初代哥澤之歌碑

初代哥澤之歌碑は、和歌山県高野山奥の院32町石南西にある。
法然上人(圓光大師)供養塔と参道を挟んだ反対側で、参道から約10m入った所に同型の石碑が2基建立されている。
北側(御廟側)の歌碑には次のように刻されている。(山内潤三氏「高野山詩歌句碑攷」) → 高野山内の歌碑、句碑、詩碑
(西面)
    浅しとてきき流さめや哥澤の
     ふかきこゝろは知る人そしる
 初代哥澤芝三太夫之碑
    建立主 哥澤芝愛
(東面)
  昭和四年八月廿一日建
    菩提所 増福院
南側(一の橋側)の石碑には次のように刻されている。
  哥澤芝幹太夫
           之碑
  哥澤芝亀

うた沢は、邦楽の種目で、うた沢節の略である。安政4年(1857)江戸に起こった三味線小歌曲で、端唄に源を発する。
芝金(しばきん)、寅右衛門(とらえもん)という二つの家元があり、芝派が哥沢、寅派が歌沢と冠名を書くことから、総括した名称を、「うた沢」と表記することが、大正初期から行われている。

水谷三郎氏編著「二世哥沢芝勢以伝」の物故師匠略歴には、石碑に記された人物について、次のように紹介されている。
初代芝愛
名古屋にて三代目の教を受け後東京にうつり、大正元年二月四代目の名取になり、師匠になる。
後に初代芝三太夫と結婚し、糸の名手として大いに活躍す。後年味の素夫妻の一方ならぬお世話になり、昭和三〇年十一月十九日86才の高齢にてガンの為歿す。
芝幹太夫
芝美祢の取立にて大正六年四月十日名取となり、大阪寿司の主人芝亀と結婚して大阪にて師匠となり、関西睦会を作り、師弟を多く送り、芝亀の死後味の素夫妻の保護を受け、味の素鈴木会長宅にて胃ガンのため歿す。
二代目芝亀
明治三十八年四月十九日二代目芝亀として名取、柳橋に哥沢芸者として活躍、後芝幹太夫と結婚し大阪に行きて師匠となり、師弟も多く送り出し、糸の名手として名を残す。





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