油屋跡

油屋跡は、大阪府河内長野市三日市町の旧高野街道沿いにある。
江戸時代に紀州藩の本陣を務めたこともあり、高野山御用宿として栄えた。
明治時代には、錦渓温泉の温泉宿として、多くの参詣客が宿泊したという。
庭園の水車は元の油しぼり業の名残で有名であった。
昭和4年に発行された「傳説の高野山」という冊子には、油屋の広告が掲載されており、
水車を中心とした庭園の挿絵が描かれ、次のように記されている。

 京阪地方から高野御参詣道筋で昔一番賑った三日市の宿場。
 その中でも数百年来の歴史と大名宿で知られた當油屋は明治廿三年の七月五日に
 畏くも山階宮晃親王殿下から浴室の下を流るる石川両岸の絶佳なる風光を嘉賞せられて
 「錦渓温泉」の名称と御宸筆とを賜ったのであります。
 客室をめぐらす寂びた大庭園には春は花、秋は紅葉、四季とりどりの花弁艶を競ひ、
 鯉魚跳ぬる池面にハラハラと散りゆくさまなど誠に捨てがたき風情があります。
 高野御参詣、御下向の道すがらには、是非御立寄りの程を。
 =お中食は一圓より=
 鮮魚御料理 御団体歓迎 客室三十餘
 南海電車高野線三日市町驛より二丁
 天然ラヂユーム 錦渓温泉 油屋
 電話 長野十四番(略)

油屋は昭和50年に廃業し、現在は油屋本陣天誅組史跡の石碑が建てられている。
幕末の文久3年(1863)天誅組一行は、富田林甲田の郷士 水郷(にごり)善之佑邸に宿泊し、
三日市の当油屋で朝食をとり、観心寺の大楠公の首塚に参拝し討幕を祈願した。
石の扉には次のように刻されている。

       天誅組と三日市油屋
 文久三年(1863)八月十七日未明、三日市宿に時ならぬ太鼓や鉦が鳴り響いた。
 公家、中山忠光を盟主とする尊王攘夷派の志士の一行が、天皇の大和行幸を契機として
 討幕の兵を挙げる大和五條に向かうため、油屋に到着したのである。
 彼らはここで休憩し、この間に態勢を整えた。
 当時、当主の油屋庄兵衛は三日市近在の村からの人足徴用や駕籠の手配など、
 彼らの世話をしたと語り伝えられている。(略)→ 天誅組ゆかりの地

明治4年(1871)2月には、日本最後の仇討と言われる高野山神谷の仇討では、播州赤穂藩の村上一族も当油屋に宿泊している。
高野山奥の院23町石西側には、三日市錦渓温泉油屋墓所がある。
南海高野線三日市町駅下車徒歩5分。


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