上田主殿の墓

上田主殿の墓は、大阪府河内長野市神ガ丘にある。
長野公園延命寺地区(奥河内もみじ公園)の僧浄厳の墓夕照もみじのほぼ中間に位置する墓所内にある。

墓石には、次のように刻されている。
(正面)
明治維新 勤皇志士
上田主殿墓□
(右面)
林 總□
上田一□
加藤 鐵之□
(左面)
昭和十八年八月□

上田主殿(とのも)は、鬼住村の庄屋の子として生まれ、天誅組に参加した。
しかしながら、中心のメンバーに対して意見具申したことが原因で、同じ天誅組仲間に斬られた。
大阪府富田林市の錦織神社にある天誅組河内勢顕彰碑(副碑)には、「鬼住村 上田主殿(二十二才)」と刻されている。

富田林市史第二巻に次のように記されている。
さて吉村寅太郎らが尽力していた十津川募兵は、当初から予定していたものではなかったうえに、(中略)性急かつごり押しの無理なものであった。
十津川の内部事情も単純ではなく、いわゆる幕府派と朝廷派といったものが存在し、募兵に直ちに応じようとするものと、慎重にのぞむものがあったとおもわれるが、有無を言わせなかった。
(中山)忠光に対して、勅命には従うが、先般五条代官を殺害したのは疑問であり、京都に伺いをたてたうえでお供したい、という意見を揚言した十津川の玉堀為之進と河内の上田主殿が斬られた。
上田は代々神戸藩士の出で河内鬼住村で代官を勤めた家柄、一六歳のとき江戸へ下り水戸藩邸に出入りし藤田東湖に師事した理論派であった。(後略)

上田主殿の異母兄 四郎五郎清高(弧月院)が墓を建立し、昭和18年(1943)四郎五郎清高の孫 上田一枝が本件墓石を建立したあと、美加の台団地の開発で、延命寺に移転されたという。→ (続)延命寺と上田主殿



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