藤巖神社(とうがんじんじゃ)は、和歌山県田辺市の闘鶏神社境内にある。
祭神は、安藤直次公(藤巖公)で、明治19年(1886)に、現在の田辺の原形を作った紀伊田辺藩主 安藤直次の功績に感謝し、遺徳を崇敬するため、有志によって建立された。
安藤直次(1555-1635)は、幼少から徳川家康に近侍し、姉川の戦いや長篠の戦いで功績を挙げた。小牧・長久手の戦いでは、池田恒興や森長可を打ちとるなど多くの合戦に従軍し、のちに老中として本多正純らと徳川幕府の中枢を担った。
慶長15年(1610)徳川家康の第十子 頼宣の傅役(もりやく)となり、慶長19年(1614)からの大坂の陣には、付家老として年少の徳川頼宜に従って参戦している。
大坂夏の陣では、嫡子の重能が戦死するも、軍の立て直しを優先し、臣下としての忠義を尽くした。
元和元年(1619)徳川頼宣が紀州に移ると、紀州徳川家の付家老として田辺に封ぜられ、3万8800石の所領を与えられた。
直次が初めて田辺に来た時、入城すべき湊城は廃城となっていたため、民家に宿泊したといわれる。
その後、屋敷城(後の錦水城)の築城と城下町の整備が進み、以来田辺は明治に至るまで安藤氏の城下町として発展を遂げた。→ 田辺城跡
安藤直次は、寛永12年5月13日(享年81)に没した。位牌は、田辺市内の慈航山海蔵寺に安置されており、墓所は三河国碧海郡(愛知県岡崎市大和町)の桑子山妙源寺にある。
法名が「藤巖院殿崇賢居士」であるため、「藤巖公」と呼ばれている。当神社の例祭日は5月13日である。
本殿前には、安藤直次が、領内の痩せ地や山の斜面に梅の栽培を奨励して、紀州の名産物となった経緯が記された案内板が掲げられている。
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