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟 癸未年については四四三年説、五〇三年説などがあり、「男弟王」についても允恭天皇説・継体天皇説・普通名詞説がある。「意柴沙加宮」は允恭天皇皇后忍坂大中姫が住んだ大和国の忍坂(おしさか)宮(現奈良県桜井市)とされ、日本の地名が漢字の音を借りて表記された最古の例とされる。現在東京国立博物館が保管。仁治三年(一二四二)を初めとする三七通の社蔵文書は、隅田家文書・利生護国寺文書とともに県指定文化財。©Heibonsha
Limited, Publishers, Tokyo "すだはちまんじんじゃ【隅田八幡神社】和歌山県:橋本市/垂井村",
日本歴史地名大系,
和歌山県橋本市所在の隅田八幡神社蔵の銅鏡。径19.6cm。鏡背面の主要図像は中国製の神人画像鏡を模写したものだが,その外周に48文字からなる銘文があり,それに日本の地名や人名と解される文字が音読の漢字で記されていることで有名。銘文は〈癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟〉と読めるが,〈大〉を六,〈年〉を与,〈寿〉を奉,泰,彦,〈今〉を命,〈取〉を所とそれぞれ読解する説もある。大意は〈癸未年8月,男弟王が意柴沙加宮に在ったとき,斯麻が開中費直と今州利らに白上銅二百旱でこの鏡を作らせた〉。だが,〈斯麻念長寿〉を人名の斯麻念長彦と読んで神功紀の斯麻宿禰にあて,〈癸未年〉を383年とする説,〈男弟王〉を允恭皇后忍坂大中姫の異母弟大草香皇子と解して,443年とみる説,〈男弟王〉を男大迹すなわち継体天皇とする503年説,〈男弟王〉を押坂彦人大兄皇子とみて,623年にあてる説がならぶ。製作目的の記載を認めるものでは,〈念長寿〉から長寿祈念説,あるいは〈念長奉〉とみて〈長く奉(つか)えることを念じ〉とする説がある。製作に従事したのは開中費直と穢人今州利(または命州流),あるいは開中費直穢人(または漢人)と今州利と解されており,〈開中費直〉が河内直であることはほぼ一致する。また,多くは日本列島製とみるが,〈斯麻〉を百済王斯麻(武寧王)とする説と,斯麻念長彦と読んで神功紀の斯麻宿禰にあてる説では朝鮮半島における製作を考える。これらの金石学的解釈にくらべて,考古学からの検討はなお十分ではない。古く中国鏡の様式観との対照による癸未年383年説があったが,これが中国鏡でなく仿製(ぼうせい)鏡であることからすれば難点がある。そのほか,考古学からは,主要図像の模写の手本となった中国製の神人画像鏡を副葬する日本の古墳の推定年代から443年にあてる説がだされている。
和歌山県橋本市の隅田八幡神社に古くから所蔵されている径19.8センチメートルの製(ぼうせい)鏡。国宝。内区は中国の人物画像鏡をまねたもので、外区には「癸未年八月日十大王与(年)男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻念長寿(奉)、遣開中費直・穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟」という48字の銘文がある。銘文については、1914年(大正3)に高橋健自(けんじ)が解読して以来、福山敏男、西田長男、水野祐(ゆう)など多くの人が見解を示してきた。「癸未(みずのとひつじ)年」は443年か503年と推定され、「意柴沙加(おしさか)」のようにすでに漢字を万葉仮名的に使用していること、天皇ではなく「大王(おおきみ)」と表記されていることなど古代史研究上きわめて重要な資料である。
[久保哲三]
語意では模倣製作した鏡のことであるが,普通は中国鏡をその周辺地域において模倣製作した鏡をさす。この種の仿製鏡とされるものは,中央アジアやインドシナ,さらに朝鮮半島にもあるが,日本列島における製品が質量ともに顕著で,早くから研究対象となり,仿製鏡の名も日本の研究者の中から始まった。
日本列島の最初の仿製鏡は,前漢鏡を手本として朝鮮半島で開始された中国鏡の模倣製作に起源する。しかし朝鮮半島では,わずかな製品をとどめるのみで,ひきつづいて北部九州地方を中心に,製作・流布されたものが多い。弥生時代のことである。弥生仿製鏡あるいは小型仿製鏡,古式仿製鏡などと呼ばれるこれら一群の仿製鏡は,平均面径7cm程度の小型品で,鏡背の図像文様もあいまい模糊として粗製品が多い。
日本列島の仿製鏡では,古墳時代の遺跡の出土品,とくに古墳の副葬品が圧倒的に多い。古墳時代の仿製鏡のほとんどは,4~5世紀,のちの畿内にあたる地域で製作されたものだが,さきの弥生時代の小型仿製鏡との関係は不明である。その図像文様をみると,中国鏡の忠実な模倣の努力の認められるものがまずあげられる。手本となった中国鏡は,内行花文鏡,方格規矩四神鏡,三角縁神獣鏡をはじめ,平縁の神獣鏡や獣帯鏡,盤竜鏡,画像鏡など各種に及ぶ。その努力のほどは,中国鏡の図像文様を見えるがままに写し仿製鏡の鋳型に彫りこんだため,製品では中国鏡の図像文様の左右逆転したものに仕上がっていることが少なくないところにもうかがえる。しかし,中国鏡のそれぞれの図像文様の形と,その意味するところを理解しえなかったため,製作を重ねるとともに,急速に手本の図像文様とは似つかないものに変化していく。この変化の系列の途中を省略し,最後に近いものだけを取り出すと,それがもともと中国鏡を手本としたものに始まったとは,とうてい判定しえないものとなっている。あるいはまた,いずれの中国鏡の神仙霊獣の像に起源するのか,判定しえない獣状の図像を連ねた獣形鏡,霊獣の羽毛表現のみを取り出して配列したかのような捩文鏡(ねじもんきよう),大型の突起である乳(にゆう)や空間を充塡する小さな珠文で鏡背をうずめた乳文鏡や珠文鏡など,中国鏡の図像文様から直接一部分を取り出し,それを変化させていったものか,中国鏡の模倣製作以後の変化のなかで派生した図像文様なのか,判定困難なものも少なくない。なお,中国鏡を直接鋳型土に押しつけて図像文様を写し取り,鋳型として製品を作ったいわゆる踏返し鏡があり,この類も中国鏡の忠実な模倣品に加えることができよう。
仿製鏡には,中国鏡の図像を換骨奪胎し,独得の主要図像とした類もある。その代表は竜鏡(だりゆうきよう)で,あたかも一つの頭部に正面形と側面形の二つの胴部がついたような怪獣像が配されている。しかしこの怪獣像は,その製作にあたった工人,または工人グループが考案した図像であって,広く認知されていた怪獣のイメージを図像化したものではなかったらしい。それが図像として定着して製作され続けることはなく,少数の製品を残すのみで,図像としても急激に変化するからである。その状況は,仿製鏡における中国鏡起源の図像文様の変化と共通する。いずれにせよ仿製鏡の図像文様は,ほとんどが一般に認知理解しえたものではなかったのであろう。ましてや現代人には,きわめて理解し難いものが多い。
これらに対して,直弧文鏡(ちよつこもんきよう)や家屋文鏡,あるいは狩猟文鏡など,もともと中国鏡にはなく,古墳時代人の理解しえた独自の図像を主要図像として採用したものがある(直弧文)。図像の模倣性が希薄である点を強調すれば,仿製鏡の語意の範囲からはずれたものといえよう。とはいえこれとても,円盤形で背面中央に鈕(ちゆう)をそなえる中国鏡の原則から脱することはできていない。しかしさらに進んで,中国鏡の原則から明らかに逸脱したものがある。鈴鏡(れいきよう)である。本来光の反射具であった鏡の,円盤形の周囲に鈴をつけた鈴鏡は,音響を発する道具であり,埴輪の巫女の腰部に着装されているところからみれば,呪術具であったといえよう。
中国鏡とくらべると,日本列島の仿製鏡は,一般には青銅鋳製品として,そのなかのスズの含有率が低く,鏡面の研磨も不十分で,映像具としての良好な機能の発揮は保証されていない。これらの点をあわせ考えると,映像機能を否定し,鏡には異質の音響機能をそなえた呪術具としての鈴鏡の存在は,日本列島の仿製鏡の特質を象徴している,といえよう。なお奈良時代以降に,唐・宋代の中国鏡を模倣して製作された鏡については,和鏡と呼んで仿製鏡と区別している。
→鏡
隅田荘 すだのしょう
平安後期以後,紀伊国伊都郡隅田荘に拠って活躍した武士。隅田荘は10世紀末に石清水八幡宮領として成立し,石清水八幡宮は荘内に隅田八幡宮を創建した。在地豪族の長忠延は1118年(元永1)隅田荘公文職,隅田八幡宮俗別当職に任ぜられ,それらが世襲された。長氏は那賀郡を中心とし,那賀郡司などに就任した古来の豪族であるが,忠延の子忠村以後は藤原氏を称し,さらに鎌倉時代に入って隅田氏を名のり,有力農民を一族に編成,その惣領家となった。この間,鎌倉前期には隅田荘預所職をも獲得して荘園支配を強め,鎌倉後期には北条氏の被官となり,その下で荘内木原・畠田の地頭代に任ぜられ,元弘の乱(1331)のころは六波羅検断として活躍した。1333年(元弘3)六波羅探題の陥落後,隅田氏は近江の番場で探題北条仲時とともに自害し,隅田惣領家は滅亡した。しかし一族には足利尊氏の下で後醍醐天皇方についた者もあり,鎌倉幕府の滅亡後,隅田北荘は隅田一族に安堵された(南荘は高野山領となる)。滅亡した惣領家にかわり,葛原氏,上田氏ら有力庶子家を中心に,隅田八幡宮を氏神とする合議的な一族の結合が生まれ,隅田党と呼ばれた。隅田党は南北朝時代には南朝方となり,室町時代には守護大内氏,畠山氏に属し,のち織田信長に仕えて高野攻めに加わり,ついで豊臣秀吉に従ったが振るわず,江戸時代には紀伊藩主徳川氏の下で,隅田組として地士身分を与えられた。
利生護国寺は、和歌山県橋本市下兵庫にある真言律宗の寺院である。
寺伝等によると、聖武天皇が行基に命じて建てた畿内四十九院の一つである。
その後寺は荒廃したが、弘安年間(1278-88)に最明寺(北条)時頼が再建した。
利生護国寺文書によると、弘安8年(1285年)、沙弥願心が兵庫荒野並びに田畑等を寄進した。
また永仁6年(1298年)関東祈祷諸寺注文では、鎌倉幕府の祈祷寺34か寺の一つにあげられ、鎌倉幕府の信仰を得ていたことがわかる。
利生とは、「利益(りやく)衆生」の意味で、仏・菩薩が衆生に利益を与えること、またその利益を指す。
覚王山利生院と号し、通称で大寺さんと言えば、伊都地方ではこの寺を指す。
中世には地名に因んで兵庫寺などとも呼ばれ、隅田一族の氏寺として栄えた。
本尊は行基作と伝えられる木造大日如来像で、和歌山県の重要文化財に指定されている。
本堂は、一重寄棟造、本瓦葺き、朱塗りの建物で、南北朝期の天授年間(1375-81)に再建されたもので国の重要文化財に指定されている。
本堂北側に、裏山の斜面から移転した隅田一族の墓石群があり、「元中元年(1384年)」銘の墓石もある。
本堂前には、太閤駒繋松があり、「紀州名所図会」には、次のように記されている。
「馬繋松 境内をおほへる大樹なり。文禄三年豊太閤高野参詣のとき、帰路当寺に止宿し給へるとき、馬を繋ぎしにより此名ありとぞ。(後略)」
2年に一度、大茶碗でお茶をいただく「大茶盛」が開催される。
JR和歌山線下兵庫駅下車、徒歩5分。本堂北側には、参拝者用の駐車場がある。
鎌倉幕府第5代執権。時氏(ときうじ)の二男、母は安達景盛(あだちかげもり)の女(むすめ)松下禅尼(まつしたぜんに)。幼名を戒寿といい、北条五郎と称した。左兵衛尉(さひょうえのじょう)、左近将監(さこんのしょうげん)、相模守(さがみのかみ)を歴任する。法名道崇(どうすう)。1237年(嘉禎3)元服し、将軍九条頼経(くじょうよりつね)によって時頼と名づけられる。46年(寛元4)病の兄経時(つねとき)から執権職を譲られた。時の将軍は8歳の頼嗣(よりつぐ)であったが、在位25年の前将軍頼経の周りに、幕府の実権を握ろうとする北条一族、御家人(ごけにん)らが集まっていた。時頼は、名越光時(なごしみつとき)が三浦氏らと通じて執権職をうかがった陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆に流し、頼経を京都へ送還した。翌47年(宝治1)外戚(がいせき)安達(あだち)氏の後援を得て、謀略によって豪族三浦氏を滅ぼした。ここに幕府内における北条氏の独占的地位が確立した。ついで空席であった連署(れんしょ)に北条重時(しげとき)を迎え、時頼指導下の執権政治の安定をみた。49年(建長1)相模守となり、同年、判決の公正と審理の迅速を図るため引付(ひきつけ)制度を新設した。52年京都の九条家と将軍頼嗣とがかかわる陰謀が発覚、頼嗣を辞任させ京都へ送り、かわりに後嵯峨(ごさが)上皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え、幕府念願の皇族将軍が実現した。56年(康元1)病により家督を6歳の時宗(ときむね)に譲り最明(さいみょう)寺で出家した。執権には一族の長時(ながとき)がなったが、鎌倉の北方山内庄(やまのうちしょう)の別邸に隠居した時頼は、なお幕府政治の実権を握り続けた。執権政治から得宗(とくそう)(北条嫡流)政治への移行であった。弘長(こうちょう)3年11月22日死去した。禅に帰依(きえ)し、宋(そう)僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に建長(けんちょう)寺を建立した。仁政の美談と諸国遍歴の伝説をもつ優れた政治家であった。
[田辺久子]
織田秀信終焉の地は、和歌山県橋本市にある史跡である。
織田秀信(岐阜中納言)は、織田信長の嫡孫(信忠の長子)で、幼名は三法師と呼ばれた。
天正10年(1582年)に本能寺の変で、信長、信忠死去の後、清洲会議で織田家の家督を継いだ。
文禄元年(1592年)に岐阜城主となり、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは西軍に味方して敗れ、岐阜の円徳寺に入って剃髪した。
その後、高野山に入ったが、山徒は快く迎えなかったので下山して、相賀荘向副村に閑居した。
「濃陽将士伝記(濃陽諸士伝記)」には、「紀州高野山に登り給ひしが、岐阜中納言殿は、(高野)聖を成敗なされ給ひしとて、高野に入れ申さざるに付、麓におはしける」と記されている。
その後、銭坂城主生地新左衛門尉 阪上真澄の娘「町野」を妻として、一子恒直をもうけたが、入山後2年で病気となり、慶長10年(1605年)に向副村で死去した。
江戸時代の「紀伊續風土記」には、「秀信卿の墓は高野山光台院の後の山に五輪塔ありて銘文も明なり、然して當寺(善福寺)にあるは此に居住せし故なるべし」と記されている。
位牌は、向副観音寺(明治25年に善福寺と合併)に祀られており、善福寺跡には、秀信の墓所と伝える自然石の墓石があり、織田秀信顕彰碑(「織田秀信公碑」)、松山タケノ頌徳碑が建てられている。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩10分。
織田秀信公碑は、和歌山県橋本市の善福寺跡にある。
大正7年4月に建立されたものである。
背面には、後裔 織田信之助、織田亀吉、松山タケノの他、発起人氏名等が記されている。
碑文は次の通り。
えっ!スマホで橋本の観光スポットが見られる?…。和歌山県橋本市のJR・南海橋本駅前に立つ「まことちゃん」が、可愛い正月姿に変身し、その胸元で1枚の<おしらせ>を示している。橋本駅の乗降客がふと立ち止まり、スマホでパシャッと挑戦、「おぉっ、応其寺が見える」などと感嘆している。
「まことちゃん」は、楳図(うめず)かずおさん作のギャグ漫画の主人公。クリスマスシーズンには、真っ赤な衣装を身につけて、サンタクロースに扮していたが、今は、雪ダルマの飾りを付けた帽子を被り、首から花模様の手袋を掛け、ぼんぼりのようなボタン付きの真っ白い服を着飾っている。
橋本商工会議所=畑野富雄(はたの・とみお)会頭=は今月下旬から、この「まことちゃん」を介して、駅の乗降客に「橋本の観光スポットを見てみらおう」と、AR(拡大現実)活用を試みた。
「まことちゃん」の首の<おしらせ>には、「橋本市の観光案内がスマホから話題のARでちょこっと見られます」と説明。その下に「アイホン」と「アンドロイド」の2種類のQRコードを表示して、「まず無料アプリをDL(ダウンロード)してください」と紹介。
さらにその下には、橋本市のマスコットキャラクター「はしぼう」のカラーイラストを表示。DLのあと「アプリを起動して下のはしぼうのイラストにかざしてください」と書いている。
実際にスマホでその通りのスマホ操作を行うと、橋本の繁栄の基礎づくりをした木喰応其上人(もくじきおうごしょうにん)を祀る応其寺、国宝・人物画像鏡が伝わる隅田八幡神社、国の重要文化財・利生(りしょう)護国寺、国の登録文化財・葛城館(かつらぎかん)、広大で緑豊かな杉村公園、金剛生駒紀泉国定公園の高山森林公園などとともに、戦後の紀の川祭りから進化した橋本・紀の川サマーボールや地元特産のパイル織物などの画像が現れる。
この「まことちゃん」の胸元に示しているQRコード=「アイホン」と「アンドロイド」=や「はしぼう」のキャラクターは、橋本商工会議所PHのトップページにも表示。観光スポットをアピールしている。
橋本駅前の活性化を図る「駅前一番計画」の一員で橋本商工会議所次長の豊澤康範(とよざわ・やすのり)さんは「皆さん、ぜひDLしてください。これからも、いろんな方法を考えながら、橋本の素晴らしさを紹介したい」と言っている。
写真(上)は<おしらせ>をぶら下げた正月姿の「まことちゃん」とそれを取り囲む家族連れ。写真(中)は「まことちゃん」からの<おしらせ>。写真(下)はクリスマスシーズンの「まことちゃん」。
弘法大師・空海の高野山開創1200年記念大法会を記念して、和歌山県橋本市のJR・南海橋本駅前に立つ漫画家・楳図(うめず)かずおさんのギャグ漫画主人公「まことちゃん」の石像が、高野山のマスコットキャラクター「こうやくん」に〝変身〟して、参拝・観光客らを楽しませている。
「まことちゃん」の石像は、幼稚園児よりも、やや大きめで、白襟(しろえり)に水色の制服、肩に黄色いカバンをかけ、右手で「ハイ、ピース」と、大きく口を開けた可愛い格好。土台は数字を刻んだ石をはめ替える「暦(こよみ)」になっていて、例えば5個の石を並べて「3」「月」「26」「日」(木)などと、表示する仕組み。
その「まことちゃん」が、今は、茶色い網代笠(あじろがさ)をかぶり、真っ黒い法衣をまとい、右手に錫杖(しゃくじょう)を持った、可愛い「こうやくん」に〝変身〟している。これは橋本商工会議所地域振興部が「高野山開創記念を盛り上げよう」と企画し、まちの活性化を図る有志「駅前一番計画」関連の「れもん・どろっぷす」が衣装などを制作。3月22日、同駅で行われた「撫で三鈷杵(なでさんこしょ)&ラッピング列車お披露目式」に合わせて、「こうやくん」に〝変身〟させたという。
まことちゃんは、まるで真言密教の悟りを求めて、全国を托鉢行脚(たくはつあんぎゃ)する修行僧のような出で立ちで、駅の乗降客は、思わず立ち止まって見つめたり、スマホで撮影して、友人知人に知らせたり。
駅前一番計画の一員で橋本商工会議所・中小企業相談所次長の豊澤康範(とよざわ・やすのり)さんは、「まことちゃんには高野山開創1200年記念大法会の期間中(4月2日~5月21日)、こうやくんになってもらいます。紀の国わかやま国体期間中は、橋本市がサッカー会場になるので、まことちゃんにはサッカー選手になってもらいます。それ以外にも春夏秋冬、服装は季節ごとに着せ替えて、駅前を楽しい雰囲気にする予定です」と言っている。
楳図さんは同県高野町出身、奈良県五條市育ちで、日本の漫画家、タレント、作詞家として名高い。「駅前一番計画」は平成14年(2002)、「まちの魅力の1つに」と、楳図さんに懇願し、快諾を得て設置。今では橋本駅のシンボルともなっている。
写真(上、下)は「こうやくん」に変身した「まことちゃん」。写真(中)は本来の「まことちゃん」。