明智(恩田)孫十郎直経の墓は、岐阜県山県市富永にある。
神明神社南に恩田家墓所があり、墓碑には父母と孫十郎及び妻の戒名が刻まれている。
孫十郎の戒名は、心源院殿涼月常居士で、右には没年月日の天正十年六月二日が書かれている。
明智(恩田)孫十郎(1541-1582)は、恩田与惣左衛門直實の子として生まれ、美濃国守護の土岐頼芸に仕えた。
18歳の時、大桑城攻めがあり、孫十郎が決死隊を組んで四国山城(道三が大桑城への兵糧入れ防ぐためにつくらせた城)を奇襲し、兵糧道を確保したといわれる。
その時の武功で、頼芸から山県郡内に領地2か所と、「土岐の鷹」と呼ばれる絵(頼芸が好んで描いた鷹の絵)を拝領した。
土岐頼芸が近江国に逃亡した後は、諸国を渡り歩き、その頃に明智光秀と巡りあった。
恩田孫十郎は明智光秀の側室の妹を正室に持っていたことから、光秀から「明智」の姓を賜り、それ以降「義弟 明智孫十郎」と名乗って、光秀に仕え、亀山1万2千石の扶持を得た。
天正10年6月2日の本能寺の変では、織田信長自害後に、信長嫡男の信忠を討つべく二条城に攻め入ったが、乱戦の中、明智孫十郎は二条城で討死した。
当地から直線距離で500m北東には、桔梗塚(明智光秀公の墓)がある。→ 明智光秀ゆかりの地
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