多賀谷重経供養塔

多賀谷重経供養塔は、和歌山県高野山奥の院の中の橋南西にある。
中の橋西側の側道を南側に下り、約10m進んだ右手にあり、磐城三春藩秋田家供養塔のすぐ下の段に位置する。
愛甲昇寛氏「高野山の石塔美術」及び木下浩良氏「はじめての高野山奥之院の石塔入門」によると、総高111cmの砂岩製無縫塔で、次のように刻されている。
(北面)(梵字)為覚心祥円大居士逆修
(東面)(梵字)
(南面)文禄三年 た可や志ゆりの大夫平志けつ祢きやく□ 五月 日
(西面)(梵字)

多賀谷重経(しげつね)(1558-1618)は、常陸国下妻城主で、当地の供養塔は文禄3年(1594)に逆修塔として建立された。
多賀谷氏は、下総の結城氏の重臣であったが、主家からの自立を計り、16世紀には現在の茨木県下妻市域を中心に支配領域を拡大した。
多賀谷政経の代には、常陸・北下総に20万石相当の領地を持っていた。
多賀谷重経は、政経の子として生まれ、天正4年(1576)に家督を継いだ。
佐竹義重と結び、勢力拡大を図ったが、朝鮮出兵の際に、結城秀康の指揮下になる事を拒み、文禄元年(1592)には下妻城を没収され、豊臣秀吉の命を受けた徳川秀忠らに城を破却された。
その後、領地没収となり、各地を放浪の末に末子の茂光が仕えていた彦根藩を頼り、61歳で病死した。
茨木県下妻市の覚心院跡に墓所がある。



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