天誅組河内勢顕彰碑は、大阪府富田林市の錦織神社にある。
中央の顕彰碑には、次のように刻されている。
(表面)
天誅組河内勢顕彰碑
花と咲き
花とちりにし人々の
若き命を誰が惜しまざる
菊の下水
(裏面)
昭和三十八年十一月三日
天誅組百年祭記念
大阪府知事 佐藤 義詮 題
顕彰会長 田中 正雄 歌
向かって右側の副碑には、次のように刻されている。
文久三年八月十七日、天誅組河内勢六十余人は、中山忠光卿を盟主とし、皇軍の先鋒として甲田水郡邸を出発し、
同日長野三日市を経て観心寺の後村上天皇を排し、大楠公首塚の前で血盟を誓い、千早峠を越えて大和に入り、
五条代官を屠りてその所領を天朝直轄の御地御民を宣言し、討幕の第一声を挙げた。
然るに翌十八日突如として京都に政変起り、廟議一変し却て逆徒として追討せられることとなる。
然れども少しも之に屈せず、至誠の必ず天朝に達することあるべきを確信し、兵を十津川郷に募り、吉野の山野を血汐にそめて孤軍奮闘し遂に刀折れ矢尽きて、
僅か四十日にして九月二十四日、或は鷲家口に戦死し、或は紀州竜神に捕えられて、翌元治元年七月二十日京都に於て斬首された。
実に明治維新の再来百年の星霜を経た今日、我国未曽有の繁栄の礎を築いた天誅組河内勢の遺勲は永久に忘れてはならない。
頃日河内精神を提唱してその郷風を振作せんとする我等同人先賢の事蹟を顕彰し、茲に建碑したる所以を誌す。
昭和三十八年十一月三日
水郡 庸皓 撰
伏井 岩太郎 書
向かって左側の副碑には、次のように刻されている。
天誅組河内勢志士 並 関係者氏名
甲田村 正五位 水郡善之祐(三十九才) 長野村 吉年 米蔵(四十九才)
同 正五位 水郡英太郎(十三才) 同 従五位 武林 八郎(二十二才)
同 従五位 森元伝兵衛(三十才) 同 内田 耕平(二十三才)
同 浦田 弁蔵(三十三才) 同 東条昇之助(三十九才)
同 正五位 和田 佐市(二十二才) 向野村 従五位 秦 将蔵(三十六才)
新家村 鳴川清三郎(三十七才) 鬼住村 上田 主殿(二十二才)
富田林村 仲村徳治郎(二十五才) 大ケ塚村 正五位 長野 一郎(二十七才)
同 正五位 辻 幾之助(二十九才) 道明寺村 従四位 伴林 光平(五十一才)
同 三浦 主馬(四十八才) 法善寺村 従五位 田中楠之助(二十一才)
甲田村 谷塚与三郎、森本久蔵、宮村与三郎、万治郎、直吉、新七、治郎兵衛、留治郎、繁蔵、増吉、
錦弥治郎、嘉右衛門、清治郎、庄五郎、辰蔵、岩吉、庄治郎、房五郎、秀吉、八治郎、
吉兵衛、利左衛門、忠五郎、寅蔵、辻宇吉
富田林村 長野屋嘉助、甚右衛門、なだ嘉、利助、嘉兵衛、提灯屋政治郎、大阪屋駒四郎
山田村 庄屋栄蔵
長野村 吉川治太夫、米屋留蔵、吉井見竜
新堂村 松原縫殿、林大門
彼方村 梅蔵
大ケ塚村 弥助、馬丁の鉄
甘南備村 松崎万吉
三日市村 油屋庄兵衛 → 油屋跡
八尾村 塚口源太郎、庄左衛門、熊吉
→ 天誅組ゆかりの地
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