山口誓子句碑

山口誓子句碑は、和歌山県高野山奥の院にある。
句碑には、「夕焼けて西の十萬億土透く 誓子」と刻されており、
裏面には「昭和三十六年六月建之 金剛峰寺」とある。

「晩刻」に収録された句で、平田永朝氏の解説に次のように記されている。
 山口誓子は、「芭蕉の精神に復帰して、真の伝統の道を俳句に貫ぬく」ことを自らに課し、水原秋桜子と共に現代俳句の出発点を築いた。
俳句は、美しく荘厳な夕焼けに立てば、あたかも十万億土の彼方にあるという西方弥陀の浄土が透き通って望まれるかの様であるーと忘我の心境を詠ったものである。
 誓子は昭和十六年から同二十八年までの十二年間、三重県鈴鹿市富田の海岸で療養生活を送ったが、眼前に炎え拡がる大夕焼をわが身に引き較べてこの句を得た。

当初は、西側がひらけている奥の院英霊殿参道入口に建てられていたが、その後東側の中の橋駐車場御廟間の参道沿いに移設された。

「私の旅日記」の説明では、次のように記されている。
 西の天、真紅に夕焼け、一切空。遥かに遥かに十万億土が見える。透いてありありと見える。
 自分の句だが、高野山にはもってこいの句だ。
 建てるとすれば、(西側の展望が望める高野山)大門の前が最も然る可きであるが、
 そこにはすでに木国の句碑が立っているから、ずっと退いて(奥の院の)脇参道に西を向いて立つことになったのである。
 そこも西に展けている。
 はじめ白象師が建碑のことを云われ、句を求められたとき、私は
  高野より雲加わりて鰯雲
 という句を提出した。
 その句は、採用されなかった。「鰯雲」は「雲」ではあるが、「鰯」は魚扁の生臭い字であるという理由で。
 結局、私が昭和二十一年、伊勢で作った十万億土の句が採用された。
 私のこの句は、ゆかりの地のゆかりの句とは云えぬが、知らぬひとは欺かれる。

山口誓子(1901-1994)は、京都生まれの俳人で、本名は新比古(ちかひこ)といった。
京大三校俳句会に加入し、ついで東大俳句会で、水原秋桜子に兄事、高浜虚子に師事した。
水原秋桜子、阿波野青畝、高野素十とともに、「ホトトギスの4S」と称された。
戦後の俳句復興にも尽くし、昭和45年(1970)紫綬褒章を受章している。→ 高野山内の句碑


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