織田秀信終焉の地は、和歌山県橋本市にある史跡である。
織田秀信(岐阜中納言)は、織田信長の嫡孫(信忠の長子)で、幼名は三法師と呼ばれた。天正10年(1582年)に本能寺の変で、信長、信忠死去の後、清洲会議で織田家の家督を継いだ。
文禄元年(1592年)に岐阜城主となり、慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは西軍に味方して敗れ、岐阜の円徳寺に入って剃髪した。
その後、高野山に入ったが、山徒は快く迎えなかったので下山して、相賀荘向副村に閑居した。
「濃陽将士伝記」には、「紀州高野山に登り給ひしが、岐阜中納言殿は、(高野)聖を成敗なされ給ひしとて、高野に入れ申さざるに付、麓におはしける」と記されている。
その後、銭坂城主生地新左衛門の娘「町野」を妻として、一子をもうけたが、入山後2年で病気となり、慶長10年(1605年)に向副村で死去した。
江戸時代の「紀伊續風土記」には、「秀信卿の墓は高野山光台院の後の山に五輪塔ありて銘文も明なり、然して當寺(善福寺)にあるは此に居住せし故なるべし」と記されている。
位牌は、向副観音寺(明治25年に善福寺と合併)に祀られており、善福寺跡には、秀信の墓と伝える自然石の墓石と遺跡保存の記念碑が建てられている。
記念碑の横に松山タケノ頌徳碑がある。
相賀八幡神社は、和歌山県橋本市胡麻生(ごもう)にある神社である。
かつての相賀北庄(現在の橋本市中央部、紀ノ川北部)のうち、橋本・古佐田・妻から紀見峠までを氏子圏とする総氏神で、「ごもうの八幡さん」として親しまれている。
祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、気長足姫尊(おきながたらひめのみこと)である。
「紀伊国神名帳」の天手力雄気長足魂住吉神に比定され、古くは、住吉大社の神々を祀っていた。
9世紀頃に、この地の豪族 坂上氏が石清水八幡宮から八幡神を勧請して合祀したといわれている。
「紀伊續風土記」には「(伊都)郡中の古詞五社の一つであり、村中十一ケ村の氏神なり---、即ち此れ八幡宮なるべし---(相賀)庄中の大社なり」と記されている。
天正9年(1581年)の春、織田信長の高野山攻めの後、高野山衆徒の反撃の際に当社も焼き討ちに遭って焼失した。
天正14年(1586年)在地武士の牲川海部が再興造営したと伝えられている。天正21年(1366年)刻銘の鳥居板額が残されている。
古くは、旧暦8月15日に八幡宮放生会が行われ、村々から山車が出された。
現在は、10月第2土曜に宵宮、翌日曜日に秋まつり(本宮)が行われ、屋形船をかたどった舟楽車などが参加する。
易産山護国院地蔵寺は、和歌山県橋本市にある高野山真言宗の寺院である。
天平9年(737年)に東大寺建立に関わった僧行基によって開かれたと伝えられている。
本尊の地蔵菩薩立像は、一切女人安産守護のため僧行基が安置したものである。
堂宇は、天正9年(1581年)の織田信長の高野攻めの際に焼失したが、本尊は人里離れた山中に難を逃れ、のちに村人に発見された。
その地は、「かくれがた」と呼ばれ、現在も残っている。
慶安3年(1650年)紀州徳川家初代藩主徳川頼宣により復興され、以来紀州徳川家の安産祈願所として、篤く信仰されてきた。
安産子授祈願の参拝者が多く、通称「子安地蔵」と呼ばれている。
近年は、「紀伊ノ国十三佛」、関西花の寺霊場第24番札所「藤の寺」としても知られている。
樹齢百年の古木を含め、8種類二十数本ある藤の開花時期(4月下旬から5月上旬)には、多くの参拝客で賑わう。
南海高野線御幸辻駅下車、徒歩約30分。藤の季節には、有料の参拝者駐車場が開設される。
隅田八幡神社は、和歌山県橋本市にある神社である。
社伝によれば、859年の建立という。
祭神は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)、息長足姫命(あきながたらしひめのみこと)、丹生都比売神(にうつひめがみ)、瀬織津比女神(せおりつひめがみ)で、中世には隅田荘の領主、石清水八幡宮の別宮であった。
正月15日の管祭り(くだまつり)は粥占神事として、管竹三本の束「舟」を小豆粥に入れて稲作の豊凶を占うもので、橋本市の無形民俗文化財に指定されている。
三本の竹筒は、穴一つが早稲(わせ)、穴二つが中稲(なかて)、穴三つが晩稲(おくて)で、小豆粥の釜に舟をつけ、神殿に供えた後、いずれの筒に多く米が入っているかを確かめ、参拝者に稲の作柄を宣言する。
神社に伝わる青銅鏡として、国宝の人物画像鏡がある。
江戸時代後期に、現在の橋本市妻で刀剣や土器とともに発見されたと伝えられ、我が国最古の金石文の一つして知られている。
直径19.9センチの国宝は東京国立博物館に寄託されており、境内では、国宝記念碑で拡大したものを見ることが出来る。
利生護国寺は、和歌山県橋本市下兵庫にある真言律宗の寺院である。
聖武天皇が行基に命じて建て、鎌倉時代に再興されたと伝えられている。利生とは、「利益(りやく)衆生」の意味で、仏・菩薩が衆生に利益を与えること、またその利益を指す。
覚王山利生院と号し、通称で大寺さんと言えば、伊都地方ではこの寺を指す。中世には地名に因んで兵庫寺などとも呼ばれ、隅田一族の氏寺として栄えた。
本尊は行基作と伝えられる木造大日如来像で、和歌山県の重要文化財に指定されている。
本堂は、一重寄棟造、本瓦葺き、朱塗りの建物で、南北朝期の天授年間(1375-81)に再建されたもので国の重要文化財に指定されている。
本堂北側に、裏山の斜面から移転した隅田一族の墓石群があり、「元中元年(1384年)」銘の墓石もある。
「紀州名所図会」によると、本堂裏に豊臣秀吉が高野山参詣の帰路、馬をつないだと伝える駒繋松があったが、風で倒壊したと伝えている。
2年に一度、大茶碗でお茶をいただく「大茶盛」が開催される。
JR和歌山線下兵庫駅下車、徒歩5分。本堂北側には、参拝者用の駐車場がある。
真田庵は、和歌山県伊都郡九度山町にあり、正式には、善名称院という高野山真言宗の寺院である。伽羅陀山と号し、本尊は地蔵菩薩が祀られている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗れた真田昌幸・幸村父子が配流された屋敷跡と伝承されており、門には、真田家の紋である六連銭と結び雁金が彫られている。
寛保元年(1741年)に、九度山出身の僧大安上人が真田昌幸の墓所を寺にしたのが始まりとされている。
大安上人は、盛んに土砂加持信仰を行い、清浄な小石を納める土砂堂を創建し、江戸時代に再建された宝形造り三間堂がある。
本堂は、八棟造と呼ばれる建物で、桃園天皇から許しを得た菊の紋が瓦に彫られている。
真田昌幸の宝篋印塔が残り、真田安房守昌幸墓地として、九度山町の文化財に指定されている。
5月には、真田庵を中心に真田幸村をしのぶ真田祭りがおこなわれ、真田十勇士などの武者行列が出る。
南海電鉄高野線九度山駅から徒歩5分。南側道路沿いに、町営駐車場がある。(Y.N)
九度山・真田ミュージアムは、和歌山県九度山町にある。
真田昌幸・幸村(信繁)・大助 三代の物語を長く後世へと語り継ぐことを目的として、平成28年(2016年)3月に開館した。
真田昌幸(1547-1611)は、信濃国上田城を本拠地に、上杉、徳川、北条の勢力に囲まれながらも、智謀を駆使して戦国時代を生き抜いた武将として知られる。
徳川の大軍を二度破ったが、関ケ原の戦いで西軍に与したため、高野山蓮華定院に配流となり、九度山で生涯を閉じた。
真田幸村(1567-1615)は、真田昌幸の次男として生まれ、上杉家や豊臣家で人質として過ごした。関ケ原の戦いで父とともに蟄居となり、九度山で14年間を過ごした。
大坂冬の陣では、真田丸を築いて活躍したが、大坂夏の陣では、壮絶な最期を遂げた。徳川家康をあと一歩のところまで追い詰め、「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。
真田大助(1603-1615)は、九度山で生まれ、幸村とともに大坂の陣に参戦し、豊臣秀頼とともに大坂城で切腹した。
ミュージアムでは、九度山での真田三代の雌伏の生活を紹介するとともに、上田時代、大坂の陣、真田伝説などがパネルや映像で紹介されている。
また平成28年放送のNHKドラマ「真田丸」に因んで、大河ドラマ展が開催されている。
南海電車高野線九度山駅下車、徒歩10分。道の駅「柿の郷くどやま」の駐車場を利用できる。(Y.N)
くにぎ広場は、和歌山県橋本市南馬場にある農産物直売所である。
当初は、平成24年(2012年) 学文路天満宮鳥居西側に店舗がオープンした。
平成27年(2015年4月)に、「紀の川フルーツライン」沿いの高台に建物が建設されて移転したものである。
くにぎ広場・農産物直売交流施設組合が運営しており、「はたごんぼ」をはじめ、地元の野菜・花・果物を販売している。
コロッケやはたごんぼの炊き込みご飯などの惣菜も販売している。
「はたごんぼ」は、橋本市西畑地区で生産される、太くて長い香りの高いごぼうで、一度栽培が途絶えた地元伝統野菜を復活したものである。
はたごんぼは11月から3月頃まで販売される。
店舗北側には、見晴らしの良い場所に椅子が置かれており、紀ノ川や和泉山脈を一望に望むことが出来る。
南海高野線紀伊清水駅下車、徒歩30分。無料駐車場がある。