桔梗塚(明智光秀公の墓)  光秀公ゆかりのうぶ湯の井戸跡

桔梗塚(明智光秀公の墓)、光秀公ゆかりのうぶ湯の井戸跡は、岐阜県山県市中洞地区にある。
現地の案内板と、山県市の資料には、次のような説明がある。

明智光秀ゆかりの地 桔梗塚 (明智光秀の墓)
生誕の地と伝わる中洞地区
 ここ中洞地区は、明智光秀が生まれた土地だと言い伝えられています。
 その伝承によると、光秀は土岐元頼(基頼)と、中洞の豪族である中洞源左衛門の娘との間に、長男として生まれたといいいます。
7歳の時に父が亡くなったことから、美濃国可児郡(現在の岐阜県可児市)の明智城主・明智光綱のもとで軍学兵法を学び、やがて養子となったと伝えられています。
 当地の白山神社境内には、光秀の母がうぶ湯の水を汲んだという井戸跡が、また近くの武儀川には、光秀を身ごもった際に母が「たとえ3日でも天下を取る男子を」と祈ったという行徳岩があります。

本能寺の変」後も光秀は生きていた?
 光秀は山崎の合戦で命を落としたというのが通説ですが、中洞地区では「合戦で死んだのは影武者で、光秀本人は生きていた」という言い伝えがあります。
光秀は郷里の中洞に落ち延びた後、身代わりとなった影武者・荒木行信の忠誠に深く感銘して「荒」と「深」を取って自ら荒深小五郎と名乗り、中洞の地で暮らしました。
その後慶長5年(1600)、徳川家康の要請で、関ヶ原の合戦に向かう途中、増水した薮川(根尾川)で馬と共に押し流されて亡くなったと伝えられています。
 当地の林の中に、桔梗塚とよばれる光秀の墓があります。塚の名称は明智家の家紋が桔梗であることに由来しており、荒深家の人々によって毎年2回、供養祭が行われるなど大切に守られています。
 光秀は自らの領地で善政を行い、家臣や領民に慕われたと語り継がれており、中洞地区に限らず全国各地で祭事や供養祭などが続けられています。光秀は、土岐・明智家の再興や領民の幸せを叶えたいという思いを胸に秘めていたのかもしれません。

岐阜バス板取線樫瀬バス停下車徒歩15分。関広見インターから車で15分。→ 明智孫十郎直経の墓 明智光秀ゆかりの地



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