義経馬つなぎの松(義経公御陣の跡)は、神戸市北区の神戸市立鵯越墓園内にある。
高尾山の西側で、きりしま地区と鵯越合葬墓の中間に位置している。
墓園内の車道から約20m登った先に観音像があり、その左手30mのところに案内板があり、次のように記されている。
義経馬つなぎ松 (義経公御陣の跡)
1184年2月6日(現3月26日)晩、福原に集まった平家10万の軍勢を攻めるため、義経の軍勢がここに集まり、合戦の相談をした。
高尾山山頂より眼下を見ろすと、和田岬の周辺には総大将宗盛と安徳天皇を守る平家の軍勢が篝火を焚き、火の海をつくっていた。
義経は平家がつくる火の海を海女が藻塩を焼いている火と見なし、「海女に逢うのに武具はいらない」と笑いとばした。
山頂から戻った義経が、武者たちが囲む焚き火の中に加わると、枝ノ源三(えだのげんぞう)が、翁と16才と13才の兄弟を連れて来た。
義経はこの兄弟を道案内人として戦うことに決め、70騎の逆落としの部隊と、逆落としを助ける岡崎四郎の軍勢とに分けた。
翌朝、わずか70騎で10万の平家を敗走させる、「鵯越の逆落とし」と呼ばれる有名な戦いが行われた。無数の軍勢に立ち向かう勇気と、危険な崖から逆落としをした義経の勇気は、後々まで語りつがれている。
後に、ここは「義経公御陣の跡」と呼ばれ、ここにあった古松を「判官松(ほうがんまつ)」または「義経馬つなぎ松」と呼び伝え、昔の人が大切にしていた。
文責:兵庫歴史研究会 設置:墓園管理センター
当地の松は、昭和30年(1955)頃に害虫により枯れ死したという。
鵯越墓園南門には、史跡 鵯越の碑がある。→ 源義経ゆかりの地
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