霊鷲山世尊寺(史跡 比曽寺跡)は、奈良県大淀町にある曹洞宗の寺院である。
本尊は、阿弥陀如来坐像で平安中期の作である。
寺伝に聖徳太子創建とされ、役行者が金峯入峯前にこの地で修行したので行者道分道場という。
吉野寺、比蘇寺、現光寺、栗天奉(りつてんほう)寺、とも称する。
「日本書紀」に欽明天皇14年(553)、天皇が河内の海に流れ着いて放光の樟で造らせた仏像がこの寺(吉野寺)に安置されたと記されており、日本書紀編修以前に吉野寺が存在していた。
「扶桑略記」推古天皇3年条に、吉野比蘇寺と記され、栴檀香木で観音像を安置している。
寺跡から出土する古瓦の調査で、少なくとも飛鳥時代に堂塔が建てられ、その後東西両塔、金堂、講堂(現本堂の位置)を備えた薬師寺式の伽藍配置が完成したと考えられている。
寺が隆盛した奈良時代には、唐の帰化僧 神叡や道璿が当寺で仏学を修めて法隆寺へ入り、聖宝が入寺して弥勒像、地藏像を造立したと伝えられている。(聖宝僧正伝)
平安時代には、清和上皇、宇多上皇が行幸しており、藤原道長も参詣するなど、寺勢は栄え、現光寺と呼ばれた。
鎌倉時代に西大寺末真言律宗となり、再建された東塔は、文禄3年(1597)豊臣秀吉によって伏見城に移され、さらに慶長6年(1601)徳川家康が近江の園城寺(三井寺)に移建した。三井寺の三重塔が現存している。
享保年間(1716-36)には、曹洞宗に転宗して、寺号を世尊寺と改めた。
本堂北側には芭蕉句碑がある。
壇上桜
世にさかる 花にも念佛まうしけり ばせを
貞享6年(1688)春4月に、松尾芭蕉が弟子の杜国を伴って当寺に参拝し、聖徳太子手植えと伝わる壇上桜を眺めて詠んだ句である。