源義経 弁慶ゆかりの地 
義経千本桜ゆかりの地


源義経 弁慶ゆかりの地 義経千本桜ゆかりの地を紹介します。

牛若丸生誕ゆかりの地

牛若丸生誕ゆかりの地(牛若丸産湯井・牛若丸胞衣塚)は、京都市北区紫竹牛若町にある。
源義経(1159-1189)(幼名「牛若丸」)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147-1199)の異母弟で、平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した武将である。
当地には、平治元年(1159)に牛若丸が生まれた際、産湯として使われたと伝わる井戸とそれを示す石碑が残されている。また、後方に見える松の木の根元には胞衣塚(えなづか)があり、牛若丸の胞衣を埋めたといわれている。
江戸時代末期ころまでは、ここに牛若丸産湯大弁財天女社があったという記録もある。
京都市営地下鉄北山駅からバスで常徳寺前下車、徒歩5分。





常盤井

常盤井は、京都市北区にある。
源義朝(1123-1160)の邸宅がこのあたりにあったと伝えられ、その邸宅に源義経(1159-1189)の母 常盤御前が住み義経を産んだともいわれる。→ 牛若丸生誕ゆかりの地(牛若丸産湯井・牛若丸胞衣塚
紫野周辺には、義経母子に関する伝承が多くあり、この碑が示す常盤井は京都の名水の一つである。
江戸時代の地誌によると、常盤御前に因んで名付けられたともいわれる。
寛文12年(1612)に建立された石碑には、次のように霊泉の功徳をたたえる内容が刻されている。
  常盤井
     清水宗善誌之
 願以此功徳
 平等施一切
 同発菩提心
 往生安楽国
  寛文十二壬子歳
  十月十五日





弁慶腰掛石

弁慶腰掛石は、京都市北区にある。
民家の裏庭に、弁慶が腰掛けたという大石がある。→ 弁慶の腰掛石
当地の案内板には、次のように記されている。
  弁慶腰掛石
義経の郎党 紀州熊野の別当弁しよが二位大納言の姫君に産ませた子
又弁心の子湛*(かんどう)の子とする説もある *は、「増」の右上が「そいち」(並の上部分)
鬼若と名付けられ 六才の時 比叡山延暦寺西塔の桜本の僧正に預けられ 学問には熱心で頼もしい若者に成長
十八才のころから怪力を頼みにした武蔵坊は乱暴狼藉が目立ち 太刀千本目奪うためこの石に座り牛若丸と出合い敗れ御曹司と知って主従となる
(承安四年)一一七四年三月奥州へ旅立ったと記録されている




鞍馬寺

鞍馬寺は、京都市左京区鞍馬本町にある鞍馬弘教(こうきょう)の総本山である。
松尾山(しょうびざん)金剛寿命院(こんごうじゅみょういん)と号する。
開山当時は律宗、その後真言宗、天台宗となり、昭和24年(1949)に天台宗を離脱して単立寺院となった。

「鞍馬蓋寺(あんばがいじ)縁起」によると、鑑真の弟子 鑑禎(がんちょう/がんてい)上人が、宝亀元年(770)鞍を負った白馬の導きで当山に至り、毘沙門天を感得して草庵を結んだのが始まりである。
さらに延暦15年(796)、造東寺長官の藤原伊勢人(いせんど)が、観世音菩薩を祀る霊地を求めていたところ、貴船明神(きぶねみょうじん)の導きで当地に至り、観音像を刻んで毘沙門天の脇に安置し、伽藍を造営したのが現在の鞍馬寺の起源といわれる。

寛平年間(889-898)には、東寺の十禅師峯延(じゅうぜんじぶえん)上人が鞍馬寺の別当になり寺域が整備されて、中興の祖と言われている。
峯延上人が護摩の修行中、襲ってきた大蛇を法力で斃し、朝廷から賜った人夫がそれを切り刻んで龍ケ嶽に捨てたと伝えられ、これが「竹伐り会式」の起源となった。
朝廷武家庶民の幅広い信仰を集め、白河上皇や関白藤原師通(もろみち)の参詣や清少納言の来山などの記録が残されている。
山の精霊である天狗が住む山としても有名で、7歳から10年間東光坊で修行したと伝わる牛若丸(源義経)ゆかりの「息次ぎの水」や「背比べ石」などの史跡がある。
境内にある由岐神社の少し北、東光坊の跡地と言われる場所に源義経公供養塔が建てられている。

本殿金堂には、千手観音、毘沙門天、護法魔王尊が、月、太陽、大地をあらわして、三身一体(さんじんいったい)尊として祀られ、「尊天」と呼ばれる。
国宝の木造毘沙門天三尊像、鞍馬寺経塚遺物のほか、多数の寺宝を有しており、鞍馬寺霊宝殿に展示されている。
大正、昭和期の復興に努めた信楽真純(しんじゅん)(後に香雲と改名)が与謝野晶子の直弟子であったことから、昭和51年(1976)に晶子の書斎「冬柏亭(とうはくてい)」が移築され、与謝野鉄幹晶子夫妻の歌碑が建立されている。
叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅下車、本殿金堂まで徒歩約30分。山門駅からケーブル利用で多宝塔駅下車徒歩5分。



鬼一法眼の古跡

鬼一法眼の古跡は、京都市左京区鞍馬本町にある。
叡山電鉄貴船口駅の東で、鞍馬小学校南の鞍馬街道沿いにある。
鬼一(きいち又はおにいち)法眼は、義経伝説に登場する法師陰陽師で、六韜(りくとう)兵法を伝授していたとされる。
朝廷に仕える安倍氏や賀茂氏などの陰陽師と違い、紙冠を被った法師の姿で陰陽道の祈祷に従事していたのが法師陰陽師である。
「義経記」によると、奥州にくだった義経が都にのぼり、武芸に長じて従者を形成する話が盛り込まれ、その中で鬼一法眼が登場する。
上洛した義経は、一条堀河に住む鬼一法眼という法師陰陽師が16巻の兵法の書を秘蔵していることを知って、屋敷に直接乗り込んだが、即座に断られた。
そこで法眼の娘と懇ろとなり、娘の手引きでこの兵法書をひそかに写し取った。
怒った法眼は、弟子を使って義経を殺させようとするが、逆に弟子は殺され、娘も嘆き悲しんで死んでしまうという物語である。
鬼一法眼は、御伽草子「判官都ばなし」や謡曲「湛海」にも登場し、浄瑠璃では「鬼一法眼三略巻」が有名で、歌舞伎でも上演されている。
叡山電鉄貴船口駅下車、徒歩3分。





逆櫓の松跡

逆櫓の松跡は、大阪市福島区の関西電力病院北側にある史跡である。
現地の案内板には、次のように記されている。
逆櫓(さかろ)の松跡
 「平家物語」の逆櫓の段によれば、一一八五年二月、源義経は、平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。
 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で協議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」と提案した。
しかし義経は「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。
 結局逆櫓をつけることをせず、夜に入って義経は出陣しようとした、折からの強風を恐れてか、梶原景時に気兼ねしてか、それに従ったのは二百数艘のうちわずか五艘であったが、義経は勝利をおさめた。
 その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。この地には、江戸時代の地誌「摂津名所図会」によれば、幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。この松を逆櫓の松と呼んだ。
 逆櫓の松は、近代に入るころには、既に枯れてしまっていたらしい。
                             大阪市教育委員会

人形浄瑠璃 文楽の「ひらかな盛衰記」は、「源平盛衰記」を平仮名にやさしく絵解きしたという意味で付けられた題名であるが、
角書(つのがき)(本名題の上に内容を示すタイトルを二行に割って書いてあるもの)には、「逆櫓松(さかろまつ)」「矢箙梅(えびらのうめ)」と書かれている。→ 生田神社 箙(えびら)
ひらかな盛衰記の「松右衛門内から 逆櫓の段」では、大きな松の前で立ち回りが演じられて次のように語られる。
涙に咽ぶ腰折松 余所の千歳は知らねども 我が身に辛き有為無情 老いは留まり若きは逝く
世は逆様の逆櫓の松と 朽ちぬその名を福島に 枝葉を今に残しける




源平史蹟 戦の濱碑

源平史蹟 戦の濱碑は、神戸市須磨区須磨浦公園内にある。
「一の谷」は、鉄拐山と高倉山との間から流れ出た渓流に沿う地域で、一の谷から西一帯の海岸は、源平の戦いにおける「一の谷の合戦」の舞台となったことから、「戦の濱」といわれている。
一の谷川は上流で東西2つに分かれ、東の一の谷川本流に対し、西の支流の谷を「赤旗の谷」といい、寿永3年(1184)2月7日の一の谷の合戦では、平家の赤旗で満ちていたと言われる。
そのため、毎年2月7日の夜明けには、松風と波音のなかに軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられる。
山陽電鉄須磨浦公園駅下車、徒歩8分。須磨浦公園駅前に有料駐車場がある。




福祥寺(須磨寺)

福祥寺(須磨寺)は、兵庫県神戸市須磨区にある真言宗の大本山である。
正式には、上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)というが、風光と史跡の地「須磨」を代表する寺として、古くから「須磨寺」の通称で呼ばれている。
開創は、平安初期の仁和2年(886年)、光孝天皇の勅命を受けた聞鏡(もんきょう)上人が、上野の地に七堂伽藍を建立し、50年ほど前に漁師が和田岬で引き揚げた聖観世音菩薩を本尊として祀ったことにはじまる。
源平ゆかりの寺としてよく知られており、本堂南には、平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの姿が再現された源平の庭がある。
境内にはほかに、弁慶の鐘、義経腰掛松、敦盛首塚などの史跡、伝承地があり、宝物館には平敦盛遺愛の「青葉の笛」等が展示されている。
当寺所蔵の宮殿(くうでん)(仏像を安置する御殿)と仏壇は、下層が唐様、上層が和様の折衷様でほかに類例の少ない遺様で、国の重要文化財に指定されている。
山陽電鉄須磨寺駅下車、徒歩5分。参拝者用の駐車場がある。




大物主神社

大物主神社(おおものぬしじんじゃ)は、兵庫県尼崎市にある。
祭神は、大物主大神(大国主命)、市杵島姫命(弁財天)ほかである。
社伝によると、第10代崇仁天皇の時代に、天皇が御幣を大物主大神に奉り病気平癒を祈願して大和の三輪山に大物主大神が祀られ、
大神八世の孫 大田田根子命の後裔 鴨部祝が祖神を当地に奉斎したのがはじまりである。
平治元年(1159)平清盛が芸州厳島神社を参拝した時、祭神 市杵島姫命をこの大物(だいもつ)の社に合祀した。
当時の大物の沖合は謡曲や浄瑠璃の 船弁慶千本桜などにも謡われている。
鎌倉時代は「若宮」と呼ばれていた大物の浦から船出した源義経主従も神社隣に宿をとり無事平安を祈ったといわれている。
その後寛永年間に宗像三柱神の故事にならって多岐都姫命、多紀理姫命を合祀し、また相殿神として西宮大神、菅原道真公等が配祀されている。
境内には、義経辨慶隠家跡の石碑及び汁醤油発祥地の石碑が建立されている。

義経辨慶隠家跡

義経辨慶隠家跡の石碑は、大物主神社拝殿の西横にある。
当初は、昭和3年(1928)昭和天皇即位を記念して、尼崎青年団、尼崎市在郷軍人聯合分会、尼崎婦人会、尼崎教育会の四団体の連合事業として行われた建碑事業の一環で、
神社東側の道路上に建てられていたが、太平洋戦争の空爆で焼失していた。
そのため、昭和54年(1979)に畑中修 宮司が、現在地に再建したものである。

大物は古くから瀬戸内海地域と大坂を結ぶ水上交通の要所として栄えた。
平家物語や吾妻鏡には、都落ちした源義経が西国へ下るため大物から出船したとあり、謡曲「船弁慶」では、大物浦から出船した義経一行に平知盛の怨霊が襲い掛かる様子が描かれている。

人形浄瑠璃 文楽 時代物の三大名作の一つとして知られる「義経千本桜」渡海屋・大物浦の段では、
源頼朝から追討される源義経、弁慶主従が、九州の尾形を頼って船出するため、平知盛が変装した渡海屋銀平の宿に逗留する様子が、次のように描かれている。
 時 元暦二年(1185)八月二十八日あるいは文治元年(八月改元)九月
 所 摂津国尼崎大物の浦、渡海屋銀平内
夜毎日ごとの入船に 浜辺賑ふ尼が崎、大物の浦に隠れなき 渡海や銀平 海をかかへて船商売 
店は碇帆木綿(いかりほもめん) 上り下りの積荷物 はこぶ船頭水主(かこ)の者 人絶のなき船問屋 世をゆるかせに暮しける
(出典 竹田出雲 並木宗輔 浄瑠璃集 新日本古典文学体系93 1991年)





つるべすし 弥助

つるべすし 弥助は、奈良県下市町にある。
歌舞伎 文楽の義経千本桜鮨屋の段に登場する「釣瓶鮨屋」として知られている。
建物外観と内部は、茶の湯的・建築 庭園 町並み観賞録に詳しい。

釣瓶鮨屋由緒には、次のように記されている。
大和吉野川の鮎を鮨となし、釣瓶形曲桶に漬けて釣瓶鮨をつくる。
其の形釣瓶に似たるを以てその名あり遡る千余年前に始まる。
文治年間三位中将維盛卿八島(屋島)敗軍の後逃れて遂に熊野に先行せらるゝの途次、
父平重盛公の旧臣宅田弥左衛門の家に久しく潜匿せらるゝに際し名を弥助と改む。
世俗伝うる処の「院本義経千本桜」其の三段中託する処の釣瓶鮨屋弥左衛門は即ち宅田弥助の祖先なり。
其の頃今の庭園を築き維盛塚、お里黒髪塚 お里姿見の池など此の内に存在せり。
爾来系統連綿相継ぎ釣瓶鮨商を業となし以て今日に達す。
慶長年間後水尾天皇の朝に当り仙洞御所へ鮎鮨献上せしむるの命あり
それより「御上り鮨所御鮨屋弥助」と格式御許容相成り自今屋上に揚ぐる処の招牌は御所より賜ふ所なり。
     四九代店主 宅田弥助 謹白

竹田出雲、三好松洛、並木千柳作の「義経千本桜」では、次のように浄瑠璃節が語られる。
春はこね共 花咲す 娘が漬た鮓(すし)ならば なれがよかろと 買にくる
風味も吉野 下市に売弘(うりひろめ)たる所の名物 釣瓶鮓(つるべずし)やの弥左衛門
留守の内にも 商売にぬけめも 内儀が早漬に 娘お里が肩綿襷(かただすき)裾に
前垂ほやほやと 愛に愛持つ鮎の鮓 押へてしめて なれさする
味(うま)い盛の振袖が 釣瓶鮓とは 物らしし
(出典 新日本古典文学大系 93 竹田出雲 並木宗輔 浄瑠璃集)





いがみの権太の墓

いがみの権太の墓は、奈良県下市町阿知賀にある。
歌舞伎「義経千本桜」すし屋の段に登場するいがみの権太の墓である。
源平の戦いに敗れ吉野の地に逃れてきた平維盛を、自らの命を落としてまで救う人物として描かれている。
その忠義談から、下市町のマスコットキャラクター「ごんたくん」にもなっている。




金峯神社  
義経隠れ塔

金峯神社は、奈良県吉野町にある神社である。
吉野山の総地主の神で,金鉱を守る金山毘古神(かなやまひこのかみ)を祀る延喜式式内社である。
吉野八社明神のひとつで、金精大明神(こんじょうだいみょうじん)、金山明神などと呼ばれてきたが、その創建は定かではない。
金峯というのは、このあたりから大峰山にかけての総称で、古来地下に金の鉱脈があると崇められ、鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」には、この山で黄金を得たという物語が載っている。
これは、仏教説話として、金峯山は黄金浄土であるという観念から生まれたと言われている。

中世以来、さかんに御嶽詣(みたけもうで)が行われ、関白藤原道長がここに参ったことが「栄華物語」に記され、その時の経筒が社宝として伝えられている。→ 藤原道長ゆかりの地
金銅藤原道長経筒は、寛弘4年(1007年)8月11日と記され、紀年銘のある最古の経筒として、国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されている。
また、村上義光所用の鉄鐔卒塔婆透シは重要文化財に指定されている。
2004年には、紀伊山地の霊場と参詣道として、世界遺産に登録された。

金峯神社から小道を下った所には、義経隠れ塔がある。
文治元年(1185年)、源義経がこの塔に隠れ、追手から逃れるために屋根を蹴破って外に出たため、「蹴抜けの塔」とも言われている。
塔のすぐそばには展望台があり、吉野の山並みを望める。
歌舞伎の義経千本桜では、吉野山の蔵王堂近くの河連法眼館や花矢倉が舞台となっている。
近鉄吉野線吉野駅からバスで奥千本口駅下車、徒歩5分。




吉水神社

吉水神社は、奈良県吉野町にある神社である。
もとは役小角が創建した吉水院という金峯山寺の塔頭の一つであったが、明治時代に神仏分離が行われ、明治8年に「吉水神社」と改められた。
吉水神社は、様々な時代の歴史の舞台となったところとして知られている。
文治元年(1185年)源義経が静御前や弁慶とともに身を潜めた所で、延元元年(1336年)には、吉水院宗信が後醍醐天皇を迎え、しばらく行宮とした。文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が盛大な花見を催いた時には、本陣となった。
本殿は、寺であった時の護摩堂で、後醍醐天皇を祭神とし、楠木正成と吉水院宗信法院を合祀している。
入母屋造、檜皮葺の書院は、日本住宅建築史上最古の書院として、世界遺産に登録されている。
書院内部には、室町時代初期の様式である義経潜居の間、桃山時代の様式である後醍醐天皇玉座の間がある。
また、豊臣秀吉愛用の金屏風など多くの文化財が展示されている。
近鉄吉野線吉野駅からロープウェイで吉野山駅下車、徒歩20分。





うたたね橋跡

うたたね橋跡は、奈良県吉野町の「夢のわだ」から30m南にある。
石碑には、次のように刻されている。
うたたねのはし
義経がうたたねの橋と親しまれし この橋の名を古への書に尋ぬるに 遠く平安の昔 恵慶法師の家集に
はしの名を なほうたたねときく人の
きくはゆめちか
うつつなからに
とあり 清少納言も 枕草子に
はしは、あさんつのはし
なからのはし とつつけて
うたたねのはしの名を記したり。
一名を外象(とげさ)橋といふ
この橋 昭和二十六年の頃まで 檜皮葺の屋形橋として存せしを
その朽ち果てしを惜しみて 茲に記念の碑を建つ
昭和五十七年八月
吉野秋津野俳句会 建立
(東面)
吉野秋津野俳句会創立十周年記念
吉野町協賛

吉野町の案内板によると、桜木神社の前の象の小川に架かる「こぬれ橋」と同じような橋が、昭和36年頃まで象の小川が「夢のわだ」に注ぐ少し上の所に架けられていた。
「文治の春、源義経の吉野落の時 疲労のためこの橋の上でうたた寝をした。」という故事からこの名がつけられたと伝えられている。


鈴木屋敷

鈴木屋敷は、和歌山県海南市にある。
ここには、全国200万といわれる鈴木姓の元祖(ルーツ)とされる藤白の鈴木氏が住んでいた。
平安末期ごろ(1150年頃)上皇や法皇の熊野参詣が盛んとなり、熊野の鈴木氏がこの地に移り住み熊野三山への案内役をつとめたり、この地を拠点として熊野信仰を全国に普及すべく、3300余りの熊野神社の建立につとめた。
なかでも鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟は有名で、幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野の往還にこの屋敷に滞在し、重家、重清らと山野に遊んだとも伝えられている。
後に義経の家臣として衣川の戦いで共にその生涯を終えたと伝えられているが、三郎重家は秋田の山奥に難を逃れ、落ち武者として土着帰農したともいわれ、
鈴木家の分家として、現在の秋田県羽後町に歴史を継承し、その屋敷は国の重要文化財に指定されている。
現存する鈴木屋敷は江戸時代後期に建てられた。
敷地内には、幼少期に滞在した源義経ゆかりの松や、「曲水泉」という平安様式の庭園も現存している。
地元の海南市では、「鈴木屋敷」の復元に取り組んでおり、「ガバメント・クラウド・ファンディング」や寄付で資金集めを行っている。→ 海南市 鈴木屋敷






闘鶏神社 

闘鶏神社は、和歌山県田辺市湊町にある神社である。
伊邪那美命(いざなみのみこと)天照皇大神(あまてらすすめおおみか)など16柱を祀る。
古くは、田辺の宮と称し、熊野三山への中継地として熊野権現を祀り、新熊野権現(いまくまのごんげん)とも呼ばれて、三山の別宮的存在であった。
「平家物語」巻11鶏合壇浦合戦の段によると、源平合戦で熊野水軍の力を両軍から援軍として請われた熊野別当湛増(たんぞう)が、どちらに味方するか、赤鶏と白鶏とを七番闘わせ、すべて白鶏が勝ったので源氏に味方することに決定したという。
それ以来、新熊野鶏合大権現(とりあわせだいごんげん)の呼称が生まれ、明治維新の後に闘鶏神社と改称された。
境内には、その伝説を物語る「湛増弁慶の像」があり、弁慶社も祀られている。
また、社務所横には、初代田辺領主安藤直次を祭神とする藤巖(とうがん)神社がある。
毎年7月24日、25日に行われる例祭には、神輿渡御(みこしとぎょ)、笠鉾巡行、流鏑馬神事、潮垢離(しおごり)神事などが繰り広げられ、田辺祭、笠鉾祭と呼ばれて、和歌山県無形民俗文化財に指定されている。
平成28年(2016年)10月に、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された。
JR紀勢本線田辺駅下車、徒歩8分。参拝者用の有料駐車場がある。



延暦寺西塔

延暦寺西塔は、滋賀県大津市の寺院で延暦寺東塔の北西約1.5㎞のところにある。
平安時代初期に最澄が造立した山城国宝塔院を開基としており、伝教大師御廟がある。
釈迦堂は正式名を転法輪堂といい、織田信長の焼き討ちで焼失した後、豊臣秀吉によって三井寺(園城寺)の金堂が移築されたもので、比叡山上で最も古い建物である。
本尊は、最澄自作の釈迦牟尼如来立像で、堂の名前もこれに由来する。
西塔で特徴的なのは、よく似た外観で、渡り廊下で結ばれた法華堂と常行堂である。比叡山の僧兵であった弁慶が渡り廊下を肩にかけ天秤のように担いだという逸話から、両堂あわせて「弁慶のにない(担い)堂」とも呼ばれている。
法華堂では、座禅を続ける常坐三昧、常行堂では念仏を唱え続ける常行三昧という修行が行われ、法華と念仏が一体であるという延暦寺の教えを建物で表している。
椿堂は、昔、聖徳太子が入山したおり、杖にしていた椿の杖をさして帰ったところ、根を下ろしあたり一面に椿が育ったというのが名前の由来で、本尊として千手観音が祀られている。
JR湖西線比叡山坂本駅からバス経由坂本ケーブル延暦駅、比叡山シャトルバスで西塔下車。






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