近松門左衛門文学碑は、大阪市中央区高津2丁目にある。
昭和59年(1984)の国立文楽劇場完成を記念して、松屋町筋沿いに建立された。
近松門左衛門作の人形浄瑠璃 心中重井筒(しんじゅうかさねいづつ)下之巻「道行 血潮の朧染(おぼろぞめ)」の次の一節が刻まれている。(Yahoo知恵袋 参照)
ここは竹田か夜は何時ぞ。五ツ六ツ四ツ千日寺の鐘も八ツか七ツの芝居。
二人が噂世話狂言の仕組の種となるならば、我を紺屋の片岡に、何とか思ひ染川は台詞に泣いてくれよかし。
包む袂の飛騨掾。二つ番(つがひ)の手妻(てづま)にも、かかるなりふりうつすとも、この思をばよも知らじ。
心中重井筒は、宝永4年(1707)末に大坂竹本座で初演されている。
1704年に大坂万年町の紺屋徳兵衛と六軒町重井筒屋の遊女が心中した事件に取材した3巻の世話物で、近松門左衛門が55歳の時に書き上げた。
大坂万年町の紺屋の入婿 徳兵衛は、実家の色茶屋 重井筒屋の抱え女郎 お房と馴染みを重ねていた。
そのお房の危難を救う金を工面するため、計略を考え養家を担保に銀を借りたが、妻のお辰の貞節に心打たれ、事実を明かして銀を返した。
お房は約束の時刻に徳兵衛が姿を見せないため自害しようとしたが、家人に発見された。
お房の身を案じて重井筒屋を訪れた徳兵衛は、夜半、屋根伝いに忍んできたお房と心中の決意を語り合い、重井筒屋を脱出する。
上記の「道行 血潮の朧染」は、徳兵衛とお房が樽屋町から道頓堀へ抜け、高津の大仏勧進所を最期の場所に定めて行く場面で語られる。
→ 近松門左衛門ゆかりの地
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